あなたは、どれぐらい日光を知っていますか?




東照宮は、ご承知の通り、徳川家康がまつられています。
しかしなぜ日光にあるのでしょうか。
なぜ日光に移されたのでしょうか。
家康は元和二年(1616)に亡くなりました。
関ヶ原の、16年後です。日光に葬れと言うのは、 家康の遺言だそうです。
そんな謎が、このホームページの名前「日光の謎」として つらつらと書いていきたいと思います。
まだ途中ですが、これからもよろしくお願いします。
1東照宮はなぜ日光に
東照宮は(家康の改葬の時には、まだ東照社であり、後に朝廷から宮の称号が与えられた。)
なぜ日光へ」冒頭に書いたように、家康自身が日光に奉ってくれと遺言した。
しかし、その本当の理由は何だったんでしょうか?
言われている理由の一つが、江戸の真北に日光があった。
これは地図を見ていただくと良くおわかりになると思います。
他にも江戸幕府は、川越に東延寺を建ててもいます。
北と言う方角は、風水からみても祖先を奉るにはいい方角だそうです。

2東照宮は何のために
当然家康を奉るためと答えるでしょうがそれだけでしょうか?
江戸幕府の安泰を計るのが一番の目的とすれば、実はいざ言うときの 防備の城としての転用を考えていたのではないでしょうか?
神社がと、お思いになるかもしれませんが、一度おいでになれば、 東照宮は攻めるに難く守るに易い地形をしています。
前を流れる大谷川の橋を落としてしまえばいいのですから。
後ろは山です。
他にも今も伝わる春秋の千人武者行列。
そのために、東照宮は千人武者行列用の武具保管庫を保持しています。
これは、武器を保全を兼ねたお祭りなのではないでしょうか。
また、信長の比叡山の焼き討ちにもあるとおり、この時代の寺社は、 僧が僧兵としていました。
今考えるよりも、寺社が武器を持つというのは、 当たり前の時代だったのではないでしょうか?

3東照宮の敵は誰か?
上の2から考えると、東照宮つまり江戸幕府(家康)には仮想の敵がいたはずです。
その敵は、当然日光に落ち延びることを考えているとすれば、 当然江戸より、西になります。
東照宮の出来た1年前に、大阪夏の陣が終わっていますが、やはり豊臣家、豊臣恩顧の武将と考えるのが妥当でしょう。
とすれば、具体名をあげれば、九州の島津、中国の毛利当たりでしょうか。
実際3百年後には、薩摩、長州に倒幕されているのですから、 家康の仮想敵が西国大名というのは、恐れ入ります。
(しかし、戊辰戦争では、東照宮は戦場になっていません。
私の仮説と反すると、考える方もいると思いますが、 この次に、検証したいと思います。)

4東照宮のモデルはあったのか?
ここで言うモデルとは、家康が神として奉られるに言うことです。

人が亡くなって神に奉られると言うのは、実はそれほど珍しいことではありません。
例をあげますと、平 正門の神社、菅原道真の天満宮、他に、源 義経、奥州藤原三代など、 例をあげればキリがありません。
では、なぜ神として奉られたかというと、二つ大きな理由があります。
一つは、亡くなり方が、不幸だったために、たたりを恐れて、神とする。
菅原道真、平 将門はその良い例でしょう。
二つ目は、生前の功績が大きいためにその威光を利用する、預かるためにと神に奉る場合です。
徳川 家康も、当然この第二の理由により、神と奉られて、その名の通り、ご威光が日本を照らすようにと、 東照宮となったのだと思います。

さて、東照宮のモデルですが、となると、あの人しか考えられません。
そう、豊臣 秀吉です。やはり、京都で豊国神社として奉られています。

では、どうしてそう考えられるかというと、一つは、名前の問題があげられます。
東照大権現となっていますが、東照の下に、大権現とするか、明神とするか、江戸幕府のブレーン天海上人との間で論争があったそうです。
そこで、東照大権現となった大きな決め手が、豊国神社の秀吉が、豊国大明神と奉られていたため、 明神は、吉名ではないとなり、天海上人の推す東照大権現となったそうです。
またもう一つ、推測できることは、家康は晩年豊国神社を廃して、跡形もないようにしています。
(現在の豊国神社は、明治政府が建て直したもので、当時の様子や規模も分からなくなっているようです。
当然、派手好みの秀吉を奉るのですから、現存すれば、東照宮と似ていた、あるいは東照宮が似ていたことだと思うのですが。どうでしょうか?)
なぜ、家康は豊国神社を壊さなければ、ならなかったかと言うと、豊国神社(秀吉のご威光で国を豊かにすると言う意味ですから)東照宮の目的と、一致します。
同じ目的の神は、一つしか必要ないでしょうし、豊臣秀吉の怨霊も考えられます。
(豊国神社は、その建立時点では、上で述べた第二の理由秀吉が偉大だから、神になったのですが、家康は、豊臣家を滅ぼしていますので、秀吉の神は怨霊としても位置づけられると思ったのでしょう。)
当然、神は、怨霊の方が、霊力が強いと決まっていまし、元々家康は秀吉の臣下となっていたわけですから、秀吉に徳川の世をじゃまされないためにも、壊したのでしょう。

以上の東照宮(家康を神として奉ること)のモデルは秀吉の豊国神社だったと、私は、結論づけました。
しかし、それは、名前も違えたことからも、ただの真似ではなく、それなりに、豊国神社を昇華させた形をとった、のは間違いないと思いますが。
素人の私の考えですので、反論、推察などありましたら、お寄せ下さい。

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