「太陽と月」

 

はかなくて壊れやすくてそれでも丈夫な何かが欲しいから。
嘘は吐き続ける。
心と身体を秤にかけた、壊れやすい日々。

 

午前四時。まだ眠りについた誰もが、ようやく朝の気配に包み込まれようという時間。
都内某所の高級マンションの一室では、無機質なコール音が響いた。
玄関ドア横の表札には「S.Kagami」とそっけない文字が掲げられている。
各務史紀。それがこの部屋の持ち主の名前だった。

 

早朝という時間帯にためらいもなく長く響くコール。
相手は誰だか分かってる。携帯ではなく、この部屋に直通で電話を掛けてくる者の数などたかが知れているのだ。片手の指でも十分な、彼の身内。
「はい」
書類を打ち込んでいたキーボードから手を離さずハンズ・フリーの受信スピーカーから応対に出る。明瞭な、低い声。
[高島です。史紀様、お仕事中でしたか]
電話の向こうからは若い男性の、耳に馴染む声が流れ出す。年齢にして10違う、彼専属の秘書からだった。
「いや、構わない。それで?」
手は止めずにその先を促す。高島が正式に史紀の秘書として配属されて3か月が経つが、この主従の関係の円滑さは時として周囲の人間にため息すらつかせる程になっている。
[密紀様の所在が確認されました。また、大学のご友人宅のようですが…]
ぱた、と史紀の指先が止まる。
密紀、とは史紀の3つ違いの兄の名だ。
[外見は平然となさってらっしゃいましたが、いささか顔色が優れないようにお見受けしました。深夜のアルバイトをなさっているそうですが]
馬鹿が…、と低く吐き出された史紀の声を高島が黙殺した。
「分かった。とりあえずその友人宅とバイト先の住所をFaxで送ってくれ」
[承知しました。……朝、お迎えに上がりましょうか?]
秘書が柔らかな声で訊ねる。
「いい。今日はこれから少し眠るよ。高島も人のことを気づかっている場合じゃないだろう?」
[この位で弱音は吐けませんよ]
笑いを含んだ声は、もう一週間も会社に泊りがけている疲れの気配すら読み取らせない。
「了解。じゃあ、今日の午後に」
時計を見ながらノートパソコンの電源を落とす。
[ええ、夕食はご一緒できますね。……あまり喧嘩はなさらないように]
兄のような台詞で忠告を残し、音声は跡絶えた。
通話ランプが切れたのを確認して、史紀は寝室へと向かった。

 

総合レンタルの分野で、自社をトップに追い上げた男が急死したのは5ヵ月のことだ。
それが、各務文昭。史紀の実父だった男は54才で亡くなった。
工業器材から観葉植物、旅行用品、貸衣装、CD、あるいは現金などあらゆるものを棚に並べて、時には他人の夢を叶え、時には他人の人生を踏みにじった男の人生も終わる時はあっけないもので、心筋梗塞なんてものにあっさりとやられてしまった。
葬式は盛大に行われたが、周囲の関心は次の後継者に向けられるむき出しの好奇心のみ、と言っても過言ではなかった。
男には実子が3人居て、その誰もがその時点で未成年だった。
当然、年商を億単位ではじき出す会社を後見人という立場で手に入れるには又と無い好機。
男が弁護士に先手を打っておかなければ、欲深い誰かのいい食い物にされていただろう。
子供達の後見人を押しつけられた人物は男の年の離れた弟で、若い頃、兄の強引な商売に反発を覚えて各務の家とは縁を切ったと公言している。彼も若くして友人と会社を設立し、いまではそこそこ名の売れた企業になっているのだから、商才はある家系なのかもしれない。
とにかく。その叔父が子供達に出した条件が一つ。
「半年後に後継者披露のパーティーを開催する。それまでに会社側の人間と折り合いをつけて必要なことは全て終わらせておけ。誰が後継者でもかまわんが、俺が面倒を見るのはそこまでだ」
その期日まで、後1ヵ月。

 

手元の住所を頼りにたどり着いた先は小奇麗なオートロックのマンションだった。
学生向けなのだろう、どこか閑散としていて生活感があまり感じられない。
高島から送られてきた情報にはきちんとオートロックの暗証番号が記されてある。
管理人は不在だ。
史紀はためらいもなく中に入る。
階段を登って305号のプレートが張られたドア。表札には「相川」と細い女文字で書かれていた。
不自然に力をこめてしまった手を解く。
インターホンの呼びだし音2回。
[…はい?]
警戒の素振りもない、のんきな声。
「密紀、俺だ」
少々の苛立ちを込めた声で史紀は告げた。
「久しぶりだな」
ガチャンと耳障りな金属音を立てて、扉が開いた。

 

「よくここが分かったね…。また、調べたんだ?」
女性の独り暮らしというには随分殺風景な、白い壁の目立つ部屋だった。
「黙って行方をくらますから探すのに手間がかかる。居所くらい伝えておけ」
呆れたようなその声に、とっくの昔に弟に身長を追い越された兄が、勝ち気な瞳で史紀を見上げる。
「お前がここに来るとは思わなかった」
「俺もまさか、自分の兄が女性の部屋に転がり込んでるとは知らなかったよ」
細めた目で微笑む。
「そんなんじゃない!!……妙な誤解するな」
目元を赤くして必死に言い募る、兄の単純さは昔から変わらない。
「深夜のアルバイトをしてるんだって?」
「何それ?」
「違うのか?」
「お前いつも情報遅すぎ」
低く笑った兄を史紀は強い瞳で見つめる。
「……正式に各務の後継として決定が下った」
なげやりな弟の言葉に、密紀一瞬身をすくませたのが分かった
「へえ」
「戻ってこい」
独善的な台詞。
「発表パーティーには出席する。……それでいいだろう?」
「叔父たちが出した条件の一つにお前を呼び戻せと」
「……知らないよ、そんなこと。俺が頼んだ訳じゃない」
強がった言葉とは裏腹に、泣き出しそうな瞳。自覚が無いのが余計に質が悪い。
「密紀」
「俺を丸め込もうとするな。巻き込むな。家なら勝手に継げばいいだろう。俺はいらないから」
元々華奢な身体が、より細くなったように見える。掴んだ二の腕が、服の下の頼りなさを顕著にあらわしていた。
「痩せたな。これじゃあさぞ、抱き心地も悪かろうに」
「離せ…っ」
弟の腕を振り解こうとするが、力の差は明白で。
「たがらあんたはいつまでその安全な場所から他人の汚さを暴いてれば気が済む訳?」
抗う腕を力でねじ伏せて、耳元に囁く。
「それで抵抗してるつもりか?ハタチにもなって親の残した金で大学行ってお勉強するしか出来ないでアンタに何を言う権利がある?いつまで自分だけはきれいでいるつもりだ?」
「史紀…」
「被害者面したって俺たちがあの親父の稼いだ金で今まで衣食住全て賄われてたこと変らないだろう?それならもう充分立派に共犯だろお前も」
兄が父親の事業をよく思っていないのは知っていた。でも父の葬儀の後、家を出た兄に感じたのは紛れもない憤りで。
「卑怯に取り繕って知らなかったで済ませればそれであっさりキズは消えるのか?振りかざす場所間違えるなよその正義感は」
「史紀…っ」
「今日は帰る。じゃあな」
急速に熱を失ったように、史紀は兄を振り返りもしないで部屋を後にした。

                          つづく

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