「和ちゃん、明日って学院の教師感謝デーだな」
突然、キールがそんな事を口にしたので、如月和は小首を傾げて、読んでいた本から目線をはずした。
確かに明日は――学院を卒業してから随分たつので、すっかり忘れていたが――教師に感謝する日だ。日頃お世話になっている感謝の気持ちを教師に伝える日――その日を作ったのが、生徒ではなく教師だという点が、少々あれだが、それでも、この日はそれなりに盛り上がる。
「そういえばそうだね。懐かしいけど……でも、それが何か?」
「ちょっと、昔、世話になった教師にお礼参りでもしようかと思ってな」
にやり、と笑うキールの姿は何処から見ても極悪非道で、和は思わず頭を抱えた。
キールの言う「お礼参り」が、ただ純粋に、今まで口に出来なかった感謝の気持ちを教師達に伝えようと言うものであることは、長い付き合いの和には分かっている。もっとも、キールが感謝するような教師が存在したという事実は、いささか驚きではあったのだが、基本的に素直なキールの本質を見抜いた教師も居たという事なのだろう。
それはともかくとして、お礼参りの本当の意味は――
「春ちゃん、お礼参りの意味って分かってる?」
万に一の可能性として、キールがお礼参りの意味を正しく理解したうえで、それを行うこともあり得るわけで、和は頭痛をい覚えながらも、キールに問いかけた。
「意味も何も……教師に礼を言ってまわる事だろ?」
やはり、万に一つの可能性だったわけだ。和は苦笑を浮かべた。
キールの場合、下手にお礼参りの本当の意味を教えるのも問題かもしれない。そんなイベントもあるのか、とお礼の事はすっかり忘れて「お礼参り」に励むだろう。キールを恐れていた教師の数は両手の指の数では足りないのだから。
これが、某国の騎士であったら、お礼参りの本当の意味を教えた上で、それを実行するようにしむけただろうが、基本的に善人なかずには、それを黙ってみている事はできなかった。
「和ちゃん、先生に感謝することはとてもいい事ではあると思うけれどね」
まさか、お礼参りの意味を教えなければならないとは。
キールの育ちのよさは折り紙付きだ。幼い頃から学院で育ったというのに、その家柄のよさと家庭環境の所為もあって、あまり下々の会話を耳に入れる機会がなかったせいだろう。それに加えて、幼い頃のキールは、今のキールからは信じられない程、酷く内向的な性格をしていたのだ。世間知らずなのもしかたがない。
「お礼参りはまずいとおもうよ」
キールは目線だけを和に向けてきた。
「お礼参りっていうのは、普通、卒業式にお世話になった先生達に木刀とかをプレゼントするものだから」
嘘は言っていない。
肝心な部分を若干曖昧に言ったとはいえ、嘘を吐いているわけではない。木刀で殴る事をプレゼントと称する事が許されるならば、の話だが。
「だから、教師感謝デーには合わないんじゃないかな」
キールは成る程と頷いた。
「でも、なんで木刀をプレゼントするんだ?ルルマリエやチョコレートならわかるが」
ここで、キールに疑問を持たせてはいけない。ここで、キールが納得しなければ、血で血を洗う教師感謝デーが待っているのだ。
和は心の中で拳をにぎった。
「きっと、これからもご鞭撻の程、よろしくお願いしますっていう事じゃないかな」
「へぇ。でも、俺が学院に居た頃、そんなもん見たことなかったぞ?」
なかなか鋭いところをついてくる。和は内心苦笑を浮かべた。
「最近少なくなってきたね。木刀って意外と値がはるから、お礼参り自体が廃れてきているんだよ」
そういうもんなのか、とキールが感心したように呟いた。
なんとか、血で血を洗う教師感謝デーは回避できたらしい。
「それはそうと、春ちゃん、どうして今更お礼なんて?」
和が尋ねると、キールはにやりと笑った。
「ある教師に金を貸したのを思い出して。俺がこんなにも偉くなっちまったから、返し辛いんじゃないかと思って、俺様から出向いてやる事にした」
「いくら?」
何か変だと思いつつ、尋ねると、キールは指を二本立てた。
「2万?」
キールはふるふるとかぶりをふる。
「じゃあ、20万?」
キールはもう一度かぶりを振った。
「200ポレだ」
200ポレといえば、ペットボトルのジュースがようやく一つ買えるだけのお金だ。
「その、たった200を回収しにいくのが……お礼なの?」
「物を返さないままだと罪悪感が残るだろ?200なんてはした金、別にどうでもいいんだけど、あの教師にはいろいろと世話になったしな」
和はぐったりとソファに身体を投げ出した。
……そもそも、キールのお礼は常人には理解できない事なのかもしれない。