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(「おわりに」p230)
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読みながら文章を書いたので、いささか散逸的だが、大筋ではずしてはいないと思われるので多少整理するにとどめた。 ハードウェアについて二言三言。角川春樹事務所ハルキ文庫……この名前をどうにかしたいもんではある……。それと、注釈が巻末についてるのは解せない。多少本文の「美観」を損ねても、併記してほしかった。注釈と本文の乖離は、岩波からの「悪しき習慣」だと思ってるんで、「新進の文庫」の態度としてはちょっと感心しない。 西部邁の「死への恐怖」には実感がこもっていて、その分だけ大いにうなずけるところはあるのだが、しかし「生き続けることへの恐怖」が、人間精神のキャパシティーの限界、千年経っても同じことをやりつづけてしまう繰り返しへの恐怖だという論調は、とうてい首肯するべものではない。人の人生がたとえどれほど長く繰り返しの多いものに見えても、その実そうではないことを思えば、百年千年経っても人はそれなりの変化を謳歌し続ける(ことが可能な)のではないか。 あるいは人は、そのテクノロジーの進化によって自己で自己の進化を決定づけることすら可能になるのかも知れない。ハードSFの諸作品群はその暗示にだって思える……というのは私の若さゆえか、あるいは科学への信頼ゆえか。 とはいえもちろん、それだからといって死ねないことが幸福であるとも思えないし、「死ねずに生き続けてしまうこと」が恐怖であるという西部の言も理解できないわけではないのだ。それはただ、つまり不本意であるということだから。 (現在の人間の精神は――私を含めてだ――生死の選択が自在のものであるという境地にまでは達し得ていない。もちろんそれは「彼岸」という場所が、基本的に帰還不可能なものであるからだ。テクロノジーの進歩は、いつか疑似的な「死」は選択可能にするかもしれないけれど、それだとしても、現在の文化的体系の延長の上では、「死」は本質的に「取り返しのつかないこと」である) 「尊厳死」について。それは生命そのものに「尊厳」がある、と考えての「尊厳死」であるだろうが、実際は「医療機器をつながれ、麻薬を打ち続けられ、生命体がずたずたに切断されていくことにける屈辱感をすこしでも減らそうという」死に方でしかない、そんなものは「尊厳」なんかではありえない、と西部は断じている。 私はしかし、「尊厳死」というものを「尊厳を保てる状態のまま死を選ぶ」というぐらいの意味で捉えていたんだが……ほとんどそれは、単なる語法の問題のように感じる。もちろん、死を早めるという行為それ自体に尊厳なんかが宿るはずもない、というその主張はもっともな話だと思うから、ま、この齟齬感は些細な問題でしかない(かもしれん)けどさ。 「安全」を人様任せにていると、死の恐怖というものになかなか対面できない、死の恐怖を克服する訓練がなかなかできない、とある。バイク乗りとしては、そうではない、のだと思う。「キリン」(バイクマンガ)の思想とは、「覚悟」の思想でもある。 なんてことをちょっと思った。 「死」またそれにつながるものとしての「老い」、それらが紡ぎ出す「孤独」。若き日の孤独は選択的なものであるが、「老い」のもたらす孤独は不可避的で、それゆえに冷え冷えとして絶望に近い。絶望を解消し昇華させるもの、それがいわば伝統的なシステムの中にあった「サロン」(日本でいえば「寄り合い」のような「つきあい」の関係)である、と西部はいう。 なるほどそれはそうなんだろう。「サロン」は、「共同体」の基本的な機能のひとつである。現在的な意味において西部の言を考えてみると、ただ生育地域の共同体に抑圧的な関係のもとにかかわりあう、ということから脱出して、いかに豊かな人間(交友)関係=サロンを成立し存続させていくか、という地点まで到達することができる。たんに地域社会に従属的にムラ化されていくのではなく、いわば自己周辺の人々、自己周辺にいて欲しい人々をサロン的な関係性のもとに収束させた「共同体」をつくりだしていく、ムラ化「していく」ことが可能だってこと。 「死の意味」を考える中で、西部は「神仏などの絶対的存在」を仮定せざるを得ない人間の心性に際すれば、ひとは「究極的なるなにものかの価値」を信じる、いわば「仮説的信仰者」、「絶対を信じることの必用を信じる人間となる」のではないかといっている。 うーん……神は殺すべしと信じている私のような人間にとって、この言葉は一見非常に受け入れがたく思える。 ただ、要するにそれは自己の存在基準をどこに置くかの問題ではないか、と考えることもできる。外在する何か超越的価値にすがれば、それは「神」とかあるいは「国家」とか「イデオロギー」とかいったものになる(と思うのだ)。基本的に私はそういう人間ではないし、そういう人間とは相入れない。しかし、自己に内在する「価値」、その基準としての「絶対」というのであれば、わからないわけではない。人はロゴスによって動物と分かたれていて、人であるかぎり「意味」の呪縛から逃れることは不可能である、というのは事実だろうからね。 伝統解体の矛先となった知識人が、自らの死に際して「自然」と「情愛」の場に溶け込むように死にたいと願うのは潔くないだろうという主張は同感である。しかし、その弱さがまた人間らしいとも思える。もちろんそれは醜い「弱さ」であり、受容すべきものとは思われないのだけれど。 ともあれ、孤独化し「帰属」の関係(伝統)から離脱し逃走してきた(はずの)インテリは、相応の責任をとって、「孤独な死」というものと戦い抜くべきである、というのは同感なのだ。それがパブリックに伝統を解体しつづけた知識人の、パブリックな死に方である。ただ、そこに多少の違和感を感じるとすれば、ヒトは「帰属するべき場所」を程度に差はあれ欲してしまうし、またいやおうなくそれは存在してしまうのだ。「知識人」においてだってそれは同じだってことだろう、ということ。 伝統を復活し、コモン・エンタプライズ(「共同の企て」=身の回りの人々との関係)のなかに死へ向かう生を生きようとすることは、つまり物語の復権ということでもある。自己にまつわる物語、自己と周りの人々との間での物語を、いかに瑕瑾の無いものとして成立させていくか、そういう努力を為すということだ。後世に伝統を伝える自己、というのもまた、物語である。 西部邁はスタイリストである、ということを強く感じた。西部がこの一冊で述べていることは、極めて言えば「死に至る正当な物語をいかに作るか」ということ、それだけだ。さまざまな哲学者(など)の言葉は、ほとんど修辞の問題でしかない。 「保守思想」とは、「物語の思想」でもある。 私がよく言う「現代性」とは、つまりポストモダンということであり、ナラティヴを一足とびに超えて脱構築という立場から事象を眺めるということだ。いっぽう西部邁は「保守」の人であり、それはつまり、ウェルメイドな物語の実際的有用性を思想の軸にしよう、ということでもある。(と考える) もちろん私は、すべてのトラウマがトラとウマに別れて走り去るほど楽天的に解消されると信じるほど能天気ではない。一つ一つ石を積み上げてトラウマという傷を物語化し解消するということの重要性も認識している。それに、ウェルメイドな物語は、私の快楽原則を深く刺激するものでもある。……ただ、だからといって高橋源一郎の「虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)」をつまらなく感じるわけではないと同様に、ポストモダンの「際限なき祝祭化」とでもいうべき視点の大転回に価値を見出せないわけでもないのだ。 そこが、私が西部に大筋では共感しつつ、全面的に肯んずることができない理由だ。ただ、西部がデリダを評して、言葉の絶えざる差異化の戯れの中にも、やはり流行と不易のものはあり、その不易のものこそが「伝統」であり人間の生を支える、というのは納得できるから、要は力点の問題なのかもしれない。 ともあれ、彼の如く「保守の重要」を声高に叫ぶ人間がいることは、思想のバランスの上でも必要なことではある――と言ってしまう時点で、この言説がコンサバーティブな要素を基盤にしているということは確かだ(そして、こういうバランス感覚こそが世人の正統な社会性というもんだろう)。 西部邁が「死生」を通じて語ったのは、そういうコンサバーティブさの必然性であり、必要性である。「保守性」を慫慂と受け入れるも批判的に遠巻きにするも自由だが、その存在をちゃんと認識することは「死」というシビアな場面においてだけではなく、真っ当に「生」きる上で最低限必要なことなんじゃないかと、そう強く感じた。 |
Grade [ B ] version.1.1.97.09.10. |