「ある夜」
「もう止めよう」
その言葉を何度聞いたか知れない。その度に口唇を塞いで誤魔化したけれどそれでも。他人の気持ちを押し留めるのには限度がある。
ずるいのは知っていたけれど、聞きたくないと耳を塞ぐその一方で、彼が終わりを告げてくれるのを待っていた。。彼が決めてくれなければ僕はいつまでも彼の傍らにしがみつき続けただろう。
自分が男で。彼には妻と子供がいること。
そんなことは一生知りたくなかったけれど、本当はずっと前から気づかぬ振りをしているだけだった。
仕方ないと言い訳のための切り札にしていたのはどちらだったのか。
ひとりでいるのがどれだけ寒くても。
お互いのずるさを知っていながら平然と傷を舐めあっていられるだけの強さもなくて。
何が哀しかったのかさえ、もうわからない。
寒くて死にそうだから誰かここに来て暖めて。
誰でもいいなら痛みなんて感じない。なのに擦れ違う見知らぬ誰かの腕にすがりつきたくなる位には、冬の夜は冷たすぎる。
愛してる。愛してる。愛してる。
偽りばかり繰り返して砂糖菓子のように甘ったるい言葉で慰めあった。
今はもう隣にはいない人の声が胸に響く。
本当に辛いのは。あなたが居ないことではなくて。
部屋に一人で居るのがいたたまれなくて街へ出ても、誘いを断わられるのが怖くて友人に電話もかけられないでいる自分の臆病さが。
土曜の夜、混みあったファーストフードの明るい喧騒の中で、目の前に置いたぬるいコーヒーカップ。それが今僕とこの場所をつないでいるただ一つのもの。
何度も時間を確かめても、この先の予定も待ち人もない。
行き場が無くて席を立つ決心がつかずにいるこの今が。
震えそうなほどに寒い。
「蒼太」
うつむいて靴の爪先を見つめていた視線を横切る影が目の前で止まった。
「蒼太?」
聞き慣れた声が僕の名前を繰り返すのに視線を上げると、私服姿の弟が立っていた。
「一人か?」
記憶よりまた一段と子供っぽさの抜けた姿。
昨年からはじめた独り暮らしで、数ヵ月ぶりに見る3つ年下の弟。
思いがけない場所で会う人物に泣きそうになるのを堪えたら笑いが込み上げてくる。
「あん?」
それに不審な顔をしつつも、陽司は長身の身体を折曲げて、友達らしい連れに手を振って向かいの席に座り込んだ。
「なんだよ?」
じっとこちらを見つめる黒い瞳。そう、随分と久しぶりだ。
優柔不断でふらふらとした長男に比べてしっかりと頼りになる次男。周囲の認識はいつもそうだった。それを不満に思ったことはないけれど。
時折、自分の心の底まで見透かされるような強い視線が怖くて、恋人と別れるまでの数ヵ月間は出来るだけ会わないようにしてた。
「…凄い偶然だな」
「今日は模擬試験の会場がこっちだったから。…蒼太がこんな店に居るほうが意外なんじゃないか?」
昔から学生が集まる場所は苦手で。よく、そんなことまで覚えてるな。
「うん」
「…蒼太」
名前を呼ばれる。
そのことが思いがけないほど心強くて。
「…会いたかったから、かな」
うん。ずっと会いたかった。暖かい気持ちをくれる人に。
END
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