「サンクチュアリ」

 

動き続ける街の風景だとかそんなものを忘れていた。
おとぎ話の扉を開けるあのそうっと水面を揺らす感じとか。
高速で展開される隣人の物語とか。溢れるイラナイもの貼りつけるラベルだけ変えて、違う顔ですましてるけど正体は知ってる。
相変わらず騒がしい。
どうして皆別の人間なのに誰もが誰かの脇役を演じながらこんな数のひとが呼吸しているのか。
探しているのはただ一人の偶像。誰が貴方に幻を追うことを教えた?
見えない場所で繰り返される他人の人生は点滅する光になって遠い場所でそれを見つけた誰かの手に握られたりする。
不条理だとか不平等だとか慣れされすぎて痛みを忘れてる。泣き声は遠ざかり叫びは声にならなくなる。
安全な場所で見てる現実は物語りでしかなくなる。
痛くないモノだけ選んでするなら君の知ってることは知らないこと。
明日食卓に上る悲鳴の数だけ罪は犯してる。偽りに汚れた手はキレイじゃなくても着替えて出かければそれで済むし。
伝わらない伝言を気にはしても振り向かない。

 

「おい、捨ててあるのか?それは」
「は?」
時計はとっくに日付変更線を越え、明日が今日にすり変わったことを示している。
突然声をかけたのはコンビニの袋を下げた仕事帰りの若い男。
かけられた方は惚けたように雨に濡れたまま路上に座り込んでいる少年。
折しも先刻から雷が鳴りだし、降り出した雨はその勢いを強めている。
「悪いが俺は後10時間足らずで大事な会議を控えてるんだ。おまけに雨には降られるは喰い飽きたコンビニ弁当しか手に入らないわ、とにかくいい加減機嫌が悪い」
背の高い、高価そうなスーツを着こなしたが男が唐突に自分に向かって理解の及ばない台詞を吐き出したのに戸惑って千聖はただきょとんと男を見上げた。
「誰か待ってるのか?」
静かに首を振る。
「これからどこかに行く予定はあるのか?」
これもまた否定する。
「わかった。俺が拾っていく」
訳のわからぬまま腕を取られる。
「あの…っ」
抵抗は意味をなさぬまま、強引な手のひらに捕まってしまう。
(もしかして、実は酔ってるのかこの人?)
こんな時刻、道端で座り込んでいる方も問題だが、それを「拾って行こう」などと言い出す輩の方がもっと問題ではなかろうか。
足取りもしっかりしているし、全然酒が回っているようには見えないけれど。
「安心しろ。俺は善人だ」
千聖の心を見透かすようにして、男は不敵な目で笑った。

 

結局、細身な外見とは裏腹に強い力を振り切れなくて、強引に連れ込まれた先は、男の独り暮らしには随分と広いマンションだった。
「あの…」
戸惑いながらも声をかける。本当はもっと早くそうしたかったが、男の厳しい横顔にタイミングを失って。
自分を善人だと恥ずかし気もなく言い切った男は、その後一切の説明をせぬまま千聖を部屋へと放り込んだ。
「俺、帰りますからっ…」
「どこへ?」
手を離されたとたんに、感じていた緊張がゆっくりと溶けていく。
「家出か?」
熱を持った頬に冷たい手を当てられて、千聖は怯えるように後ずさった。
「腫れてる。…友達と喧嘩でもしたか」
顎をつかまれ、仰のかされる。検分するように細められた視線が、痛い。
「そんなに警戒するな。…何もしない。ただ、朝まではここにいろ」
他に怪我は?と尋ねられて首を横に振る。
本当は、全身に感じる鈍い痛み。でもそんなことは口に出せない。
「どうして、ですか…?」
男は千聖にタオルを放りながら、面倒そうに口を開いた。
「さっき駅前にパトカーが溜まってた。野次馬をつかまえて聴いた話だと、なんでも酒の入ったどっかの馬鹿が傷害事件を起したらしい。犯人は今だ凶器を持って逃走中。この近辺をな」
だから放っては置けないだろう。本来おせっかいは死ぬほど嫌いなんだが、と苦い口調で付け足して。
千聖もやっと、男の非常識な言動の意味を理解する。
「いたいけな子供を見捨てて、夢見が悪くなるのはごめんだからな。…俺は柳瀬。風呂はあっちだ。腹は減ってるか?」
ふるふると首を振って、千聖は柳瀬に示された風呂へと向かった。
全て、信用した訳ではないのだけれど。でももう今夜は疲れすぎていて。
眠れる場所なら、どこでも良かった。

END

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