「Dash!!」2

 

「榊さんの弱点?えー、…思いつかないわ、そんなの」
3時のお茶を運んできてくれた由真子はそう言って俺の質問をあっさりと撃破した。彼女は藤方の屋敷の生活面を取り仕切る女性だ。祖父さんの会社の秘書課からの出向あつかいで、半住み込みらしい。
「でも、普通何かあるだろ人間なんだから。ほら、苦手なものとかさ」
彼女は時々、弟をからかうような様子で、恭の話相手をしてくれていたりする。
「んー?…甘いわよ恭くん。あの人を一般人と同列に考えると痛い目にあうわよ」
何故か楽しそうな口ぶりで由真子は笑う。
……それがどういう意味だか全然っ知りたくないぞ俺は。
「どうしたの急に?敵を知る前に己を知ったほうがいいんじゃない、健全な傾向と対策としては」
すでに屋敷の使用人全てが俺たちの「おいかけっこ」を娯楽だと思っているらしい。
「……そんなのんきなことは言ってられないの」
そう。このどうしようもない焦りようは先刻の榊の発言に起因する。
朝、屋敷についてすぐ、奴は俺にこう言った。

 

「そろそろ脱走ごっこも飽きてきましたし、ここらで期限を区切りましょうか?」
あまりに突発的な発言だった。…俺にとっては。
「え?」
そんな話は聞いて無いぞっ。
「そうですねえ、あと一週間。それで達成できなかったら諦めてもらうということで」
「そんな、期限付だなんてそんなの約束になかっただろ」
かっとなって叫んだ俺を仕方無い、という顔で見下ろして、
「約束なんて初めから無いでしょう。あなたにあるのは制約だけですよ」
「なっ……」
「自分の権利を主張するのは、一人前の人間としてやることを果たしてからにしましょうね」
あまりの言い種に俺は完全に反論する言葉を失った。
「ああ。もし1週間が経過した後も逃走の意思が改善されないようでしたら、体内に発信機埋め込こむなり鎖でベットに繋いでおくなり薬で抵抗を封じるなりの対策は講じますのでそのおつもりで」
えらく非現実的に具体的なその案に背筋が寒くなる。
「人権侵害だっ」
やっとのことで叫んだ俺に奴は微笑んだ。
「治外法権です」
やる。奴はやる。本能的が危険信号を発していた。うわあああっ。未来のことなんて考えたくない…。

 

「やっぱり、やるなら不意打ちよね」
一通り話を聞き終えた由真子がきらりと目を光らせて楽しそうに遠くを見た。
「…人の不幸を喜んでるだろ、あんたたち」
その反応にがっくり疲れてしまう。いたいけな青少年の見方をしようという気はないのかあんたたちはっ。
「いやーよ、そんなの。大体、どうしてお家貰うのが嫌なの?でかいお屋敷や財産そっくりそのまま好きなように使っちゃえばいいじゃない。我慢なんてわずかの間よ」
不意に、ぴしりと現実主義な女の目で詰問する。
そりゃあ、最初はね。俺もラッキー、なんて思わなくもなかったけど。
「なんか、違うだろ。それじゃ全然意味が無いんだ。子供の甘い考えかも知れないけど、このまま状況に流されて、他人にお膳立てしてもらった安全な場所にいたら、絶対自分が変わっていく。……そうじゃなくて」
口では説明し切れない焦り。肌でひりひりと感じる違和感。
「ごめん。自分でもよく分からないんだ。…贅沢な我がままかも知れない」
由真子の目がふっと和らぐ。
「あら、苛めすぎたかしら。でも確かに水が合わないってこともあるでしょう。思ったより真面目に事態に向き合ってるんで感心したわ。私はね」
囲われてるのが性に合わない気持ちはよく分かるから、と微笑む。
「うん。でもその顔ならイケるかも。そんな気弱な表情されたら思わず押し倒したくなるわね」
「はあ?」
「ふふっ。ますます楽しみ〜っ。ま、頑張りなさいな青少年」
仕事仕事、と鼻唄でも歌い出しそうな雰囲気の由真子後ろ姿を見送りながら、俺はますます深くため息をついた。。

 

打倒、榊。そうそう、そもそもの目的はそうなんだ…。あれ、違ったか?
奴をだまくらかして逃げおおせればそこに自由が待っている、はず。なのに。
なんだかひどく頭ががんがんする。あれ…、普段使わない頭を使ったせいかな。
寒い。……ここには、いたくない。
「恭さん」
嫌だ。もう、誰もいらない。
「恭さん?」
呼ばないでくれ。このままでいい。放っておいて。二度と振り返らないで。
……最後に、手を振り解かれるくらいなら。
「恭さん」
急に視界が明るくなる。頭を鈍い痛みに苛まれながらも、男の姿が目に映った。
「榊…」
「こんなところで寝ていたら風邪を引きます。…部屋へ行きましょう?」
「…うん」
あれ…?俺どうしてたんだ?
ああ、夕食後にテラスに出てぼーっとしてて。
それにしても頭ががんがんする。
顔を上げたら、水が頬を伝い落ちていった。
え?
「泣いていたんですか」
榊の声が低く響く。
「……分からない」
指先でそれを拭いながら答えた。
「哀しいことでもありましたか」
「……そんなこと」
「この屋敷にきて、淋しかったですか」
見上げると、榊の瞳と視線がぶつかった。気まずくなって、あわてて逸らす。
急に、なんだか怖くなって。自分の足元がひどく頼りなく思えた。
奴の声を振り払うようにして立ち上がる。この場にいては、いけない気がした。
「部屋に戻る」
「ええ。体調を崩してはもともこもないですからね」
「分かってる」
最後の台詞でようやくいつもの強気を少しだけ取り戻して、俺は足早にその場を後にした。
早く、奴の視線から逃れる為に。

 

恭の姿を見送って、榊は一人テラスで煙草に火を付けた。紫煙を、ゆっくりと肺に吸い込む。
「見たわよ。…私にも一本分けて下さらない?」
戸締りをしに来ていた由真子が背後から声をかける。
「禁煙中じゃなかったのか」
驚いた様子も見せず、榊はそうは言いながらもポケットからシガレットケースを取り出す。
「だから一本だけね。…お疲れさま」
「そちらこそ」
お互い、食えない笑顔で微笑みあう。
「子守ははじめてだから、最初はどうなることかと思ったけど」
しばらくの沈黙の後、由真子がそう切り出した。
「可愛い子でよかったわ」
「それはよかった」
なにげない口調でそうつぶやく榊の横顔を見て由真子は肩をすくめた。
同じ屋敷で顔を合わせる者同士、仕事外でのつきあいはあっても、どうしても彼の本性は掴みきれない。
「嘘つき」
榊は黙って由真子の言葉の先を促す。
「よくまあみんな単純に受け止めてるわね。この人気に入らなければどんな子だってさっさと放り出すわよ。あなたはそういう人だもの。……本当は凄い目で見てるくせに?」
挑発する視線。
「それはやはり、愛憎は紙一重だからじゃないか?」
どうでもいいような平坦な口調とは裏腹に、人の悪い笑顔で榊が笑う。
なんとなくそれは、誰かがそれを自分に叩き付けるのを待っていたようにも見えて。
「…ああ。訂正だ今のは。今のは失言。現状を棚に上げて意味の無い一般論を口にするとは我ながら不覚。……思ったより動揺が激しいかな」
顔色ひとつ変えずに、にっこりと隙のない笑顔でどこまで本気なコメントなのか判断に苦しむ台詞を吐く。その可愛げのなさ。
「……まあ、あたしとしては滅多にない貴方の本音を聞かせてもらったからそれでもいいけど?」
妙な疲労感を背負って、由真子が呆れたように言う。全く、本当に素直じゃない。
「ごちそうさま。ここの鍵は任せるわね」
営業用の笑顔を張り付け手早く煙草をもみ消して、告げる。
誰も簡単に本当のことなんて言えない。そんなことは知っているけど。
嫌いじゃないけど苛々する。その居心地の悪さを黙殺するのは大変なのだ。彼は知らなくても。
(つまんないなー。勝ち目無しか)
今夜の酒は、大量にいりそうな気がした。

                   To be continued ?

STORYへ