眠り姫
By 一歩
「ううっ。うっ。うっううぅうぅぅ〜〜」
泣き声。
真っ白な壁の続く廊下に、女の泣き声が響いている。
「ううう。
お、男なんて、男なんてぇ〜〜」
夜の闇の中、そこだけ蛍光灯の明りも冴えざえと輝く廊下。
「聞いてくれてるんですか、教授ぅ!」
鼻をすする音。
「ねえ、教授ってばぁ、聞いてるんですかぁ」
「うんうん。聞いてるって」
「そうですか。それならいいんです」
そして、閉めたつもりで半開きになってしまっている扉。
その扉の向うから、その会話は……会話って言っていいのかな? とにかく、物音は、聞こえて来ていた。
「だいたい、なんですか。
『その事は、もう判ってくれてると思ってた』ですってえ?
馬鹿。聞いてないわよ。
『言ったつもりだった』ですってぇ?
何処をどう解釈したらそうなるっていうのよお。
研究者だからって、そんっなに物判りが良い訳じゃないのよ。ぐす、ぐすっ……
はっきり、はっきり言ってくれなきゃ、判らないじゃない……
あ、もう一杯ついで下さい」
「うんうん。ほら。もう一杯」
「あ、っとと。ありがとうございます」
んぐっ、んぐっ、と喉を鳴らす音。
「っぷはあ」
「空になったのか。ほら、もう一杯」
「ああ、すみません」
カチャン、とグラスとボトルの触れる音。離れる音。
「ぐすっ……
確かに、私は、このラボで働いてますけどね。言語学者じゃないんですよ。
専門は生体物理学であって、断じて言葉なんかじゃないんです。
それは、教授、教授だったらコンピュータにもお強いですし、記号論だとか抽象概念論だとか、論理学だとか、記号論だとか、抽象概念論だとか……」
「うんうん。私の専門も、言語でもコンピュータでもないよ」
「あれ、違いましたっけ? 違いましたか?」
「違うよ。君と同じ生体物理だ」
「あら、それは失礼を」
「うんうん。げそ、食うかね?」
「あ、いただきます」
暫く会話(?)はやんだ。
そして又始まる。
「なんで、なんで私が、あんな奴、あんな奴を好きにならなきゃ……
うっ。うう。ひっく。ひっく……」
「うんうん。飲むかね?」
「飲みます。
ひっく。ぐす。ず。
とにかく、ですね。あんな奴、あんな奴……」
「うんうん。」
カタン。グラスの倒れる音がした。
「もう、嫌。
こんなの、なにもかも嫌。
全部、忘れてしまいたい。何処か遠くに行っちゃいたい……」
「うんうん。」
「教授。本気にしてませんね?
私、本当に嫌なんですからねぇ」
「うんうん。」
「ひっく。ひっく。ぐずず。うう。うぅううぅぅう〜〜
嫌なのぉ。何処かに行きたいのぉ……」
「うんうん。嫌なのか。何処かに行きたいのか」
「そうです。行きたいんです」
「そうか。じゃあ、これにサインを」
「サインですか」
「そう。そしたら行ける」
「あ、いいですね、それ。サイン、します……します…………」
「ああ、寝てしまわないで。ほら、これがペン、ここ、ここにするん……」
『…………ん、……さん。聞こえますか? 大丈夫ですか?』
「う、……んん。い、痛い、頭がずきずきする……」
二日酔いかしら。
それに、なんだか体が重い。口も、なんだかうまく動かなくて、言葉がしっかり発音できない……
『よかった。気がつかれたのですね。体調はどうですか? 少しだるいとは思います。ですが、それ以外でどこかおかしな所はありませんね? 痛いとか、動かないとか』
この声は誰? 気になって目を開けた。でも、周囲には誰も居ない。
……ここ、何処?
見た事もない部屋だった。淡い色調で統一されている。でも、その色は……その、ピンク? それとも、青? なんとも表現しにくい中間色で、といっても、気持ち悪くはない。のっぺりとしてる訳でもなく、部屋の各部で色は混じりながらも変色をしており、また、その変化が目に心地よかった。
幾つかの家具もある。部屋の隅には、大きなパネルとディスプレイが埋められている。何処のメーカーの品だろう、見た事もないタイプ。いや、それを言うなら、家具だってあんまり知らないタイプのもので、その、なんて言うのかしら、前衛的?
そういうラインが各所に見受けられるし……
『大丈夫ですか? 聞こえていますか?』
「あ、はい。聞こえています。大丈夫です。
その、二日酔いなのか、少々頭が痛いのは別ですけど……」
そんな事を言わねばならぬのが、ちょっと恥ずかしかった。
『頭が痛い? 待って下さい、調べます……』
その声は、男の人の声だったのだ。
なんだかいたたまれなくて、目線を落す。自分が今居るのは、暖かくてふかふかのベッドの中だった。
着ているのは、白くて長い、なんの飾りけもないダブダブのシャツで、どこかしら病院の着衣を思わせる様な……下着! 私、下着もつけてない! 何、なんなの、何処なの!?
『ああ、大丈夫です。頭痛の発生は通常症例の一つです。よかった、どうやら、無事に蘇生されましたね』
私の狼狽などおかまいなしで、その声はそう告げた。
そしてその一言で、私の狼狽は何処かに飛んで行ってしまっていた。
「…………『そ せ い』!?」
『ええ。蘇生です。
500年を飛び越えて、ようこそ、現代へ。
どうでした、快適な冷凍睡眠でしたか?』
「私は、夢を見てるのかしら?」
頬をつねってみた。痛い。様な気がする。そう言えば、皮膚感覚は暫く鈍いままだと言っていた。
「それとも、気が狂った?」
頭の中で、羊の数を数えてみる。一匹、二匹……少なくとも数は忘れていない。
「ああん、馬鹿ね。こんなのして、眠りたい訳じゃあないのよ。もう充分以上に眠ったわ。ええと、だったら……」
覚えている限りの挨拶の言葉を、各国語で唱えてみる。
英語。日本語。ドイツ語。フランス語。中国語。韓国語。
『……どうされたんです?』
突然にあの人の声が割り込んできた。
「きゃっ!」
『ああ、すみません。驚かしてしまいましたか』
「ああ、いえ」
顔が赤くなる。
『でも、本当にどうされたんです。いきなり「こんにちは」を連発なさって……』
「なんでもない! なんでもないんです!」
話題を変えなきゃ。
「全部、判りました? いろんな国の言葉、ご存知なんですね」
『ああ、いえ。違いますよ。翻訳ソフトがあるんです。
統合的なコミュニケーション補助システム、とでもいう方が正しいかもしれませんね。非常に万能なものです。相手と自分の間に、不快や誤解を産む様な事は全くありません。不和や闘争というのはそういった誤解から、又は相手に対する気使いの不足から産まれますが、このシステムのおかげで私達はそれらから解放されているのです。
そう、私が今、貴方と流暢に会話しているのをおかしいとは思われませんでしたか? 実は、この翻訳ソフトのおかげなんですよ。私には500年も前の古語は話せません、もちろんね』
「もちろん、ですか……」
『? どうしました? 気を、悪くされたのですか?』
「いえ、いえ。なんでもないんです。なんでも……」
『それでしたらいいのですが……』
会話が詰まる。
『どうも、やはり、何か失礼な事をしてしまった様ですね。すみません。
今の私達には、コミュニケーションというのはほとんど経験のないものでして……』
「あら。どうして?」
『必要がないからですよ。あらゆる作業、生命の存続に関係する雑事は、全て機械がやっています。人は、もっとも人らしく、真に芸術的な作業や、自分がやりたいと思う作業だけに没頭できるのです。プライバシーというのは非常に重要な人間の生得権利です。それが著しく侵される必要があったのは過去の事で、現在では、自分の欲しい間、欲しいだけ、いつまでだってプライバシーを保てるのです。そう度々破られていては、とてもとても人としての生活なんて……』
「まあ……」
『こういう言い方は失礼になるかもしれませんが。
その点、貴方は少々変わっておられる、とコンピュータが言うのです。僅かで構わないので、周期的にプライバシー侵害を受けた方が精神的に安定されるとか……もちろん、これは貴方が悪いのではなく、貴方のおられた時代の教育システムにより、その様に洗脳された結果なのでしょうが……』
「ええ。その通りですわ。私、誰かと話している方が落ち着きます。
その点、貴方には何の落度もありませんでした。とても素敵な会話のセンスをお持ちですわ。それにマナーもエチケットもわきまえてます。充分以上によくしてくれています。
だから、謝らないで下さい。ちょっと、私の調子が変なだけなんです。
あ、そうだ。貴方の方の、その、プライバシーは、大丈夫なんですか? 私と、その……」
『大丈夫ですよ。私も少々変わりものなんです。珍しく、あまりプライバシーに重きをおかないタイプらしくてね。人のにも、自分のにも。
だから遠慮は無用ですよ』
「まあ。
あの、でしたら、その。
ひょっとしたら、失礼かもしれないんですけど……」
『遠慮は無用、と、たった今申し上げました』
「じゃあ、お言葉に甘えまして。
お顔を、見せて頂けませんか? 声だけでなく? 私の時代には、相手の顔を見て話すのが普通だったんです」
『! 本当ですか! へえ……声だけでも、相当に苦痛でしょうに?』
「いいえ。苦痛じゃないんです。ああ、でも、それが貴方に」
『いえいえ。ここは古式に習います。こんな顔でよければ、いくらでも見て下さい』
部屋の隅にあったディスプレイに灯が入った。男の顔が映る。
「!」
『これでいいのですか?』
目の形、顔の輪郭、髪の色……
『あの?……』
「ご、ごめんなさい。大丈夫。ありがとう。これでずっと落ち着きます。」
『それはよかった』
そう言ってその顔は微笑んだ。
似てる。
彼に、彼にそっくり……
「ねえ。その、貴方の血筋、御先祖の誰かに……」
『なんです?』
「……いえ。なんでもないの。なんでもないんです。ごめんなさい」
ディスプレイの向うから、やさしい瞳が見つめ返してくれていた。
ぽーん。柔らかな音色のチャイムがそう響く。
「どうぞ」
そう声をかけると、ディスプレイに灯が入り、彼が姿を現した。
『こんにちは』
「こんにちは」
『これで、マナーは守っていましたか?』
「ええ。ありがとうございます」
『いえ。どういたしまして。
どうです、この世界には慣れて来ましたか? 何か、足りないものは……』
「充分です。ありがとうございます。
本当に、なんでも揃っているんですね。衣、食、住、全てがこの部屋に居ながらにして手にはいる。景色を見たければ壁全体がホログラフ投影をしてくれるし、匂いも自在。運動をしたいと思えば、床がムービングウォークに変わるし……本当に、良くして頂いて……」
『当然です。それが普通なんですよ。そう何度もお礼を言われるとこそばゆいですね、私が用意した訳でもないのですから。私は単に、貴方の会話の相手というだけなんですよ』
「でも、お礼を言いたくても、他の人は見た事もありませんし……」
『プライバシーに関わりますからね。
なに、誰にお礼を言う必要もないんですよ』
「ありがとうございます」
『ほら、また』
とても気持ちのいい感じで、彼は笑った。
私もつられて笑う。
『今日は、貴方の旅の原因となったのが何だったのかについて、突き止めて来ましたよ。といっても、コンピュータに検索させただけですが。
当時貴方の勤めておられた研究所では、動物実験段階での冷凍睡眠を完成させていましたね』
「ええ」
それは、うちの研究室の目玉のひとつだった。
『で、次の段階、つまり人による臨床試験の段階にまで、話は進んでいた様です。
試験は志願制です。末期癌や、俗に不治の病と呼ばれる人達のデータは順調に集まっていた様ですが、健常者についてはそれ程データが揃っておらず……』
「でしたね。誰もモルモットにはなりたがりませんでした」
『ですが、貴方は立候補されたのです。いえ、少なくとも、この書類には貴方のサインがあります』
「さ、サイン?」
『そう、サイン。
ほら』
画面にそれを映してくれる。
ミミズがのたくった様な、酷い字。判別できる半歩前の状態、まるで酔っ払って書いた様なメチャクチャな字だったが、それは確かに私のサインだった。でも、こんな書類には覚えがない。いや、待てよ……
「……あんっの、クソ教授……」
『え、何か言われましたか?』
「いえいえ、なんでも」
やけにお酒を勧めると思ったら……!
『貴方がサインしたのは、長期睡眠に関したものです。特に立候補の少なかった区分ですね』
「ええ、そうでしょうとも」
『書類のサインについては疑いは全くありません。ただ、睡眠時間の方には、一部不安な所がありますね。甲、乙、両者が同意した最長睡眠時間という項目ですが』
「(ぼそっ)誰が同意したのよ、誰が」
『その、数字末尾の0の数がね。何度か書き足された形跡があります。』
「…………あんっの、クソ教授!……」
『その後、色々あったんでしょうが、そこまでは……今ではもう関係者の誰も生きてはいませんし……』
誰も、生きてはいない……
再び会話が止まった。
小鳥のさえずりが、枝の上から流れた。
振り返れば、遠くに白い万年雪を抱いた山々が見える。
ざわざわと、足元の草をなびかせながら一陣の風が通り過ぎた。それが運んでくる若草の香り。風の余韻に合わせて、揺れる白い小さな花。
どれも、本物に見えた。感じた。
そして、本物の様に作用してくれた。
気持ちが落ち着く。
だけど、落ち着けば落ち着く程に、馴染めば馴染む程に、どうしようもないものが胸に詰まり出していた。足りないものが。穴が。より、くっきりと浮き彫りになっていく。
ぽーん。柔らかな音が流れる。
私は壁に対して通常モードに戻る様に命令してから、声をあげた。
「どうぞ」
彼がディスプレイに現れる。
ああ……
『こんにちは。
どうです、調子は』
「いいです。どうもありがとうございます」
『……と、言うわりに、なんだか顔色が優れませんよ』
「ええ。
でも。その。
なんでもないんです」
『なんでもなくはないでしょう。
さあ、なにがあったんです?』
そう。なにかがあった。でも、これは言っちゃいけない。多分。
ああ、でも。
『さあ。……』
「……言って、いいんですね。いいんですね?」
私は大きく息を吸い込んだ。
「私、会いたい、会いたいんです」
『?』
「誰か、人に。いいえ、貴方に。貴方だけに。
会いたいんです!」
『? おかしな事を言いますね。会っているではないですか、今、こうして』
「違う! 違うんです! こんなディスプレイ越しじゃない。
本当にあって、本当に喋って、そして、本当に触れ合いたいんです!」
『触れる! それはつまり、直接に触れ合うという事ですか? 馬鹿な、そこまで徹底してプライバシーを踏みにじるなんて、まさか!』
「そうです。触りたい。直接に、しっかりと抱きしめて欲しい!
ああ、やっぱり、これはタブーなんですね。それも最大限の。
でも、止められない。どうしても会いたいんです!
だって、だって。多分。
私、貴方を愛している!」
『え?』
「愛してるんです!」
『すみませんが、最後の単語は判りません。翻訳ソフトをもってしても、類似語すら検索出来ない様で……』
「ああん、もう!」
もどかしい。私は接続を切った。
そして、コンピュータに尋ねた。彼の所在を。「物理的な所在」を。
「……え? 同じ建物の中?」
この同じアパートメント(?)の、たった三階上の部屋。
私は泣き笑いの表情を浮かべた。
「すぐそこじゃない!」
私は駆けだして、玄関へと向かった。
部屋から外界へ通じている、唯一の扉に。はじめて。
「ううっ!」
その扉を開けて最初に飛び込んで来たのは、鼻を突く異臭だった。
「なに、これ?」
化学薬品? 塗料? それとも、建築素材?
様々な臭いが混じり合いながら流れている。
そして、灰色の空。
「なによ、これ……」
目前の通路には、幾つかの、小さなタイヤの轍跡。自動整備のロボットとかの跡なのだろうか? その轍は、どこまでも続いていた。通路に並ぶ扉、扉、扉。
裸足でその通路を駆け出す。ほこりが舞った。
臭いとほこりで、ふいに肺が苦しくなる。
「う、こほっ、こほっ」
それでも、走り続けた。かなりの距離に裸足の足跡を残して、ようやく通路のつきあたりに出る。階段。駆け上がる。
三階昇った所で通路に回り、扉の数を数えながら、更に足跡を増やしていく。
「これ、この扉! この向うに、彼が!」
取手に手をかけて、力を込めて回す。
錆びているのか、なかなか動かない。
「でも、会いたいの、会いたいの!」
ゴキリと何かの割れる感触が伝わり、扉は開いた。
何も考えずに飛び込んだ。
な、なに?
自分が何を期待していたのか判らない。
でも、少なくとも、これではなかった。
部屋は薄暗い。外の通路と同じくらい、ほこりっぽい。
そして、積まれたゴミ。
中には人が居た。一人だけ。
一目で不摂生の判る体つき。どこを突ついても、ぽちゃんと音をたてて割れそうだ。そして、ニキビだらけの丸い顔。
それが、ディスプレイとパネルの前にしつらえてある椅子の中に居た。その周囲には、近寄れないぐらいに色々なものが山と積まれていた。
「うー、ぶぶー!」
その生き物が声を上げた。まるで赤ん坊がむずかる様に。
ディスプレイに灯が入る。そこに浮かんだのは、ああ、彼!
『なんて事を! どうしてここまで来てしまったんです!』
それだけ言って、止まる。
「会いに来たの! お願い、会って! 私に、直接!」
私が声を発すると、パネルが私と同じ声音で、私の知らない言葉を吐き出した。同時通訳しているのだ、彼の為に。それは、何かのうなり声に聞こえた。
ディスプレイ前の生き物が、また感情を叩きつける様にうなる。
「うだー。だー!」
『駄目です。それはタブーなのに。タブーだったのに!
まったく、まったく、なんて事を。いいですか、貴方の行動はとても常識人としてのものとは言い難いのですよ。例え過去からの旅人だったとしてもとても許せるものでは』
「許してくれなくてもいい。会って!」
パネルが又、私の声でうなった。短く。
椅子に座っているのは感情を爆発させ、相変わらず暴れながら、言葉にならない声をあげている。
『すぐにここを出ていきなさい! 不法侵入だ! 人権の侵害だ! 私は可能な限り貴方に優しくしたというのに、その仕返しの仕打がこれなのですか!』
私は気がついた。それ、ディスプレイの前に居る丸いのの髪の色。目の色……
それが、暴れ疲れて一息つく。
すると、彼の言葉も止まった。
またそれが暴れ出す。飽きる事なく、まるで玩具を買って貰えぬ子供の様に。
すると彼が喋り出す。
「だー! だだぁ、だあだあ! あがががぁあぁぁ〜〜、ふぅー!!」
『即刻ここから立ち退いて下さい。これはお願いではありません、命令ですよ! ええい、何を立ち尽くして居るんですか、貴方は言葉を忘れたのですか!? さあ、私は即刻と言ったのです、即刻です!』
めまいがした。
「……ほ、『翻訳、ソフト』?……」
世界が回る。だけど、視点は定まっていた。ディスプレイの中の、彼に。そして、その前に居る不細工な、知性のかけらも感じさせない生物に。
「……円滑な、円滑なコミュニケーションを実現させる為の、統合的なシステム?
相手に不快や誤解を与えない、いつも礼儀正しく、優しく、理想的な、理想的な……」
私の目は離れようとしない。ディスプレイの、ディスプレイの中にしか存在しない彼から。
相変わらず、目の前の風船は吠えている。
「ふんふん! ああ〜ん。ああ〜ん、があ!」
合わせて、彼も。今までの彼からすれば、決して言わなかった様な汚い言葉を、それでも、何処か上品に気を使いながら。
私はどんな表情を浮かべていたのだろうか。
視点はそこに固定のまま、視界が黒く染まっていった。
「!」
固いソファー。
つんとくる薬品の臭い。
それから、これは何かしら? 食べ物の臭いと、強いお酒の残り香。
「おや、やっと起きたのかね?」
窓からは日の光が差していた。
「……ここは?」
「どうした? 頭でも打ったか? ここは研究室だよ。
酔い潰れた君は結構重いな」
男の顔が覗き込む。映像ではなく、本当に本物の顔が。
「……くそ教授……」
「んな?」
「あ、いえ。なんでもないです……」
「まだ酔いが残っているのかね?」
「あ、いえ。そんなに。少しだけ頭が重いですけど……」
周囲を見回す。
見なれたクリーム色の壁。所々にあるのは、重たい設備を運び込む時につけた馴染みの傷。
「…………夢?」
向うのテーブルにはツマミが散乱し、グラスが一つひっくり返っていた。
「……ほんとに?……」
次第に、クスクスと、喉の奥から笑いが込み上げてくる。駄目、止まらない。
「や、やだ。全く、もう……」
「おいおい、本当に大丈夫か? まだ酔いが残っとるんじゃないのかね?」
「ああ、いえ、違うんです。大丈夫ですよ、頭も打っていません」
笑いながら答える。
「そうだ!」
ソファから立ち上がり、一目散に扉へと向かった。
「あ、おい、何処へ行くのかね?」
「彼の所へ! 直接会いに!」
「彼の? 君、まさか殴りに行くとか、いやともかく、人傷沙汰だけは……」
「やだ、まさか!
仲直りに行くんですよ!」
扉は簡単に開いた。
「私達、もっと話さなきゃ! 判り合わなきゃ! もっと、もっと沢山!」
駆け出す。
「コミュニケーションが必要よ」
「やれやれ。全く」
テーブルの上を片付けながらひとりごちる。
「まあ、仲直りするのは良い事だ。愚痴を聞いた事の副次的効果とでもいうか」
片付けるテーブルから、一枚の紙きれが舞い落ちた。
「おっと。これを失くしたら大変だ」
拾いあげる。
サインが、入っていた。
Fin.
something tell me.
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