「宵」

 

 

下り最終電車の二本手前を捕まえて、降りてみれば駅の外は土砂降りの雨だった。
そういえば台風が接近してるとか言ってたな、とふと思い出す。
間抜けなことに傘は電車の中に置き忘れて。
長く続くタクシーの列に並ぶ気にはなれない。
さすがに今夜は駅の階段でギターを片手に歌ってるどこかのオニーサンの姿も見えない。
(どうしようか)
コンビニで傘を買って帰るのは簡単なことなのだけど、何故かそんな気にもならない。
明日は休みだし、少しぐらいの時間を焦るほどの予定は何も無いし。
夜の駅の少し疲れた乾いた穏やかさは好きだった。時折聞こえる酔っ払いの喧騒も、神経をささくれさせる程ではない。
バイトは忙しくて疲れているはずなんだけれど、不思議に気分が高揚してる。
雨でさえなければ、夜通し風にあたっていたい気分だった。
ホームからはまたも電車到着のアナウンスが流れ、急がない足取りの靴音が響く。
改札から階段を降りてきた人々が僕を追い越し傘を開く。
「今帰りですか」
横に並んだ人影が、不意に口を開いた。
「…あ」
驚いて見上げると、スーツ姿で煙草に火を付けているのは、僕の家のお隣さん、だった。
「こんばんは」
とりあえず、あたりさわりの無い挨拶をする。
(帰り……こんな時間、なんだ)
決して低い訳ではない僕を見下ろす長身が作る影を見つめながらぼんやりとそんなことを思った。
今住んでいる賃貸マンションの防音は、良いとは言えない。夜遅くに開くドアの音を、何度も聞いたことはあったけれど。
独身者向けの造りだから、近所付き合いなんて無いようなものだし。
朝の早いサラリーマンと不規則な生活の大学生。顔を会わせるのはたまのごみの日ぐらいだから。声を聴いても、一瞬そうだとは分からなかった。
「帰らないのか?」
紫煙と共に低い声が吐き出される。
「……傘を、忘れてしまって」
言ってから、変な顔をされるかと思った。コンビニまで行かずとも、閉店支度を始めたすぐ傍のキヨスクで傘は売ってる。
自分の間の抜けた発言に顔から火が出そうになった。
「……俺もだ」
「え?」
「傘。忘れたんだ、俺も」
どうでもよさそうなため息混じりの言葉に苦笑する。
「仕方ないですね」
「ああ」
それからしばらく、二人して雨の音を聴いていた。
最終電車が到着して、最後の一人が僕らを横目に歩きだし、シャッターが閉められる。
その頃には少し、雨脚も弱まって。
「本当は、帰りたくなかったんだ」
耳に心地良い、低い声がつぶやいた。
「一人きり、あんな部屋に帰るのもやりきれん」
ぼやくその言葉はその意味とは裏腹にどこか楽しそうにも響いて。
「……疲れましたか?」
「疲れた」
大人の男のはずの彼の子供のような素直さが妙におかしくて。
鞄から取り出された折り畳み傘を見て笑ってしまった。
「どうせだから待ってましょう。…雨が止むまで」
「…そうだな」
頷いて彼はごみ箱にそれを放り投げた。

END

STORYヘ