『現代マンガの全体像』

呉智英
双葉文庫 544円
ISBN4-575-71093-3

 ところが、まことに奇妙なことに、マンガがまともに論じられることが恐ろしく少ないのである。信頼のおける評論・研究がほとんどないのだ。むろん、ある個別作品についての評論とか、マンガ史研究とか、限られたものの中には優れたものも時々ある。しかし、マンガ全体を見渡し、マンガを原理論的・総合的に考察したものは、事実上皆無なのである。このため、きわめていかがわしいマンガ評論が大手をふって横行することになる。その原因は、一つには、マンガがまだまだ偏見の中にあるからであるが、もう一つには、実は、マンガ評論に限らず評論一般が既成の思考枠内の論議では不毛になっているからでもある。つまり、現代の思考枠の崩壊・無効化が、まっとうなマンガ論の不在という個別例に端的に表れているのだ。
(p8)


 最近創設された双葉文庫には、呉智英の旧作が多く収録されている。読み物として、また評論として楽しめるものが多くあってよい。その文庫化された一冊が、これである。

 初出は86年。90年に出版社を替えて増補版が出て、97年に文庫化して双葉社より発行された。――ということであるから、データ的には最新のものというわけにはいかないが、これはすでに「歴史的な書物」である、といってよい。データの古さや、取り上げた作品の上限が十年近い歳月を経ていることによる本質の劣化はない、といえる。

 というのも、引用部、つまり本書の「はじめに」が書かれてから10年以上が経過したが、そのあいだにマンガ評論に関して根本的な状況変化があったとは思えないからだ。日本のアカデミズムの世界ではやはりマンガは本格的に研究されてはいないし、各論は、個々人の趣味・嗜好の延長線上のものとしていくつか現出してきてはいるけれど、このように包括的に「マンガの全体像」を分析批評した評論作品は見当たらないといっていい。最近になっていくつかガイドブック的なものが散見できるようにはなったが、それとてマンガ「論」といい得るほどのものではないのは確かである。

 内容には見るべき部分は多く、全体に充実度は高いといえる。「歴史的書物」たりうるゆえんである。

 たとえば第一部「現代マンガの理論」での「啓蒙主義的マンガ論」批判は、小市民主義的=市民運動的「俗悪マンガ」追放運動に対する手痛い批判にもなっていて小気味良いが、それ以上に、啓蒙主義そのものを批判するのは困難であるという視点を提出しているところが重要だろう。
 つまり啓蒙主義思想がその行動の実際においてナンセンスさを露呈しているにせよ(たとえば、俗悪マンガ(あるいは悪書)追放運動、マンガへの啓蒙主義的な抑圧、など)、根源的な否定・批判がなされない・しがたいのは、啓蒙主義→「プロレタリア芸術論」→「勧善懲悪」の中に存在する「物語という形態の世界観」ゆえである……という視点だ。
 私は全面的にこの図式に賛成するわけではないが、啓蒙主義的××論を、各論としてではなく総論として俯瞰するこの視点は興味深いと思う。
(もちろん、モダニズム=近代啓蒙主義とすれば、ポストモダンの視点にも見るべき点があるはずだ。私は心情的にはそちらに傾斜している。ただ、ポストモダンは思想解体後の状況に何があるのかを提出しないというのは事実としてあると思う(特性として、というのが適切かもしれない)。そういう状況を踏まえたうえでは「とりあえずの思想」としてかもしれないが、呉智英氏のいうところの「封建主義」は有効であろう。完璧ではないが、まっとうではある)

 ただ、一読者の読み物としてのわがままを言うのであれば、各論のより一層の充実が望まれる。論評が各作家につき数ページではいかにも短い。取り上げられている作家には、もっと精緻に分析する価値のある作品も多い。
 とはいうものの、この一冊は「全体像」を俯瞰するための本である――とすれば、わがままは言わないことにして、おすすめだと言おう。
「増補版へのあとがき」にあるように「マンガをまっとうに研究し評論するための一助に」なりうる一冊だといえる。

version.1.4.97.08.27.


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