![]() そうして、マンガについて語るとするなら、そこから始めなければなるまい。作品分析でも、史でもなく、ましてや状況論や文化時評であってもならない。いま、僕が必要としているのは、僕自身のためのマンガ原論≠ネのだから……。 (「マンガの快楽」p175) |
この評論集が出版されてから、もう10年にもなる。だが内容は、そう古びていない。それはマンガを取り巻く状況が、本質的な変化を来たしていない、ということかもしれない。あるいは、ここに語られる内容が、いくばくかの本質をつかんでいるからかもしれない。もしくは、10年という年月は、「過去」というほどには過去ではないという、ただそれだけの距離の近さによるものかもしれない。 現在に至るまで、マンガについての「批評」の言葉は少なかった。それはこの本が出版された80年代中葉においてもそうであったし、それからもやはり、正当に批評されることはなかったのだと思う。 それは「マンガの快楽」の中で米沢嘉博が「本来、マンガに対する評価とは、面白い!! 面白くない!? 好きだ!! 嫌いだ!! で済むものなの」という通りだからでもある。だがそれは、同時に、竹内オサムが「マンガ批評の現在」のなかで印象批評の一応の価値を評価しつつも、「しかし、といいたい。いま印象批評が、情報記事に堕落する危険を回避する、どのような装置を、批評自らがその内に秘めているのか。また、批評が世代論に収束してしまう閉鎖的傾向に、どんな形でブレーキがかけられるのか。批評はついに、消費される言葉にすぎないのか。」と批判するようなものでもある。
マンガを語る言葉が印象=感性に拠ったものになりがちなのにも理由はある。その最大のもの、読者とマンガとの距離(マンガを読む、すなわちマンガを体験するという「個別的な、愛の」時間)についての優れた考察が、「愛の時間――いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」(加藤幹郎)である。
もっともそれが困難だとはいえ、不可能というわけではないのも明らかだ。「同一性のたえざる反復」(宇波彰)という「めぞん一刻」を扱った論文や(同程度に優れたものが大塚英志の論にも存在する)、またマルクス主義的「気分はもう戦争」(当然、矢作・大友のクレジットによるもの)論とでもいうべき「なにが「気分」か?」(市田良彦)をみてもそれはわかる。とりわけ「ブルジョアイデオロギーによる抑圧」という神話を崩壊させるものとしての「戦争(闘争)という気分」を語った市田良彦の批評は秀逸である。
それにしても、本書の締めくくりが前出の米沢嘉博の「マンガの快楽」というのには(編者の論を最後にする、という以上の)なにか恣意的なものを感じないでもない。つまりそれは客観的=分析批評の手法を随所に取りいれつつも、一方で感覚的な、感性的な、マンガへの愛にみちみちた論だからだ。
マンガとのかかわりかた、を別にして、人はほんとうにはマンガを語れないのだろう。マンガとはおそらく、そういうメディアなのだ。そして人がマンガを表層的イデオロギー的にではなく、「ほんとうに」語るとき、それは魅力的な論となる。本書がいまも古びておらず魅力的ですらあるのは、この幾人かの書き手が「ほんとうに」マンガを語っているからだと感じる。 |
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