駄本批評 第2回
『女の頭と心 ――女性のための人生論――』
源氏鶏太
角川文庫 昭和52年4月30日初版
ISBN4-04-122426-8 C0195 \340E
評価 D+
これは、男性原理的な旧来の社会的「良識」の一断面である。抑圧的でイデオロギッシュで甘ったれで頭が悪く、まったく辟易するというほかない。ただ、これが二十数年前の日本社会には偏在する「常識」であったということは確かだろう。その「常識」の総体は、二十数年のうちに破砕され抹消され、ずいぶん薄まったように見えるが、それでもまだまだ健在で私(たち)を抑圧してくる。女性週刊誌やワイドショーやみのもんたや昼間のAMラジオは、そういう男性原理を色濃く残している。私はその男性原理を批判すること無しに提出する無能と無神経と鈍感にいつもいらついているのだ。
……というわけで最初から批判的に読もうとこの本を手に取ったのであった。
だいたい前文からしてすごい。
「断乎として亭主関白になってやろうという勇気。
時には女房を殴りつけて、殴りつけられる仕合わせを
味わわせてやろうという勇気。」
……それは勇気ではない。無能である。無能の正当化である。無能の正当化をこれほど堂々と表明できることはたしかに勇気かもしれないが、蛮勇は必ずしも勇ってわけでもない。それは確かだ。
昔は赤線があって男はそこで「処理」ができた。しかし現在はそういうわけにも行かず、男は結婚前の相手と「寝て」しまう。これはそれを許す女性にとって、大きな精神の堕落である――とある。あんまりすばらしい論理展開なので私は笑いが止まりゃしないったらない。
著者に訊いてみたくなってくるではないか……「じゃあ、赤線に行っていた昔の男の精神は堕落してはなかったのか」。男の性欲の処理は肯定的に認識されて女の性欲が正常なものとみなされないのはなぜか。
それを突き詰めて考えていけば、かつて男性原理がいかに女性性を抑圧してきたかという問題に突き当たる。かような論理破綻も明らかな文章を、さも「良識」であるかのように提示して疑わない著者の無神経は、その問題に正面きって取り組むことのできない惰弱と、そして無能に等しい。憐憫の笑みを誘うのみだ。
「たしかに世間には、男に引けを取らぬ有能な女子社員がいる。しかし、それは例外であって、たいていの女子社員の能力は、男子社員のそれに比較して、遥かに及ばない。」
(P103-4)
及ばないのだそうである。はっきりと明言している。だが根拠はないようだ。根拠はないが、なんとなく及ばないんじゃないかな、無理なんじゃないの、ということらしい。
…………ここはただ、アメリカンコメディで登場人物がよくやるように、ただ首を竦めて手を広げ「Oh...」という表情をするほかない。ここまでくると、正面きって反論するのさえ馬鹿らしくなるではないか。やれやれ……(oh...)。
源氏鶏太は、この本を60の時分に書いたということだ。「この程度のことしか書けなかったのかと情けなかった」とあとがきで述べている。情けなくなる「程度」、まったく同感だ。六十年の人生で、これだけの人生観・女性観・社会観をしか培えなかったとしたら、それは恐るべき貧困ではないか。そのうえ、その貧困は自ら望んでのものだ。一片の同情にも値しない。
これは、男性原理の抑圧のばからしさとみじめったらしさを知るのには好適な一冊である。それ以上の役には立たない。あきれて笑ってしまうというのはあるが……いやはや。
(「女性のための」であるからといって、まちがっても自分のお近付きになりたいような女性に贈ってはいけない。私が女性だったら、こんな本を読ませようとする男性は殴り倒しけたぐり倒し市中引き回しの上磔獄門に処す)
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