MinMin's Diary
8月も3分の2を過ぎました。
夕方になると、ちょこっと秋の気配を感じる瞬間もあります。
しかし、熱くさせてくれるのは、何も気候ばかりじゃなさそうです。
8月あたまで吠えていた「ステ専」に続き、またしても「AERA」がやらかしてくれた。
「AERA」No.35の記事、分類「結婚」、タイトル「海外長者と結婚したい」...。
記事のタイトルは「世界長者と結婚したい・キャリアには限界、ならいっそ」である。
書いているのが女性記者というのも情けない。
書いていて疑問を感じないのか?
まぁ、いい。
とにかく、小見出しを見ていこう。
「梨園に嫁ぐんじゃダメ」「1週間続いた結婚式」「離婚後はアドバイザー」「父も弟もジャカルタへ」
内容を要約すると大体こういうことになる。
キャリア志向の女達はキャリアウーマンを目指したものの、現実につまづき、出世してもせいぜい主任か課長止まりということに気付いた。
そこで、「結婚で人生を変える」ことを考え出す人が増えているというのだ。
でも「日本人とでは意味がない」という。
歌舞伎役者とスピード離婚した近藤サトさんというタイムリーな名前を挙げて、その信憑性を謳っているのも心憎い演出だ。
目標はマレーシアの王家に嫁いだ女性だという話も出てくる。
結婚式が1週間も続いたという、マレーシア王族と結婚した日本女性の話に始まり、叶姉妹も真っ青なゴージャス、ファ〜〜ビュラスなお話がわんさと登場する。
しかも、パターンとしては海外の富豪(これが成金じゃいけない)と結婚。
ここで登場するのも「マレーシアのスルタンの一族の男性」「香港の鳩山家ともいえるような名家の息子」「韓国系米国人証券ディーラー」「インドネシア財閥の長男」「中東石油国の国王側近という名家の息子」といった、日本には中々存在しない桁外れな家柄と財力を誇るような方達だ。
そういう男性と、映画の中の話のような生活を楽しむ。
しかし、多くが「手にすれば色あせる」のだそうで、離婚。
離婚後は、その生活での経験と財力を活かしてアドバイザーやら事業家になる。
なんだか、どっかで聞いたパターンだぞ。
なんだ、イギリスに本拠地を構えている、貴族と結婚してたとかいう、なんちゃら寿子さんじゃないか。
イギリス貴族と結婚、離婚後も彼の姓を名乗り、社会アドバイザーみたいなことをされている。
そして日英タイムズとかいう日本語新聞を経営し、レディなんちゃらと自分で言っている...。
離婚後も夫の肩書きを目一杯活用されている御方と同じじゃないか。
「AERA」の特集に登場した人の中には、離婚後に「トータルスタイルアドバイザー」なんて肩書きをつけている人もいる。
なんか、これを見ていると、たとえ男を使っていようが、なんでいようが、結婚を武器にせずにあれだけのしあがってきた叶姉妹の方が、裸一貫でやってきた感じがして潔さまで感じてしまう。
結婚前は「才能はあるけど、何もできないの!」「もっと仕事をするためにお金が必要なの」「ぎすぎすした日本に絶望してたの」なんてこと言っていたのが、ひとたび、海外の富豪と結婚すると、何もカンもが叶ってしまうようだ。
そして離婚するにあたっては「知り合って短い期間で結婚したから、お互いを十分理解できていなかった」とか言い出す。
そりゃそうだ。
相手を理解するよりも、相手のステータスと財力に満足したんだろうから...。
さらに、離婚後は「こういう経験をした私だからこそ、教えられることは多いと思います」とかのたまわる。
金や権力で結婚しちゃいかんというんじゃない。
「こういうゴージャス、ファ〜〜〜ビュラスな体験をした私だから、教えてあげられるの。自分が成功するために結婚を手段として使うのよ。外国人男性の馬鹿な大和撫子幻想を利用して、せいぜいうまいことやろうじゃないの」
こういう風に言っているようにすら感じてしまう。
こういう馬鹿な特集に利用されてしまった国際離婚ケースの女性も特集の中には存在するかもしれない。
確かに、たまたま好きになった男性が、その国ではすごい地位にあったというだけの人もいるかもしれない。
彼の国にいない時には、それを知らずに付き合い、しかし、いざ、彼の国に行ったら、その生活にのしかかってくる重圧にやられて離婚せざるを得なくなったという人もいるだろう。
しかし、「AERA」の特集では、はしばしに「海外長者と結婚しよう」としている予備軍の話が盛り込まれていて、それが軽薄さに拍車を駆ける。
フリーの通訳の女性が剣道を習い始めた理由として「日本の伝統文化を身につけて、億万長者と国際結婚する」ということを挙げている。
「ロシアのプーチン大統領のように、日本の武道が好きなVIPは多い→剣道でお近づきになれるかも」だって...ああ、軽薄。
読んでいるだけで情けなくなりそう...。
言っている女性にも情けなくなるが、これを文章にしている「AERA」にも情けない。
情けない話はまだ続く。
「教会って出会いの場なのよ」というアドバイスを忠実に守り、ボーナスだけで一億円というアメリカ人のブローカーと交際中の35歳の女性の話も登場している。
「好況にわく米国のニューリッチとの結婚を夢見て、ニューヨークへ留学した」という。
嗚呼。
彼の実家も金持ちなんだそうだ。
天井のカーブの角度をどうするかと悩んでいる彼の母親のグチも聞いてあげるんだという。
この無意味なグチの内容がポイントだ。
こんなことで悩める生活にため息が出るほど憧れているのが「元キャリア志向」の日本女性だという裏を読み取ってほしい。
結婚が続いているマダムの話もきちんと登場させている。
しかし、そのマダムは父も弟も彼女の夫の一族の庇護の下、その国で稼がせてもらっているのだ。
ま、言うなれば、結婚がばぁになったら父も弟も路頭に迷うということだ。
それにしても、きちんと鼻につくセリフを用意してくれている。
「そんな、特別な生活じゃないのよ。もともと事業をやりたかったの。インドネシア人になりきってるから、ビジネスが成功しているんだと思うわ」
ふはは。
こういう財閥に嫁いで「特別な生活じゃないのよ」なんていうセリフ、言ってみたいわぁ〜〜〜とうっとりしている女性の姿が目に浮かぶ。
ちょっと待ってほしい。
国際結婚がこんな夢物語ばかりだと思われては困る。
海外に出ることが、自分を活かす道だなんていう早合点はやめてほしい。
ちょうど同じ時期に「日経WOMAN」で海外留学特集みたいなのをやっていた。
それでも「海外で私の人生をリセットする」みたいな見出しを見かけた。
人生は海外に行ったぐらいじゃリセットできない。
お茶汲みやっていた人生があったから、海外へ出ようと思ったんじゃないのか。
動機があるから今があるんだろう。
それよりも、海外で人生を「リセットさせられる」ことの悲惨さをきちんと認識しておく方がいい。
今までのキャリアを活かすこともできずに、海外の法律に縛られてしまう人生もある。
アメリカのロースクール卒だが、国の馬鹿げた法律のために働くことができない超有能な日本女性もいる。
知らないうちに国籍を剥奪されてしまうこともある。
それにしても「AERA」は何を意図しているんだろう。
前の「ステ専」特集といい、今回の「海外長者との結婚」特集といい、何となく、日本女性のキャリア志向を「しょせんはこんなもん」と揶揄する気持が背後にあるようなもんばかりだ。
結局は「結婚することで満足する程度の充足感しか日本の女は求めていない」とでも言いたいのだろうか。
自分一人の力でも、自分のキャリアを達成できるということを認めたくないのだろうか。
まぁ、他力本願が身上の日本女性は非常に多いから、確かに「結婚でチャンスをゲット」と思う人もいないでもないだろうが。
世界にまだ残存する「大和撫子神話」を利用し、「国際市場」に高値の商品として自らを出品するというのも、確かに手ではあるだろうけど、しかし、それをするのもごく少数の人だろう。
そんな話をされると、金持ちの多い国でただのサラリーマンと結婚し、ローンやら何やらで、ひぃひぃ言っている日本女性達は乾いた笑いを発するしかないのである。
「そういえば、もう10年も行ってませんねぇ...アメリカ...」
なんて遠い目をして言っている人もいた。
とにかく、昨今の「AERA」からは、キャリア志向の女性の挫折を結婚と結び付けようとする意図を感じてしまう。
しかし、よく考えてほしい。
結婚を自分の人生を切り拓くチャンスとして利用した女性は古今東西どこにでもいる。
それが国際結婚であろうがなかろうが、関係ない。
スーパーモデルには仲間入りできなかった川崎カイヤは日本人男性の川崎麻世と結婚し、日本の芸能界では大成功している。
この特集の言う、「日本男性じゃだめ」というのとは矛盾する。
あと、ヒデとロザンナのロザンナ。
母国ではほとんど無名だった十代の少女が、日本へ来て人気デュオの片割れとなり、今じゃ日本全国どこでも知られている超有名な外国人タレントになっている。
これも「国際結婚だからよかった」のか?
でも相手は日本男性だ。
だから、日本男性と結婚することがダメなんじゃない。
「その土地にないもの」、つまり「希少価値」になることがポイントかもしれない。
しかし、ただの「フジヤマ、ゲイシャ」の延長線上にある「大和撫子」だったら、しばらくしたらダメになるだろう。
カイヤ嬢の現在の地位は、彼女の目に見えない部分での努力によるものだろう。
子供達が上手にお箸を使っているのを見ても解る。
今や外タレも珍しくない日本にあって、ただモデルをやっていたというだけでは生き残れない。
カカァ天下ぶりを発揮しているのも、彼女なりの計算だろう。
自分が何を望まれているかをよく理解している。
恐らく、広いアメリカでナショナルなタレントにはなれなくても、自分の州で流れるドメスティックな番組の人気タレント程度にはなれたかもしれない。
だが、やはり、白人の彼女が日本人男性と結婚している妙が、彼女の味になっているのも確かだ。
そこらへんまで出来なければ、本当に「才能ある」とは言えないだろう。
「お互いを理解できなかった」とか言っているのは、しょせんはその程度の才能なのだ。
日本の妙ちきりんな「アドバイザー」ブームに乗って、バブルが懐かしい人達にゴージャスでファ〜〜ビュラスな夢をお伝えしている、バブリーな存在にしか過ぎない人だ。
叶姉妹に近いものがあるけれど、彼女達にはまだ「海外長者」のパトロンや夫は登場しない。
自力であそこまで這い上がってきた分だけ、海外長者と結婚して「なんちゃらアドバイザー」になった人よりも、立派かもしらん。
とにかく「海外」がらみの方のお言葉をありがたく拝聴する傾向の強い日本にあって、海外とは何も関係ない、背後すらよく解らん存在であるにも関わらず、「トータルライフコーディネーター」だか「アドバイザー」だかになっている叶姉妹はたいしたもんかもしれない。
そう、日本人は海外からのお言葉に弱い。
そういった海外からのお言葉をありがたく承る日本人の中で、「外国暮らし」「外国人の夫がいた」というのは「他とは違う」ものになる。
ましてや、それが名門の夫だったらなおさらだ。
その女性が「フジヤマ、ゲイシャ」で嫁にもらってもらった程度の女性でも、日本人は大騒ぎする。
海外の富豪が「やっぱ、中身がないのはつまんないや」とポイしたもんであっても、ありがたがってお話を拝聴させていただく。
しかし、ありがたがって拝聴している姿勢の裏側には、彼女達の安っぽさを笑うもうひとつの別の顔がある。
浮かれさせておきながら、あまりにも調子に乗ると、今度は叩き出すだろう。
まだ、そういう動きは無いけれど。
逆に、誰と結婚してようが掛け値無しにホンモノのお方が、たまたま「海外長者」と結婚してしまっていた過去があるために、足をひっぱられている。
デヴィ夫人だ。
なんちゃら寿子さんとデヴィ夫人の違いは、デヴィ夫人は結婚前から、バリバリに切れ者で有能ぶりを認められていたことだろう。
確かに、なんちゃら寿子さんがおっしゃっていることにも、もっともなことが書いてある。
しかし、彼女の言葉には、自分の国だからということで、日本に首を突っ込んできてはいるが、夫の国(自分に称号をくれた国)の方がえらくて、えらくてしょうがないという姿勢が随所に見受けられるのがいけない。
自分の母国を批判するのであっても、やっぱり切れ者とそうでない人の差が出てしまう。
デヴィ夫人のような生活をし、なんちゃら寿子さんみたく離婚後も夫の力を利用して日本に凱旋したいというならば、「夫はいない」ことが条件になるだろうな。
ってことは、離婚を前提にした国際結婚を目指す女性っていうのが増えてくるってことなんだろうか。
それはないだろう...。
そうやって読んでいくと、ますますこの特集の意図するもんが、漠然とではあっても「保守反動」のような気がしてならないである。
変だなぁ。
超アヴァンギャルドな朝日系列なのに...。
珊瑚礁にイニシャル彫ってまで記事を作り、国民を「啓蒙する」朝日がいったいどうしてしまったんだろう?
それにしても、この記事を書いた竹田さをりさん、同じ女性として、こういう女性達をこういう風に描くことに何か感じなかったんだろうか。
それとも記名記事を書かせてもらって大喜びだったのかな?
いくらトップに「そんじょそこらのお金持ちじゃない。マレーシアの王族や、香港の鳩山家に嫁いだ人がいる。彼女らに憧れる女たち。ただお金のためでなく...。」なんてことを書いても、読んだ側としたら「またいつもの日本女性の自分探し、青い鳥症候群の話でしかないじゃない」という気持になってしまうんだわ。
要は「海外長者と離婚後に自己実現」ってことでしょうが。
前の号の「ステ専」にしても、やっぱり裏に潜むキーワードは「自己実現」だった。
つまり、この二つの特集は、日本女性が一番弱い「自己実現」っていう使い古された言葉の変化した特集だってこと。
こういう極地的な話題をもっともらしく全体像みたいに扱われると、本当に面食らってしまうわ。
「ステ専」にしても「海外長者と離婚後に自己実現」特集にしても、なんか胡散臭いんだよね。
自己実現なんてのは、結婚や海外で果たせるもんじゃない。
自分自身で自分自身に向き合った末に行き着くもんだ。
ダンナの財力に寄生し、それがベースにあって初めて自己実現できるようなパラサイト妻。
この二つの特集で感じたのは、アヴァンギャルドな朝日系列も、所詮は「日本の女の自己実現なんて、しょせんはそんなもんだ」と嘲笑う、旧態然とした男中心の日本社会の一部でしかなかったということだ。
そして、その男社会に迎合することでしか「自己実現」を果たせないのを証明するかのように、女性記者が記名でこの特集を書いているのも感慨深いものがある。
道を歩いていて、傾斜があるのに気付かず、ずずずずずとすべり、見事に転倒した...。
うう、ついた左手と、したたかすりむいた左足が痛い。(;_;)
ただでさえ、左側が悪い我が身体なのに...。
おかげさまで左肩、左足、左腰、あちこちのガタがもろに出てきています。
おまけに明日は台湾全土が台風に包み込まれるそうで、今晩のうちに脱出した花屋の事務係さんを羨ましく思ったりもしている...。
うう、左側が痛いぞ。
日本神話の崩壊?
最近、雪印だけでなく、色んな日本のメーカーでの品質管理不備が報道されている。
味の素、三菱自動車に続き、今日はカゴメ。
どうなっちゃっているの?
高品質の代名詞、Made in Japanブランドというのだけが、景気のみならず、何もかんも不調の日本の心の支えだったのにね。
それまでもがダメじゃ、もうどうしょうもない。
今のMade in Japan神話を作った人達はほとんどが第一線を退いている。
今、日本社会を動かしている人達は、言うなれば前の世代が稼いだもんの利息で暮らしているに過ぎないんじゃないだろうか。
そんな気もしてくる。
台湾では哈日族なんてのがあって、今でも日本製品信仰は根強いけれど、でも、この体たらくを知る私は「そうでもないんだよ」と言いたくなる。
台湾の製品の外見はそれほどじゃなくても、内容は結構しっかりしている。
ある台湾の友達が言っていた。
「台湾の製品の品質は60%以上。中には61%程度の完成度のものもあるけれど、90%以上のものもある。ちょっとしたばらつきはあるけれど、でも、とんでもない事件はそうそう起きない。少なくとも期限切れで返ってきた製品を新製品に混入するような無茶はしない」
うなづくしかない。
更に彼女は続ける。
「台湾じゃ日本製品信仰が根強いから、事件を起こしている企業の名前を全部知っている。私だって子供の頃から雪印を知っている。台湾で日本製品が認められているのはばらつきのない高品質という点から。それがばらつきどころか、こんなひどい事件を起こしたんじゃ、台湾の品質を笑えたもんじゃないじゃないの」
まったくである。
台湾におけるMade in Japan信仰は根強い。
恐らく、他の外国と比べても、かなりなもんになる。
それは私が子供の頃の舶来品信仰にも近い。
ただ、私が子供の頃は、いくら舶来品に憧れていても、日本の経済が舶来品をばんばん輸入できる状態ではなかった。
また、舶来品をばんばん輸入することが、自国の製品の成長を妨げることを知っている人達がいた。
ドル360円の時代、どんなに憧れてもアメリカの製品は雑誌の中、テレビのドラマの中だけの存在だった。
ほしいと思っても手に入らない。
だから、父がアメリカに出張に行った時、買ってきてくれた可愛いマグネット、しゃれたキャンパスバッグなんかは、子供の小さな虚栄心をくすぐった。
(今でも私はステーショナリー系が大好きで、文房具屋と本屋巡りは外せない)
伯父がニューヨークからくれたエンパイヤステートビルの絵はがきを部屋に飾ったりした。
(今でも各地の絵はがきや様々な写真を飾るのが好き)
別の伯父が香港で買った茶器でジャスミンティーを飲んだりした。
(今でも茶のみばばぁである)
クラスメートにも誰にも言わない、自分の家だけで満足しているちょっとした虚栄心だったといえよう。
また、今の私の生活スタイルの遠い延長線上にある幼い頃の体験なのかもしれない。
子供の頃に憧れた過去があるからだろうか、今でもアメリカから送ってもらった可愛いキャンディボックスが捨てられなかったりする。
Sea'sのクリスマス限定バージョンの缶カンなんかは私のツボにはまった一品。
私はクリスマス大好き人間なのだが、それも幼い頃の体験かもしれない。
もともとそういう「舶来行事」をばんばん取り入れる横浜気質の祖母がいたため、私の周囲には欧米から中華から東南アジアに到るまで、自分達が手の伸ばせる範囲で祖母風にアレンジして置かれていた。
それでも、大体が食べるもの関係だったので、テレビの中で見る子供達が遊んでいるもの、身に付けているものは「ほしいな」と憧れる程度だった。
だから、誰かのお土産でそれが手に入ると「うわ〜〜〜!」っと大感激する。
その感激は年取った今でも忘れない。
ある叔父さんが台湾で買ってきた赤っぽい色の石で出来たブレスレットを落として割った時のショックも忘れない。
世界中に色々なものがあることを様々な「窓」からのぞきながらも、「知識」は入っても「物」は入ってこなかった。
そんな子供時代を過ごしているうちに、日本も経済大国と言われるようになった。
「留学」という言葉の持つ響きが私の中学、高校の頃とは全く異なるものになった。
どこの誰でもできるものになってしまった。
高校時代、私費留学をした同級生がいた。
彼女の父親が大学教授だったので、その縁故で知り合いのアメリカ人の家にホームステイしたのだという。
たいした話題だった。
当時、高校生の留学はほとんどが試験を受けて行くものだったからだ。
友人の一人が合格し、アイオワの田舎町に一年行ったが、その時も夢のように思えた。
自分の友達がアメリカに行って勉強したことで、「留学」も夢じゃないような気がしてきた。
それでも、アメリカは遠かった。
そんな時代だった。
それが、10年も経たないうちに日本は未曾有の好景気に襲われ、どこもかしこも有頂天になった。
フリーターなんていう変な肩書きが登場したのもその頃だ。
バイト先の社長さんが「困ったもんだ。こんな変な肩書きを作ったから、まともに仕事しようと考える若い人が減ってきた」と言っていた。
「つらい仕事、面倒な人間関係、そういったものを我慢しようとせず、嫌なもんからは逃げるという風潮がはびこってきた」とも言っていた。
「これから堪え性のない人が増えるだろうね」とも予測していた。
いわゆる「キレる」人が増えることを予測した社長さんの言葉は当たっていたのかもしれない。
私が海外に憧れ、舶来品をまぶしい思いで見ていた時代、日本自身もより良い品質の製品を求め、自分自身の中で追求していたのだろう。
外のものにおいそれと手が出せない時代だから、自分自身で作ってみようとしたのだろう。
それが今日のMade in Japan神話を生んだ。
だが、それもこれまでだろう。
バブル景気で浮かれ踊り、何もかもを崩してしまった日本では、ついに「利息」も底を突いた感じがする。
本金を使い尽くせば利息もない。
本金を稼いでくれた人達はもう第一線からは退いた。
まるっきりのゼロになる日もそう遠くないかもしれない。
その時、日本はどうするのだろう。
これまでの高品質の製品という評判を掲げることもできず、銀行神話も崩れ、大企業神話も崩れ、何が残っているだろう。
そんな日本の実情を知ってか知らずか、台湾では今や未曾有の「日本製品ブーム」。
妙な日本語を使ったCMや、日本語まがいの名前をつけたものがはびこっている。
これを「日本ブーム」と言って、「日本人にとってうれしい限り」だの、「台湾は世界一の親日国」なんて喜んでいるおめでたい日本人もいるが、そうではない。
私が台湾に来たばかりの頃は、やはり台湾でもそうそう日本製品が手に入る時代ではなかった。
日英辞典を買ってきてほしいと頼まれたこともある。
また、日本の少女漫画の付録なども中学生や高校生の女の子に喜ばれた。
私がスヌーピーの漫画が書いてあるアメリカの新聞をもらったことを思えば、その気持は十分に理解できる。
ところが、その後、あっという間に台湾は日本製品をどんどん輸入できる環境になっていった。
今や、日本の観光地は台湾からのお客に支えられていると言っても過言ではない。
普通の家の子供でも、ちょっと日本に遊学ということが可能になった。
ボロボロの日本の実態を見ることもなく、遊学した人達は日本製品の華やかさだけを目にして帰ってくる。
過去の利息でなんとか体面を整えている日本の本質に気付くことなく、日本のすごいところを吹聴して回る。
それを聞いて、また日本に妄想を抱いて出向いていく別の若い人が出て...以下同文。
そんな台湾に目をつけた、日本神話を失った日本人達がいる。
Made in Japan神話、銀行神話、大企業神話、永久雇用神話が崩れ去り、何を根拠に自分達のすごさを示せばいいのか解らなくなった日本人の一団の前に現れた秘密兵器...それが台湾だ。
「ほら、見ろ。台湾の人はあんなに日本を認めてくれているぞ」などと言い出す。
単に時差があって、先人の利息で生きていた時代の遺物を見て騒いでいるだけの相手に、自分達の存在意義の根拠を見出している。
今の実態を直視せず、既に過ぎ去った時代の残したものを根拠に騒いでいる人達に、自分達の価値を預けようとしている。
そんな時、そういった日本人は「台湾人は老人も若者も日本贔屓」とか言い出す。
老人とは、日本語を流暢に操る日本植民地時代を経験した人達。
彼らの日本礼賛に大喜びする日本人。
その日本礼賛の裏にある複雑な台湾側の問題を理解しようとはしない。
逆に、一緒になって日本礼賛する台湾人達が敵視する人達を仮想敵として共に非難する。
若者とは、私がかつてスヌーピーに夢中になったように、キティちゃんやドラえもんに夢中になった世代。
ほしくても手に入らなかった物を作っている遠い、憧れの国として日本を見ていた世代。
私は、物品による憧れが、知識によって現実に引き戻される猶予をもらえた。
しかし、台湾の若者は、その猶予を与えてもらうこともなく、いきなりの経済的な豊かさの到来で、日本製品の洗礼を浴びた。
現実に引き戻してもらえる時間もチャンスもないままに、子供時代の無邪気なマテリアリスティックな憧れのままに日本へ、日本へと目が向いていく。
しかし、そういう視線は決してホンモノの日本を見ているものではない。
日本製品礼賛の延長線上に置かれたマテリアリズムに過ぎないのだ。
彼らが目指す「日本製品」が、実は、今となっては過去の利息だけでかろうじて生き延びている事実にも気付かず、幼い頃にほしかったものを簡単に手に入れられる状態に酔い痴れているだけだ。
この手の人達に見出してもらった価値が、果たして本当に「日本人の価値」と言えるのだろうか?
単に現実を直視せず、自分達の都合だけで、自分達に必要なものを手に入れるためだけに日本を誉めそやしているに過ぎないと感じないだろうか。
日本神話の崩壊に気付いている賢明な知日派の台湾人は、この手の「浮かれ哈日族」や「自分の主義主張のみを語る老人」とは一線を画している。
このような知日派の声はなかなか日本人には届かない。
彼らは国交正常化にすら謝罪と保障を持ち出してくるような、民情を巧みに外交にすり替えるような人達とも全く違う。
史実を丹念に調べ、そこに渦巻く主義主張、人間関係、利害関係を丹念に洗い出し、更には民情にも目を向けている。
巧みな論点のすり替えを鋭い嗅覚でかぎ出し、史実を政治に利用しようとする巧妙な手段も見逃さない。
こういう人達は、なかなか声を発してくれない。
微かに、実に微かに、時折、細い信号を発するぐらいだけだ。
恐らく、知日派の多くは「日本神話」の崩壊に気付いているだろう。
また、多くの台湾人が日本礼賛の根拠にしているものが、既に現在の日本には存在していない事実にも気付いているだろう。
そのことを、彼らはなかなか口にはしていない。
しかし、必ずや、心の中で何かを思っていると私は信じている。
そんな思いがあるのも知らず、日本の現状をきっちり捉えることをせず、自分達に都合のよい日本の表面上の姿だけを語っている人達の動きを、あたかも台湾全体の動きであるかのように思い込む(思い込みたい?)日本人を見ていると、頭を抱えたくなる。
彼らが「日本」を誉めそやしてくれる心地良さにいい気になって「台湾ブーム」を引き起こし、「台湾大好き」「台湾に支援を」「日台の絆を:とか言い出すおめでたい日本人。
こういう日本人の姿を、今は黙っている知日派の台湾人達は、どういう思いで眺めているのだろう。
こっそりでいいから教えてもらいたいものである。
時に思うのだが、多くの良識的かつ自称グローバライゼーション推進派の国際派日本人は、実はとんでもなくドメスティックな発想の持ち主なんじゃなかろうか。
最低限の権利を守られ、当たり前のように国家の庇護下に置かれている人間の、現実離れした、呑気な夢想話を聞いているような気持になる。
高校時代、ジョン・レノンが殺された。
「ダブルファンタジー」というアルバムを出した直後に、狂信的なファンの凶弾に倒れた。
「ダブルファンタジー」に収録されている「イマジン」という曲を聴いた高校1年の私は深い感銘を受けた。
その証拠に高校3年の卒業の際に友人達のサイン帳にイマジンの歌詞を丁寧に写したぐらいだ。
いきなり「天国なんて存在しないって想像してごらん」という言葉で始まる曲。
「試してみれば簡単なこと」と彼は優しくささやく。
そして「天国が存在しなければ我々の足元に地獄もない」と続く。
「頭の上にあるのは青い空だけ」と、概念、幻想、妄想ではなく、事実だけを見よと言うかのように彼は最初の言葉を締めくくる。
この理想とも夢想ともいえる彼のひとつひとつの言葉に、そういった世界に到達するのは難しくても、そういう心を抱いてほしいというジョンの魂の声が潜んでいるような気がした。
国がなければ国家のためと殺したり死ぬこともない。
宗教も同じこと。
みんなが分かち合い、平和に暮らす。
おお、「フォレスト・ガンプ」で思いっきりパロられていたのを思い出した。
共産主義的発想なんだわな、これ。(^^;
結局、共産主義にしても、主義自体は立派だし、清潔なんだけど...。
でも、結局は人間のすることなんだわ。
彼がここで言っていることは決して実現しないだろう。
大人になって現実に突き当たるにつれ、そう悟った。
彼が願った世界は世界中の人間がそうなることが必須条件だからだ。
誰か一人でも、それを崩す発想をする人間が存在したら、すぐに崩れ去る空中楼閣のようにもろい世界。
非常に均質な空気の中でのみ、姿を現せるもの。
誠実で正直で誠意ある「善意の日本人」が、日本国内で見かける外国人差別やら、歴史問題を前にして、国家体制を否定し、やれ、グローバライゼーションの時代だとか、地球村だとか、世界はひとつとか言っているのを見ると、それは「日本国内の常識」でしかないんだと言いたくなる。
もちろん、彼らの心意気は立派だ。
しかし、その「日本の常識」がいくら清潔で御立派で、外来の理想を見事に日本に定着させた成果だとしても、そのまんまで表の世界に出て行ったら、丸腰で強盗の群れの中に入るようなものだ。
そんな常識を相手に求めても、自分には求めていない人達が世界にはうろうろしているのだから。
中央アジアの国々がロシアから離れ、旧ソ連勢力から距離を置こうとすれば、すぐそこに宗教の力を利用して入り込んでくる人達がいる。
隙間が出来たところを狙って、自分達の利益になることをしようとしている狼のようなグループ(敢えて国家とは言わない…それは国家以上の勢力だったりするからだ)が入り込んでくる。
長い歴史を眺めていて、どこかの土地に隙間ができれば、別の勢力が外から入り込もうと虎視眈々と狙っている。
明治維新前の日本を見ても解るだろう。
そんなことを忘れ、世界の他の国も、日本の見せるグローバライゼーション(あるいは亡国?)を認め、賞賛してくれるだろうという天真爛漫で無邪気な発想を持てる彼らが羨ましい。
その行為を外国が誉めてくれるのは、自らが食べるチャンスを増やしてくれるからに他ならない。
国家を否定せねばグローバライゼーションは不可能なのか。
それならば永遠にグローバライゼーションは無理だろう。
何故なら国家を背景に持つことで自分の進む道を有利にしている人達がいる限り、国家は消えないからだ。
ジョンは音楽という強い支えを持っていた。
国境も人種も宗教をも越える強い支えだ。
でも、多くの凡人が頼るものは、守ってくれて安心して住むことができる「自分が属すグループ」。
人間、同じ血と文化を分かち合う人達のいるところに属していたいという本能がある。
知らないものは不気味で恐いからだ。
自分達と同じように猜疑心と恐怖にさいなまれた別のグループのメンバーを無気味に思うからだ。
そういう人達の持つ恐怖や不安をなだめる術を知らない。
だから、私には彼らを責める気にはなれない。
責めるべき相手は、彼らのそういった真情を巧みに利用し、自らの利益につなげようとする人達だ。
また、彼らの恐怖や不安をよそに、現実味のない理想論だけを唱えているのもいただけない。
ジョンは歌によって平和を訴えた。
しかし、彼の歌を熱心に聞いていたはずのファンである青年に彼のメッセージは届いていなかった。
彼の歌詞に込められた思いは、一人の人間の欲望の前にあえ無く果てた。
彼の魂は残っても、彼がつむぎだす平和の言葉はもう現れない。
どうしたら具体的に、普通の人々の恐怖や不安をなだめつつ、平等で平和な社会に近づけるのか。
国という概念を残しながらも、そこでいかなる人であっても理不尽な理由で泣かされることがないようにできるのか。
その国の規範に縛られながらも不当な扱いを受けている人がいないようにできるのか。
外国に住んでいる日本人の立場を国内の日本人と同じと思って「日本人VS外国人」の構図で判断する「国際的で開明的な日本人」にも出会う。
在台日本人が居留に関して何か訴えているものを見ても「弱い立場の台湾人」相手に高飛車に意見を叩きつける「おごった日本人」と思われる方もいらっしゃる。
そういう時、私は血よりも立場だとつくづく思う。
同じ立場にあるフィリピン女性との方がずっと通じ合える。
均質な環境に置かれたものの妙な連帯感というか、帰属意識とでも言うのだろうか。
徹底的にヨソモノ扱いされた時、心の中に生まれるのは「そうさ、自分はヨソモノだよ」という開き直りだろう。
ヨソモノにされたことのない幸せな人には理解できない思いだろう。
父親と息子が買ってきた外国人嫁のスワップをしようとした話が問題視されるどころか「東京に狸が出現しました」程度の街の面白い話題として扱われるところで、外国人嫁をする人間の思いを「ドメスティック」な中での「グローバライゼーション」をしようという人達に話しても無駄だろう。
違う常識、違う状況の中に居ると、日本がドメスティックかつ均等な環境の中で、無邪気にグローバライゼーションしようとしている姿に不安を覚えるようになってくる。
そもそも「違う」という発想のもとに立っている自らを多民族国家と呼んでいる国では、こんな無邪気な発想は生まれないだろう。
こういう笑い話をもらった。
In message "Fwd:this is how it works",
So this is how it works...
Caucasian Woman
First date: You get to kiss her goodnight.
Second date: You get to grope all over and
make out.
Third date: You get to have sex in the missionary
position.
Then you promise to marry her but will probably
abandon the idea.
Japanese Woman
First date: She's shy, so you don't get to
kiss her at all.
Second date: She'll take a bath in front of
you and let you smell her panties.
Third date: You get to have kinky sex with
her. Then she will bid you
sayonara as that was her fling before getting
married to a Japanese man.
Malay Woman
First date: You get to touch those big breasts
of hers.
Second date: You get to home plate with her.
Third date: You have to promise her that you
are gonna get circumcised.
Then you will marry her and find out that
you have to support her whole
family. The only consolation is that
you get to repeat the procedure
three other times as allowed under Muslim
law.
Chinese Woman
First date: You get to buy her an expensive
dinner
but nothing happened.
Second date: You buy her an even more expensive
dinner
but nothing happened either.
Third date: You don't even get to the third
date and
you have already realized nothing is going
to happen.
Indian Woman
First date: Meet her parents.
Second date: Set the date of the wedding.
Third date: Wedding night.
真偽はともかくとして、こうやって民族ごとに違うんだという発想の下に書かれた文章だと思う。
違うという事実を念頭において、上手に衝突を回避し、これらの人達とも良い関係を築き、ひとつになる方向に進むにはどうしたらいいのか。
そういうことを、「ドメスティックグローバライゼーション」の旗手達は理解しているのだろうか。
こうやって夢想家達を批判したのは、他でもない、自戒の意味もこめてだ。
国が亡くなれば、今、こうやって悩んでいるものは消えるが、下手をすれば別のもっと大きな勢力の圧力に屈し、人権の著しい侵害を味わう危険性も大いにあると思うからだ。
自分達と同じ発想しか世界に無いと思う幻想は捨てた方がいい。
大きな枠組みである「国」の中にいることで、そういう理想や夢想も守られているという限界を知らねばならない。
もちろん、私は民族主義的国粋主義は大嫌いだ。
百害あって一利無し。
しかし、行政上の決まりで囲われた土地の中で一緒に暮らす人達が、それ相応の土地への帰属意識を持つのは悪いことではないと思う。
「大地の子」で残留日本人である主人公が自らを中国という大地の子であるというラストシーンを見て感じた。
自分の血、先祖、親がいかなるものであっても、その土地が自分の父母なのだという「土地」への帰属意識がそれぞれにあれば、国内でのバカらしい民族差別、紛争、宗教問題もなくなるだろう。
お互いにそれを尊重しあえたらと願う。
そして、それが自らの土地を慈しむのと同様に、他者が他者の土地を愛する心情を理解する鍵になってくれたらと願う。
変な血統意識や民族意識や国籍意識を持つのではなく、血は国境を越えるし、国籍は血を越えるし、宗教は民族を越えるし、民族は宗教を越えるというプラス思考な発想が、この地球上に多く生まれるといいと切に願う。
右翼が主張する現実(事実ではない)を見据え、左翼が主張する理想(あるいは夢想)を見上げ、これから日本はどうあるべきか深く考えてしまう。
そして、どちらにも偏ることなく、中庸の道を歩く方法を模索していくしかないと思うのだ。
minmin@geocities.co.jp