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どっちでもいい。 ぼくは、参加したくない。ぼくは、ただ、見ているのが好きなんだ。片方しか見えないけれど。 でも、ぼくはうなずいた。たしかに、ぼくは高橋がタバコを吸うのは目撃してない。くわえるところは見たけど。それに、ぼくが水飲み場に来る前のことは知らない。でも、少なくともぼくは見てない。 本当はどっちでもいいんだけど。 「ぼくは、目を落としちゃったんで洗ってたんです。それを高橋君がながめてたんです。ぶきみだから」 どこも間違ってない。 そう言って、ぼくはぼくの左目、ひびのはいった義眼を五月の太陽にかざした。 ぼくの高く掲げた腕の先の義眼にいったんは集まった光は、そこからプリズムを通して複雑に屈折した。ぼくが目をくるくるとまわしてみせると、山田の、島本の、瀬川の、みんなの顔に虹をつくった。みんな戸惑っていた。 それだけ。 (p28-29) |
この短い小説を読みつつ感じていた形容は、「中学生のためのトレインスポッティング」だった。 読み終えて言葉をさがした。透明なパンク、とか。つめたい興奮、とか。 クレバーな中学生の、ある「気分」がフラグメンテーションのまま綴られている小説。これは、「気分」の小説だ。だから物語はない。本当はないわけではないが、それほど意味はない。これは、「気分」の小説だからだ。 主人公の「ぼく」は、左に空洞の眼窩を持つ、とても頭のいい、でも、中学生だ。彼は中学生であることをやむなく引き受けている。エネルギーのなさ。彼はそれほど元気じゃないまま、淡々と冷ややかに生活している。 「ぼく」のまわりには、アルコール依存症でインセストな愛情を注いでくる母親や家庭によりつかない父親や不良少年だけど風紀委員長になってしまう高橋やものわかりのよい女教師の瀬川や転校生でいつまでもクラスから浮きつづける美少女の中井がいて、それなりの事件を起こしたり、「ぼく」に関わったりする。けれど「ぼく」は、瀬川や中井に男子中学生らしい性欲を抱いたりはするものの、かれらやその事件に主体的に関係していこうとするわけではない。 もちろんシンパシーはある。「ぼく」はおそらく高橋に、アウトロー(それも、自己目的化したアウトローではなく、結果として)のシンパシーを感じているし、中井にはもっと濃密な、たぶん、恋心を抱く。けれどやはり、「ぼく」の本質は主体にではなく客体にあるのだ。それは片目の欠落によって逆説的に意識される「眼」の重要性、という説話論的な構造を持ち出すまでもなく、明白すぎる。彼は物語るには、あまりにボルテージが低く、そしてその「低さ」や、それゆえの「客体でありつづけるという主体性」こそが彼にとってのリアルというものだ。 15歳の中学生の少年であるという「気分」が、これほど透明に描かれ得るという、その技倆を目の当たりにするためだけにだって読むべきだ。ふっと描写される「ぼく」の「気分」は、けれどただの気分にとどまらないから、静かな絶望や歓喜の声が、あなたの心にしみるかもしれない。
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