評価 D
ひさびさに頭の悪い文学評論を読んだ気がする。これは、じつにじつにじつに三流以下の一冊であって、本屋で見つけてもけして買ってはいけない。
著者は昭和5年生まれということもあるのだろうが、相当に頭は古いといっていい。「頭が古い」ということは、つまり簡単にいえば「単純」なのである。
タイトルに「現代文学」とあるが、これはリアルな意味での「現代」ではない。昭和文学回顧録とでもしたほうがよっぽど適当というものだ。
著者の視点をよくあらわしているのが以下の引用部だ。
「平成の作家はベストセラー作家といわれるほど、そのテーマ制は薄い。小説として面白くできてはいるが、感動するテーマの強烈さがなくなっている。いったい何を言いたくて小説を書いているのか、と思うことがしばしばある。「言語明瞭・意味不明」が、平成時代に入ったばかりの今日の文学である。」
……それは、ようするにこの著者の感性が鈍磨しているだけの話だ、といい切ってしまっていいのではないか、というくらいに見当はずれの認識だろう。そこで「小説にはテーマが存在する」というテーゼをなぜ疑ってみれないのか。「私はテーマ性の強い作品を好む」というのならばよいだろう。だが「テーマ性の強さ」こそが小説の、いわばその小説としての強度をはかるものである、という認識を無自覚な前提とするのは、現代の文学状況についてまったく無知であるというほかない。
ほかにもいろいろな既存の価値観を無自覚に引きずったまま文学を分析しようとしている。滑稽なほど権威主義的だ。
もう一個所だけ、「笑える部分」を引用してみよう。文学賞の賞金高騰に関する一節だ。
「しかし、“札タバ”を積めば、いい作家が生まれてくるという期待には、無理があろう。むしろ“財テク”の一環として小説を書く“一発屋”を誘発し、文学を荒廃させるという恐れさえある。だから「賞金の吊り上げは、このへんでもうやめようではないか」と、文芸出版社の間から声が出はじめているのである。」(p210)
……いやはや。なにが「だから」なんだ。
ぜひどなたか、財テクで小説を書いて、文学賞に入賞してもらいたいものである。
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