ある日系アメリカ人の生涯

テラオミチオさんは1919年12月、カリフォルニア州Fresno市に生まれた。 両親は日本からの移民。母は彼が1才の時広島の両親に会わせに 日本に帰国した。父も七年後に帰国したが、テラオさんは15才の時渡米、 Nile市の母方のおじ、おばの元で園芸の仕事をし、夜は英語 学校へ通う生活を送った。21才のとき陸軍に召集された。 この二ヵ月後、日本の真珠湾攻撃があった。攻撃後日系アメリカ人は 武器を取り上げられテラオさんはテキサス州に拘留された。

第二次戦争中、同じような扱いを受けた日系アメリカ人のみで構成された 442部隊が編成され、1943年10月にヨーロッパに派遣された。イタリア、 フランスで自軍を救助する任務だった。しかし442部隊の犠牲者が救助する 人数を上回るなど戦いは厳しかった。しかし皆アメリカ人であることを示 すために戦った。途中ドイツ軍の弾丸がバランスを崩し中を浮いた自分 のヘルメットを貫通し九死に一生を得たがその後地雷にやられてひざを 痛め戦列を離れた。コロラド州Denver市のFort Simmons病院に入院した。 入院中の8月6日1945年、アメリカ軍は広島に原爆を投下したのだ。 広島は彼が15才まで過ごし、両親、妹、親戚がいる故郷であった。 彼らの無事を知るまでに大変な心配をした。1945年秋に退院し、そこで ウノユリさんという女性に出会い、翌年3月に結婚した。コロラド州には 1951年まで滞在し、ガレージの修理工、さらに奥さんの実家Ault市で農業 を手伝った。

1951年にカリフォルニア州に移住、トマト農園をはじめたが1955年の サクラメント川の大氾濫で自宅、農園を失った。その後Nile市に住むおじ の元で園芸をはじめ、これが彼の生涯の仕事になった。1957年にMountain View市に引っ越し、生涯をこの地でおくる。2003年2月20日に心不全で 亡くなった。戦争で痛めたひざは一生不自由だった。

(3-10-2003 SJ Mercury Newsより)

今回のアメリカ文化のお値段、つけられず。


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