引っ越しに当たって二年間飼っていた金魚を校内の池に放すことになった。 スポーツドリンクの巨大なボトルにすっかりビチビチに肥えた彼らを無理矢理 突っ込み、池に放して帰ってくると、かぶ子(同居人)とキノコ(かぶ子の彼氏 で同じく同居人)が帰ってきていた。 もともと普段から会話がないので素通りしようとしたところ、金魚のことを 思い出し、言った。 「今、金魚放してきたから」 「え、そうなの?」 なんか意外というかあっさりというかどっちつかずの反応だった。もともと金魚 を飼おうと言い出したのは誰だったか。今はもう覚えていない。が、キノコが 買った水槽が手持ちぶさたで放置してあったので、水を入れてフィルターを 付けて、後は金魚を入れるだけの状態にしたのは私だったような気がする。 二年前のあの頃は同居人四人の間にコミュニケーションも普通程度にあり、 かぶ子も話の分からないエキセントリックぶりは相変わらずであったが、 それでも世間話くらいはしていた。何時からだろう、バーゲンで買って きた品を私の目の前10cmまで持ってきては満面の笑顔で 「これ可愛いデショ?」 と十回は繰り返していたかぶ子がまったく品物自慢をしなくなったのは。 個人的には「いくらで○○を買ったか」やら「自分は規制価格よりこれだけ 安く買えた」ゆえに「自分は買い物上手なのだ」という 会話は ものすごく無意味であり、苦手なのだ。苦手だけれども適当に 笑って話を合わせることくらいは最初のあたりは出来ていた。誰にでもそういう 友達や知り合いが一人はいるように、まさにかぶ子が私にとっての 「適当にあしらえば良い」人物だった。が、同居となると話は違った。 もしもかぶ子が単なるクラスメートで四六時中顔を突き合わせなくても 良い人物なら、私も愛想よくあしらえたであろう。が、同じアパート、 同じ部屋、空間を共にしている相手にこういう心底どうでも良い話 をされると鬱憤を晴らせる場所がないのだ。家こそが全て。 家こそが最も自分が自分らしくして良い場所だったのに、二年前を境に 家こそが最も疲れる場所になっていたのだ。これは生まれて初めての同居、 自炊生活の中で見出した真実のひとつだった。他人と住むことの難しさ、 コミュニケーションの大切さ、etc.などは同居生活がメジャーなアメリカの大学生 達にとって毎日向き合わなければならない事実なのだ。
「同居人と上手くやっていけない、一緒に住むのが苦痛、会話がうまくいかない、 そんな悩みを抱える人達の為のレクチャーが○○○ホールにて○月○日・・・」 とあった。皆通ってくる道のりなのだなーと、そのレクチャーに少し興味が 湧いたが同居生活もあと数ヶ月の辛抱だと思い、結局行かなかった。
最初は四人が面白がって可愛がっていた金魚五匹も一匹死に、水槽もだんだん 苔むし、何度目かの水変えの頃にはかぶ子もキノコも知らん顔だった。 そんな時にはNと一緒に二人をボロクソに言いながら水槽を洗ったりした。 そんな北風ピューピューな暮らしぶりの中で金魚四匹は常に能天気そうに各々 尻から5cm強もある糞をたなびかせては泳いでいた。
今までの水槽の百倍以上もある池の水によく馴染ませてから四匹を放してもすぐには 泳がなかった。四匹が兄弟のように、離れ離れにならないように固まっているのを見て思う。 「やっぱり人間とは違う」 が、団体行動を乱すことなくツイツイと滑るように泳ぐ彼らの動きが乱れ始めたのは、 放してからほんの数十秒後であった。 一匹が群れから抜け、そしてもう一匹がそっちについていくと、そこには見事に 二グループに別れた金魚がいた。最初の団結ぶりはどこへやら、二手に別れて 別々の方向に泳いでいく金魚たちに私は自分達の同居生活を重ね見た。 「なんかうちらとかぶ子達みたいだね」 と池のメダカを見ていたNに言うと「うーん」とあやふやな返事が返ってきた。 その後その池にナマズのような鯉とか、苔で全身をカモフラージュしてるザリガニ などがいることを知って慌てる私たちであった。リサーチ不足。 |