正物質と反物質

 宇宙空間にぽっかりと開いた黒い門。
 と言っても、もとから宇宙は暗黒なので、特殊な画像処理をしてからでなければ、
その円形のゲートの存在は判らない。強力な電磁気的拘束を行ない続ける”リング”
……金属と配線で出来た巨大な指輪が、その門の縁どりを示しているだけだ。
 目をこらせば、その円の中には星が見えない、という消極的な理由からその”門”
の存在を肯定できる、が、体感として判るかと言われれば、そんなのは全くだ。だ
いたい、銀河中心からこれだけ離れると星はまばらで、違和感があるほど星空が丸
く切りとられてる訳でもないのだ。

「……かくて開きし地獄の門、と。」
 口元にコーヒーを入れたカップを寄せながら、相棒がそうつぶやいた。
「地獄、ね。かもな。」
 俺は観測窓から手に持っている文庫本へと目線を移す。
「反物質宇宙へと通じる入口だからな。」

 いまだに宇宙は神秘の世界だ。ビッグバン、クランチ、ダークマター。
 沢山の理論が建てられ、統合され、打ち捨てられてきた。
 その中でも最近研究の中心を据えていたのが、「反物質宇宙」が「平行宇宙」と
して、この我々の宇宙と身を寄り合わす様にして存在するのではないか、というも
のだ。
 そもそも宇宙の生成を考えれば、今世界を構成する物質と、全く同じ量なだけの
反物質が存在しなければならない。なのに、島宇宙の半分を渡り歩ける様になった
現在の人類の科学力を持ってしても、反物質原子一つの捕捉さえままならない。確
率的な話や統計的な計算を考えても、そろそろ見つかってていいはずなのだ。なの
に、ない。
 これはつまり、反物質というものがそもそもこの宇宙に存在しないのではないの
か。理屈はそちらへと流れた。次に流れていくのは、では、何処へ? だ。
 結論:隣の宇宙へ。
 と、いうか、原始の宇宙にて、宇宙は、「我々の宇宙」と「反物質宇宙」に等分
割されたのでは、という説である。まあ、諸説細部は違うものの、基本はそういう
事、らしい。俺もよくは知らない。ただ、この理屈に沿えば、現在真剣に必要が叫
ばれている反物質が全然見つからない理由も、空間質量のひずみであるダークマター
の理屈づけも簡単にできるのだそうだ(なんでも、空間同士=正物質の空間と反物
質の空間、が引っ張り合い……綱引きみたいな事をしてて、重力井戸を広範囲に出
現させているとか、なんとか。)。

「あれだけの金を投じなきゃ出来なかった”門”だ。これで何も起きなかったら、
学者は全員首だったな。政府だってこんな馬鹿な支出の責任を取って潰れてた。」
「だろうな。ま、俺達は技術者だ。学者でも政治家でもない。どっちだってよかっ
たがね。」

 ”リング”建設時には賑わっていたこのあたりも、いざ起動となるとほぼ無人に
なった。別の宇宙に穴を空ける初めての試みだ、その危険はとても口でなど言い表
せない、計れない。せいぜい、精一杯に遠くへ逃げておいてからスイッチを入れる
だけだ。
 スイッチを押す人間は逃げれないけど。

「俺、クジ運ないよなあ。」
「安心しろ。俺もない。」

 起動が成功した時には、ものすごいお祭り騒ぎだった。
 パーティー会場はここから数十光分離れたステーションでだったが。
 この観測基地には、クジ運の悪いスイッチ押し係が二人居ただけ。

「ジャンケンにも弱いんだよなあ。」
「俺もだよ。」
「なあ、俺、いまだに疑ってるんだけどさ。あのジャンケン、どっかで誰かのイカ
サマが入っていたんじゃないのかってさ。何十分も通信に時間がかかるんだ、回線
のどっかをジャックしてたら」
「うるさい。とにかく結果はこうなんだ。」

 起動してからだって安全とは言い難い。いつ何処でどのような狂いが生じて、門
が壊れるか判らない。その壊れ方だって判らない。全てがはじめてづくしなのだ。
 はじめてだからこそ、観測は怠れない。各種センサーと機材とが、全て”門”を
指向してそのアンテナを伸ばし、逐次データを取得しては処理を行ない、数十光分
背後のステーションへとその蓄積を電波に載せて飛ばす。
 この観測基地から。ジャンケンの弱い二人が居る基地から。

「なあ」
「ええいうるさい! ぐだぐだとどうにもならん話をするな!
 運の悪さなどというけったクソ悪い話題だったら怒る!
 もっと知的な話はないのか知的なのは!」

 とにかく俺の今の機嫌はあまりよくない。

「……じゃあ、知的な話でも。」
 相棒は寂しいらしい。
「ん。」
「向うにも知的生命っているのかな?」
 お。いい質問だ。
「……居るんじゃねえか? 反物質っていったって、基本となる性質はこっちと全
く同じなんだ。同じ条件に恵まれて居るのなら、同じように生命が発生してもおか
しくはない。」
「そうだよな。やっぱりそうだよな。違いはないよな。」
「分子、原子、電子。全部同じだ。
 もっとも、向うの電子はマイナス電荷の変わりにプラス電荷を持っている訳だか
ら、それぞれ、反分子、反原子、反電子ってな風に呼ばなければならないのかもし
れないが……」
「プラスの電荷? そうか、陽電子か。」
 俺は読んでいた「ロボットの時代」という文庫本をコンソールの上に置いた。
「へえ? なんだ、お前俺の本読んでたのか。」
 こいつ、今の時代に紙の本だととかって馬鹿にしてたのだが。
「は? なんの事だ?」
「……いや、いい。偶然だったみたい。」
 自分が馬鹿に思えた。
「とにかくだ。で、向うはこっちと変わりないとして、それで?」
「あ、うん。
 俺達はあの”門”を、要するに燃料の汲み取り口だと思って設置している。
 だな?」
「そうだ。」
 設計だけはできている反物質発電施設、反物質エンジン。無限で究極の高効率を
持つ燃料。
「方法はともかく、俺達はそのうちにあの汲み取り口にバキュームを放り込んで、
なにもかもを吸い込まし、こちらで燃焼させてエネルギーにしてしまうだろうな。」
「向うにいる奴らは、それをどう思うだろう?」
 !
「……なるほど、な。」
「結構タチの悪い”侵略”じゃあないか。なあ?
 なんでもいいんだぞ。なんでもいいから、お前らの住む空間の物質、土地、家の
柱、いや、その体だっていい。なんでも全部、バキュームに吸い取るって侵略。」
「まあ、待て。
 それは全部向うに知的生命が居たらって事だろうが。」
「お前も今賛成しただろう。向うにも居るに違いないって。」
「違いない、なんて言ってないさ。
 そういう事は、それこそ学者の仕事だ。俺達はデータを集める。
 学者は集めたデータを処理して、そういう知的生命が居るか居ないかとかという
判断をたてる。」
「学者ね。やつらがそれほど判っているのかね。」
 それに、居ると判ったからといって、採掘計画を止めるかどうか。
 出し抜けに俺は相棒の顔を見たくなくなった。”指輪”も見たくなくなった。
 再び文庫本をひっつかんで、しおりを挟んでいたページから読み直し始める。
「知らん。知らんさ。」
 それだけ口にして。
 相棒は冷めてしまったコーヒーをテーブルに戻し、再び窓を、”門”を見つめて
いた。
「居るとしたら、奴らは、自分達の世界の電子を”反電子”なんて読んでいないだ
ろうな。」
「んあ?」
「普通に”電子”と呼んでいるはずだよな。奴らの世界では、それが普通の電子な
んだから。
 反物質が正物質で、正物質が反物質なんだから。」
「……んあ……」
 俺は、よく判らない気合いの抜けた相槌を打っていた。適当に。

「なあ。」
「ああ?」
「地獄には、鬼や悪魔が住んで居るんだよな。」
「ああ。」
「あの”地獄の門”。
 ”門”のどっち側が地獄なんだろうな。あっち側か、こっち側か。」

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