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島田 インターネットがアマチュアリズムを加速させた部分は大きいでしょう。読むのではなく、あらゆる人間が書くという傾向は今後ますます加速されると思います。同時に、小説、日記、短歌、俳句、批評でも何でもいい、それらを発表する作業は、退屈をやり過ごすにはじつに手頃なのだと(笑)、オンラインの現状を見てよくわかりました。 だからこそ、プロフェッショナルとアマチュアとはここが違うのだ、プロはここがすごいのだという部分を見せつける義務があると思う。
(p234)
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「電脳の茶の間から、読者へ。」と帯のコトバにもあるように、島田雅彦がこの本の軸になるべき存在なのだろう(「事象の交錯する場」としての「茶の間」は近年の島田雅彦のメインテーマである、ようだ)。日本文芸家協会の電子メディア対応特別委員長でもあるってわけだし。しかし、そのメインになるべき島田雅彦の無知が目につきすぎる。 島田雅彦が「肉体感覚」を理由にキーボードから作品を紡ぎ出すことをしないというのならそれを否定するいわれもないが、いくらなんでももうちょっと現場に精通している人間を軸に据えるべきだろう。もちろんこれは、日本文芸家協会についてもいえることだけどね。 (この本が出版された後の発売であるWIRED(日本語版)97年4月号特集「文学,ビットに殉ず?!」の島田雅彦インタビューもつまらなくはなかったが、「微笑ましき無知」とでもいうべき頓珍漢を語っていた) この鼎談集で目をひいた部分はいくつかあるが、文字コードの問題にまつわる問題は特筆に価する。最近の「文字コードの問題」といえばユニコードの問題だ。 マイクロソフトの陰謀か、2バイト文字圏文化の軽視というべきか、ユニコードでは異字体・旧字体が完全にカバーされないどころか、中国・朝鮮の文字までごっちゃ混ぜにしてしまというのだ。たとえば、中国で使用する漢字と日本で使用する漢字とでは、似ていてもやはり異なっているわけだが、それを同一のものと見なしてしまうのだ。文化侵略といってよいほどの横暴・無神経である。 理想はもちろんTRONコードのように、日本で使われるOSでは日本で使われる(可能性のある)すべての文字を網羅するべきなのだが、そのあたりは一ユーザには手も足も出ないところではある。もちろんBTRONを使うなりといった選択もあるけれど、それはいささか現実的ではないし(興味深いオルタナティヴではあるが)、結局のところマイクロソフトの膂力を頼みにするしかなく、しかしそれがあてにならないのが現状である。まったく頭が痛い。せめて「森鴎外」や「内田百間」はパソコン上でも正しく書きたいものじゃないか? 柳瀬尚紀が『フィネガンズ・ウェイク』にからめてちょっと語っただけだが、PCにおけるルビの問題もいまだに大きい。 私がパソコン通信上ではじめて作品をアップロードしたときに苦心惨澹したのが、やはりルビの問題である。「べたのテクストファイル」というのは英語文化圏からの輸入概念であって、日本語には必須の(と私は考えている)「ルビ」はサポートされていない。件の作品については、結局カッコの中に書き込むという形で対処するほかなかった。加藤弘一が予想しているように、ルビの前後にタグを入れるような形で(HTMLのように)統一基準を定めるべきだろう。漱石はもとより、電脳作家ウィリアム・ギブスンの和訳をインターネット上に置くこともままならないようでは日本語の未来はまだまだ暗い。 「インターネット上の文学」については、基本的にインタフェースという一点に集約されるのではないだろうか、という気もする。井上夢人がこの鼎談でもふれているように、インターネット上の小説の可能性というものを拡大していけば、それはリゾーム的な構造をもったもの、ハイパーテキスト的な小説になる(井上夢人が実践しているようにだ)。 ルビや縦書きといった問題も、基本的にはインタフェースに還元されてしまう――とすれば、いつ、どこが対応するか……それが仮題になる。エクスパンドブック形式は悪いアイディアではないけれど、ブラウザとの連動性が高いわけではないし、一般のユーザがエクスパンドブック形式のファイルを作るにはコストがかかる……これは、普及率が低いということを意味する。PDF形式にしても、閲覧はともかく作成のコスト高は「企業向け」であろう。 対談集の出来としては『茶の間の男』(島田雅彦の語りおろし対談集)のほうが示唆的ではあるし、奥が深い。けれどまあ、読者からの反応を誘発するという点では、この『電脳売文党宣言』も悪くはない。読者が関与できるほどに初歩的な部分が多いともいえるが。 この本に、ハードウェアとして一点惜しいところがあるとすれば、網羅的なリンク集がついてない、ということに尽きる。色々なサイトが紹介されているのだが、それも場当たり的な会話の流れのなかで紹介されているものが多く、一覧性に欠けるのだ。 「編集者の選別により、商業誌では一定のクォリティが保たれていた」という島田雅彦の言葉が真実であるなら、この本の編者はまだまだ二流だということだ。根性入れようぜ。 散発的な感想でちっとも評論や批評になっていないけれど、これはそういう散発的な本である……かもしれない。対談の醍醐味というのは「打てば響く」ことにあるのに、ホストたるべき島田雅彦のパートがずれているようではどうしようもないのだ。 悪くはない本です。それぞれの著者のファンの方はぜひどうぞ。現在、かれらが那辺に興味を持って活動しているのかがよくわかります。 それ以外の人は……わかりやすいものがよければ、いいかもしれない。とだけ言っておこう。 version.1.5.97.09.08.
追記。 WIRED 5月号P116-117にて「デジタルな物語の誕生」(今福龍太)というきわめて興味深い一文を発見したので、一部引用する。 「(……)むしろデジタルな環境の登場が知的生産に対してもつ影響があるとすれば、それは旧来のメディアに対する脅威ではなく、一つの新しい表現の感性を組織しうる道具の登場であるという点にある。とりわけ「書く」「読む」という行為がデジタルな道具立てによってなされる状況を考えてみたとき、その表現とは、従来の文字表現がおよそ想定していなかった新たな環境において遂行されることになるからだ。」 「(……)新たな表現の媒体が、必然的に新たな表現内容を呼び込み、そこに形式と内容の接合された不思議な表現空間が成立することが、インターネットなどのもっとも興味深い特徴なのだ。」 (この引用部では触れられていないが)ホピ族の語り部がデジタルな表現でこれまでの口承物語を語ろうとしたとき、シーケンシャルな「物語」を語ることを止め、まさしくリゾーム的分散、部分の集積を「語る」ことによって、かつて語られることのなかったホピ族の「生活感覚の細部」を表現することができるようになったというのは、きわめて象徴的な出来事である。本質のみによって形式が形成されるのではなく、形式のみによって本質が決定されるわけでもない……両者は相互に侵食しひびきあう関係にある。インターネット上のテクストの本質は、現代テクスト理論によって提示された「テクスト」のイメージに極めて近いように思えてならない。その先を探求するのが、真実現代的な、現代に生きる作家の道ではないのか。島田雅彦よ、ペンを捨てウェブへ出よ! |