『マンガ批評宣言』

米沢嘉博・編
亜紀書房 2000円+税

 何時までも、僕らは何故にマンガを手放さないのだろう。いや、僕はどうしてマンガを読むことをやめようとしないのだろうか。小さい頃からつきあい、様々なことを教え、楽しませてくれた「マンガ」に義理立てしているわけではないのだ。未だ、マンガを読むことが楽しいのだ。マンガを読んでいる時間を持つことがうれしいのだ。さらには、さして変わりばえのしないストーリーが次々と生み出され、一月二千本余りの似たような物語が送り出されてくるにもかかわらず、そのすべてを読みたいとさえ思ってしまう。(中略)とにもかくにも、僕はマンガが好きなのだ。
 そうして、マンガについて語るとするなら、そこから始めなければなるまい。作品分析でも、史でもなく、ましてや状況論や文化時評であってもならない。いま、僕が必要としているのは、僕自身のためのマンガ原論≠ネのだから……。

(「マンガの快楽」p175)
 
 この評論集が出版されてから、もう10年にもなる。だが内容は、そう古びていない。それはマンガを取り巻く状況が、本質的な変化を来たしていない、ということかもしれない。あるいは、ここに語られる内容が、いくばくかの本質をつかんでいるからかもしれない。もしくは、10年という年月は、「過去」というほどには過去ではないという、ただそれだけの距離の近さによるものかもしれない。

 現在に至るまで、マンガについての「批評」の言葉は少なかった。それはこの本が出版された80年代中葉においてもそうであったし、それからもやはり、正当に批評されることはなかったのだと思う。

 それは「マンガの快楽」の中で米沢嘉博が「本来、マンガに対する評価とは、面白い!! 面白くない!? 好きだ!! 嫌いだ!! で済むものなの」という通りだからでもある。だがそれは、同時に、竹内オサムが「マンガ批評の現在」のなかで印象批評の一応の価値を評価しつつも、「しかし、といいたい。いま印象批評が、情報記事に堕落する危険を回避する、どのような装置を、批評自らがその内に秘めているのか。また、批評が世代論に収束してしまう閉鎖的傾向に、どんな形でブレーキがかけられるのか。批評はついに、消費される言葉にすぎないのか。」と批判するようなものでもある。

 マンガを語る言葉が印象=感性に拠ったものになりがちなのにも理由はある。その最大のもの、読者とマンガとの距離(マンガを読む、すなわちマンガを体験するという「個別的な、愛の」時間)についての優れた考察が、「愛の時間――いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」(加藤幹郎)である。
 マンガが個別な体験である、というのは、「サイボーグ009」のひとコマ、落下する一瞬の飛行機を遠景から切り取った大ゴマについての文章に詳しい。
 曰く――「しかし、これは映画のストップモーションとはまったく異質である。おそるべき速度で墜落するジェット機をとらえた画面ではあるが、これは切断された時間の一片をしめすものではない。ここで運動は停止しているわけではない。つまりこのジェット機は(わたしがこのコマを凝視しつづけるかぎりにおいて)無限に永遠に落下しつづけるのだ。が、この下降運動に終わりがないわけではない。わたしがこのコマを見つめることをやめて次の頁をひらけばそれは終わる。(中略)島村ジョーをのせたジェット機はわたしの視線によってわたしの視線とともに落下を続ける。ここに充実した時間の経験がある」。
 しかし、その時間とはあくまで、私的な時間、私的な関係性に閉じた体験であって、均質な=公的な関係性のもとに語られるものには、たしかになり難いのである。

 もっともそれが困難だとはいえ、不可能というわけではないのも明らかだ。「同一性のたえざる反復」(宇波彰)という「めぞん一刻」を扱った論文や(同程度に優れたものが大塚英志の論にも存在する)、またマルクス主義的「気分はもう戦争」(当然、矢作・大友のクレジットによるもの)論とでもいうべき「なにが「気分」か?」(市田良彦)をみてもそれはわかる。とりわけ「ブルジョアイデオロギーによる抑圧」という神話を崩壊させるものとしての「戦争(闘争)という気分」を語った市田良彦の批評は秀逸である。
 ここに収録されているものでは、渡部直己の「変換の機微」という「がきデカ」再論も新味はないが、まあ、悪くはない。しかし、「嘘の力と力の嘘――大島弓子と、そのいくつかの政治学」の樫村晴香は、言語を絶するセンスのない文章が内容を語らせない。論文というからには、もうすこし文章の書き方を学んだ方がいい、というレベルで。樫村の文は、困難に突き当たる以前に、読者に向って走り出せていないのだ。

 それにしても、本書の締めくくりが前出の米沢嘉博の「マンガの快楽」というのには(編者の論を最後にする、という以上の)なにか恣意的なものを感じないでもない。つまりそれは客観的=分析批評の手法を随所に取りいれつつも、一方で感覚的な、感性的な、マンガへの愛にみちみちた論だからだ。
 米沢は最後にこう書いている。「あらゆる側面を持ちながら、それだけで語ってしまってはいけない多面性、いや重層構造を持つマンガは、結局のところ、僕にとって、一つの「装置」としてあり続けてきた。何のためのかって、もちろん、僕を楽しませ、僕自身を確認させるためのそれとしてである。だから、僕はマンガから離れられないのだし、また多くのマンガの読者もそうであるのだろうと、うすぼんやり思いながらこの稿を終わらせようと思う。」

 マンガとのかかわりかた、を別にして、人はほんとうにはマンガを語れないのだろう。マンガとはおそらく、そういうメディアなのだ。そして人がマンガを表層的イデオロギー的にではなく、「ほんとうに」語るとき、それは魅力的な論となる。本書がいまも古びておらず魅力的ですらあるのは、この幾人かの書き手が「ほんとうに」マンガを語っているからだと感じる。

Grade [ B+ ]
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