「太陽と月」2

 

「ご気分が優れないようですね?」
運転席から含み笑いをもらしながら高島が訊ねる。
「密紀様のご様子は如何でしたか?」
「相変わらずの大馬鹿者だ」
心底うんざり、といった史紀の風情に高島がため息をもらす。
「せっかくの食事の後でやつあたりですか?」
「………」
「嘘です。あなたに甘えられるのは好きですよ、なんだか可愛い弟が出来たようで」
「あんまり苛めないでくれ…」
史紀は苦笑する。他人が聞いたら笑い転げそうな台詞だ、と。
「大事な人に上手に優しくできないのは駄目ですよ」
ふいに真面目な声で告げて、窓の外に視線を移す史紀の横顔に一瞬笑みを浮かべ、高島は口を閉ざした。
「…会社の方はどうだ?」
窓の外の街並みが変わる頃になって、史紀が口を開いた。食事中にはあえて控えていた話題を口にのせる
「…披露のパーティー前に開かれる重役会でも、概ね問題はなさそうです。今のところは。あなたは我が社の筆頭株主ですからね。ただ…、副社長の大内氏の動きが少しばかり気になります」
大内…。史紀は記憶の中から一人の男の顔を引っぱり出す。会社設立当初からのメンバーで、今回の騒動について良い顔をしていなかった人物の一人だ。
「大内副社長、か。彼が何か仕掛けてくると?抜け目ない古狸だからな」
史紀の口調は自然と苦いものになってしまう。確かに大内にしてみれば、苦労して育て上げた会社をただの血縁を理由にただの子供にかっさらわれるのは面白くないだろう。それだけでだって、事を起す理由は十分だ。
「ええ、こちらでも調査は進めていますが、史紀様もお気を付けて。内情に詳しい分、思わぬところで足をすくわれる危険性が」
「分かった」
厳しい表情のまま、史紀は目を閉じた。声にはせず、胸の中でつぶやく。
(密紀。…ほら、お前が逃げ回っている場所はこういうところだ。気を抜いたら餌食にされて喰い尽くされる。弱い子供だと正体をばらせば終わりだ。自分で力を見せつけるしかない。密紀、分かってるのか?…それでも、逃げることは己の弱さを認めることだ)
そんなことを自分に許せるほど、俺は人間ができていないらしい。
別に父の跡だから継ぎたい訳じゃ無い。それが特別な理由にはならない。会社の業績も名前も関係無い。欲しいものは金でも権限でもなくて。そうじゃなくて、本当に我慢ならないのは。
侮られること。己のプライドを捨てること。
だから。お前を、甘えさせてはやらない。

 

マンションの前で高島の車を降り、最上階にある自室へと向かう。疲労のせいか、回った酒が鈍く頭に響く。
自分の靴音すら不快に思いながら部屋の前までたどり着くと、急に内側からドアがあいた。
「おかえりなさい、史紀」
「…貴子」
柔らかい笑顔で史紀を迎えたのは、二つ違いの姉だった。
「来るなんて聞いて無かったぞ」
苦い表情ではあるが、口調は言葉ほどきつくない。
そんな弟に反論して貴子が笑う。
「あら。会いたい時に会えないなんて、そんな淋しい兄弟じゃないわ。あたしの兄弟愛は不滅なのよ。甘く考えていたら駄目よ」
いつもながらの姉の言い分にグラスに水を注ぎながら笑みもらす。
「密紀のことだろ」
どうしてこの人は我がままを隠そうともしないのか。
「史紀の方が大事よ。今はね。でも密紀のことだって忘れてないもの」
素直じゃない言い分。顔は兄との方が似ているのに、性格は弟寄りらしい。
「限定付きか」
「また苛めたでしょう」
貴子の恨めしげな視線を見つめ返しながらとんでもない、と史紀がつぶやく。
「あれ位で泣くような鍛え方はしてないよ」
「ずるいわ、あたしだって密紀と遊びたかったのに…。元気だった?」
「殺してやりたいほど」
「上出来」
揺るがない笑顔で貴子が微笑む。
普段は、その人の悪さなどおくびにも出さず優雅にお嬢様然としている姉。それでもこの人は確実に自分に影響を与えてきた。
事が起ったとき微笑んでいられるのは、それを理解する能力が無いからではなく、それをやり過ごすだけのしなやかな強さがあるからだと気付いて。
「貴子は凄いな」
口に出すはずではなかった言葉が思わず漏れる。
「当然よ。あなたの姉ですもの」
一瞬意外そうな顔をした後、胸を張って言い切った貴子の台詞に二人笑いあった。
それは、史紀が忘れかけていた穏やかさだった。

 

「みつき、いないの?」
玄関ドアの鍵をあける音がして次に、女の高い声が響いた。
ふと目を上げると、時計は午後8時30分をまわったことを示していた。
このマンションの主、相沢佐菜子が塾の夏期講習のバイトから帰宅する時刻だ。
「あら、いるじゃないの。どうしたの?明りも付けないで」
密紀が応えを返すより先に部屋へと上がった佐菜子が問う。てきぱきと明りを付けて、買ってきた食料をテーブルの上に放り出す。
「ごめん。ちょっと考え事してて、ぼーっとしてた」
弱気な微笑みを浮かべる密紀の傍に佐菜子がしゃがみ込む。
「どうした?夏バテ?さあ、とっとと佐菜子さんに吐いちまいな」
冗談めかして心配してくれる友人の気づかいに、密紀はためらいがちに口を開く。
「……弟に、会って」
うん、と佐菜子が頷く。密紀が友人の家を渡り歩いているのは、家庭環境が複雑なせいだとは噂に聞いていて、中には遺産相続の件で兄弟と骨肉の争いをしているなんて言う者もいたが、佐菜子は本人が言わないことは聞かない主義だし、他人の噂がどれだけあてにならないかは良く知っていた。
「自分の腑甲斐なさを…実感した」
「……凄い弟なんだ」
佐菜子の問いにこっくり、と頷く密紀の動作は子供じみていて、彼がひどく傷ついていることを示していた。
「……どんな子なの?」
出来る限り優しく聞こえる口調で訊ねる。
しばらくの沈黙の後、密紀がゆっくりと口を開く。
「……頭がよくて…、格好良くて…、厳しいけど強くて…、なんか、同じ兄弟なのに全然違う人間で…。人望もあるし…。…俺に出来ないことを、軽々とやってのけて。いつも俺、足手まといでっ…」
泣き出しそうに顔を歪める。
「……きっと嫌われた」
本気で傷ついている哀しいその声の響きに、佐菜子は黙り込む。
慰めの言葉は、かけられなかった。

 つづく。

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