60年前の4月

ちょうど60年前の1942年4月、第二次世界大戦中のアメリカで 日系人の強制収容が始まった。近くのSanta Cruz Countyでも 1160人の日系人すべてが1942年5月までに収容所に送還された。

当時のイタリアの移民の家族の娘の回想録が新聞に紹介されていた。 和訳の勉強と思い訳してみた。(少々意訳もあり)

私たち家族はパールハーバーの攻撃の時サンフランシスコに住んでいた。 日本の攻撃の後、国民の愛国心は高まり、多くの人たちが軍に志願し、 多くの労働者が軍需産業に転換していった。攻撃後の6ヶ月間、この地域は 多くの停電があった。(なぜかは書かれていない) 父は我々がイタリアの移民であることも考え、戦争に近いサンフランシスコ に住むのは危険と感じ、少しでも遠のくため引越しを決意した。 1942年4月のことだった。不動産屋からMountain View(サンフランシスコから 車で一時間程度)にある12 acreの土地の話があり、父がこの土地を $8000で応札した。この土地は果物畑でラズべリ、アプリコットがなっており、 水回りも良く良質な物件であった。希望価格は$10,000だったにも係らず、 すぐに決まった。所有者はアベさん、6人の子供がおり、あと一週間で 強制収容所へ出発することが決まっていた。アベさんは5年前にこの 土地を購入して果物畑を作り、ちょうどラズべリの成長がたけなわを 迎えた時の収容所行きだった。父はアベさんからFordのトラックも$250で 譲り受け、父はアベさんの出発の日、アベさん家族を収容所行きの汽車 の駅まで送った。あの日は250人あまりの日系アメリカ人が駅に集まっていた。 その日帰宅した父は口数少なかった。父も沈痛な気持ちもわかった。 父は重々しく口を開いた。 "なぜ彼らだけがすべてを手放して収容所へ行くのかわからない、 私の祖国もアメリカと戦争をしている。 私と違うのは肌の色と風貌だけ。なのに彼らの不幸の上に 満足している自分はなんなんだ。。。。 父はその後この事を口にすることはなかった。

我々がアベさんの家に引越しラズべリーの収穫がたけなわになり、 多忙な毎日を過ごしていた頃、収容所のアベさんから予期しない 引越し通知がきた。手紙はUtah州の消印があり、ラズベリの収穫を 心配して、何か困ったことがあれば相談に乗るという内容だった。 私はこの手紙をイタリア語に訳して両親に聞かせた。 両親は無言だった。私はもう一度読んだ。すると父はこの手紙には 返事はできないと言った。 "どうしてなの、この人たちは助けの手を差し伸べているのよ、 彼らだって土地を売りたくもないし、引っ越しだってしたくも なかったのに、それでも助けてくれようとしているのよ。 もし私たちが逆の立場だったらできないかも知れないのよ" 文句言いの私は父に反抗した。父は"マリー、もう十分だ、この手紙に 返事は不要だ" 手紙はそのままになったが、私はアベさん家族の行方を よく心配した。

終戦後アベさんたちがMountain Viewに戻ったことを知った。2 acreの 土地を$10000で買ったらしい。私はアベさんが私の家によってくれる事を 期待していたが、現れる事は無かった。彼らが植えた前庭にある さくらんぼの木を見てくれたのではないか、またらずべりのかわりに さくらんぼの木を植えた事を知ってくれただろうか。

現在私の両親はもういない。子供たちは自分たちの人生を歩んでいる。 アベさんには一度も会ったことはなかったが、あの返事が書けなかった 手紙が私や家族にどれだけの意味を持つのかアベさんに伝える事ができ なかったことをいつも残念に思う。

今回のアメリカ文化のお値段、つけられず。


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