社歌の淵源を探る


平成元年6月5日
平成15年5月5日加筆修正

■1.はじめに

 今回のスタディでは、社歌のルーツを特定するに至らなかった。それは、社歌を正面か ら扱った文献は見出し得ず、また、社歌はその性格から、企業内部でのみ歌い継がれ、外 部にはあまり知られないことなどからである。
 代表的作曲家や作詞家の伝記にはあたったものの、社歌に言及したものはきわめて稀で ある。個別企業の社史にあたれば、なしがしかの事実が判明するかもしれないが、今回の スタディではその作業は行っていない。
 本レポートでは、むしろ、社歌をめぐる社会的な諸環境から、社歌の成立の状況につい て考察を加えた。
 その結果、社歌が一般化したのは、昭和初期。ただし、その淵源は、明治年間に溯る可 能性も否定できないとの結論に至った。なお、今回のスタディのプロセスで確認しえた最 も古い事例としては、大正6年のものがある。
 また、社歌を「経営、従業員の双方から、その企業もしくは事業所の歌として正式に認 知され、主として社内で歌いつがれる歌」とし、炭鉱節やヨイトマケの歌などの労働の歌 や、替え歌などで社員の間で自嘲的に歌われるお座敷ソング、PRソングは除外した。

■2.西洋音楽の定着と寮歌の登場

 社歌の成立に欠かせないものとして、西洋音楽の普及がある。企業と西洋音楽との結び つきは、まず、広告宣伝としてスタートした。
 その初期における最も華々しいケースが、岩谷天狗と村井商会のたばこ合戦だろう。 明治28年、村井商会は『ヒーロー』の新発売キャンペーンとして、音楽隊を京都から東 京に送り込む。かたや岩谷松平は、明治34年、『東雲節』の替え歌で、日本初めてのC Mソングともいうべき『天狗煙草当世流行節』を自ら作詞し、満天下の話題をさらった。  こうした宣伝方法は、当時、楽隊広告と呼ばれ、ライオン歯磨、味の素、森永製菓、福 助足袋なども盛んに行った。
 楽隊広告が受け入れられた背景には、国民が西洋音楽に馴染み始めたことがある。 明治14年小学唱歌スタート。明治22年には、日清談判が破裂し、以後軍歌がさまざま に作られる。その頂点ともいうべき『軍艦マーチ』は明治30年に誕生し、明治33年に は、『鉄道唱歌』や『花』。そして『美しき天然』がジンタの響きとともに登場するに及 び、西洋音楽は完全に日本人の中に定着を見た。
 その証拠ともいえるのが、この明治33年から旧制高校の寮歌が作られはじめたことで あろう。その先陣を切った一高は、まず『春爛漫』を、翌34年には『嗚呼玉杯に花うけ て』を送り出している。
 このことは、小学唱歌による音楽教育が、開始後20年を経て、効果をあげはじめたこ と。西洋音楽が一部専門家の独占から離れ、青年層が音楽の素養を身につけはじめたこと を示している。社歌の成立にかかせない、国民の音楽的素養は、明治30年前後には充分 成熟していたと考えられる。従って、この時期に社歌の第1号が誕生していても不思議は ない。

■3.企業の連帯感と社歌

 社歌が一般化するためには、西洋音楽の定着の他に、いくつかの要件の整備を待つ必要 がある。ここではソフトとハードの2つの点に注目したい。
 ソフト面は、『生活共同体としての企業』の成立である。
 同じ釜の飯を食う連帯感が寮歌を生み出した。肩を組みアインツバイドライと叫ぶ仲間 意識の昂揚が寮歌を支えている。そうした連帯感が企業に風土として形成されたとき、企 業は社歌を持つ土壌となりうる。そして、一般的傾向としては、企業が連帯感の紐帯の役 割を果たすには、近代的企業の成立をまたなければならないだろう。
 明治から大正にかけて、一部の例外を除き、経営者と一般社員は別の階級に属し、こう した連帯感は醸成に至っていない。従って、歌われる歌は、社歌ではなくして、大正11 年の『聞け万国の労働者』に代表される労働歌であり、『籠の鳥』だった。
 やがて、関東大震災の槌音の中に、東京は目覚ましい膨張を遂げ、その中から新しい階 層としての会社員が現れ、近代的企業としての諸条件が整備される。そして、この会社員 こそ社歌の担い手たるにふさわしい階層だったのではないだろうか。

■4.ハードの発達と歌謡曲ブーム

 大正12年に東海汽船が作った『波浮の港』は、昭和3年日本ビクターの邦盤第1号と して大ヒットする。一方日本コロムビアは『モンパリ』でブームを作る。このヒットを支 えたのは、なによりもまずレコードの発達である。大正3年『カチューシャの唄』が当時 としては記録的な枚数を売り上げたとしても、輸入盤としての限界を持っていた。しかし 、昭和に入り、レコードの国産化が始まるとともに、歌謡曲は一斉に花開いた。
 これを全国規模のブームに仕上げたのが、大正14年に放送を開始したラジオである。
 一方、明治33年、日本楽器の山葉寅楠が作った国産ピアノも、漸く一般に普及しはじ め、昭和3年には首相官邸にも納められる。
 レコード、ラジオ、ピアノの普及は、日本の音楽状況を一変させる力を発揮した。それ 以前の伴奏はといえば、ジンタの楽団であり、演歌のバイオリンであり、お座敷の三味線 と手拍子である。社歌にはもうひとつなじまない。これらハードの発達が、音楽をより大 衆の身近なものとしたのである。
 また、この時期は、たまたま前項で述べた、会社員階級の勃興と軌を一にしていた。『 青い背広で心も軽』い会社員が『恋の丸ビル』のあの娘とシネマを見てから『小田急で逃 げ』てしまう時代が始まったのである。

■5.校歌、ご当地ソング

 ここで、社歌と近い関係にある、校歌、地域の歌の状況を見ておこう。
 小中学校の校歌は、旧制高校の寮歌の影響を受け、明治30年代から作られはじめてい る。大正年間には、高校野球の前身である全国中学校優勝野球大会の開催により、校歌や 応援歌の制定が盛んになった。
 地域に目を転じると、大正10年東京市歌が公募され、画期的な企画として大きな話題 になった。当時の市長は満鉄総裁から転じた後藤新平である。これが、自治体の歌の始め とされている。
 また、震災以後『新民謡ブーム』がおこり、昭和2年に白秋が静岡電鉄の依頼で作った 『ちゃっきり節』をはじめ、数々の土地の歌がつくられた。前述の『波浮の港』もそうだ ったように、この新民謡の背後に企業が存在していたケースは少なくない。
 企業が社歌を持って不思議でない状況が、大震災を境に生まれはじめていたのである。  状況証拠のみによる私見の範囲を出ないが、このように見てくると、震災後の会社員階 級の成立と、レコード、ラジオ、ピアノの普及で、昭和とともに始まった歌謡曲ブームが 社歌の成立のために不可欠の要件だったのではないだろうか。

■6.社歌の巨人『耕筰』

 このような状況を受け、昭和に入って、文献上でも社歌の存在が確認できるようになる 。特に、昭和10年代には、士気昂揚のための軍歌がつくられ始め、これと歩調を合わせ るかのように、軍需産業がつぎつぎと社歌をつくりはじめていった。これを、第一次社歌 ブームとすることができるだろう。
 そして戦後、新日本の建設の途上で、20年代後半から30年代にかけて、第2次のブ ームがくる。衣食足った時、人はまた社歌に目を向け始めたのである。
 そして今日、多くの企業で社歌が作られ、マスコミでも新しい現象としてとりあげられ ているが、これは、CIの中での意識の変革手段としての社歌の見直しである。この最初 の例は、昭和60年の民営化の際のNTTの社歌であるとされている。
 昭和初期から現在にいたるまでの社歌の巨人としては、まず、山田耕筰に指を屈さねば ならないだろう。山田は判明している限りで85曲の社歌を作曲している。コンビを組ん だ作詞家は、白秋、露風、雨情、八十、ハチロー、洸など多数に及ぶ。
 残念なことに、制作年が特定できないものが多いが、制作年が判明しているものとして、 次のようなものがある。

 この他にも、作曲者は不明であるが、昭和9年には、美津濃が佐々木信綱の作詞で社歌 を制定している。また、つちや足袋(現月星ゴム)もこの当時、社歌を制作している。
 耕筰以外に、中山晋平、本居長世、弘田竜太郎、堀内敬三など、社歌を作ったと思われ る作曲家は多い。しかし、彼らの年譜から社歌作曲の痕跡を見出すことはできなかった。

■7.満鉄の社歌

 本格的な社歌ブームの登場は昭和まで待つとしても、それ以前に社歌がなかったわけで はない。震災前にも、同じ釜の飯を食う連帯感に溢れ、高価な楽器を持って不思議でない 企業があった。その代表が『満鉄』である。満鉄は国策会社として、多くの学卒のホワイ トカラーを擁していたこと、そのほとんどが、共通の使命感を持ち、しかも、外地での勤 務であったこと、多大の特権を有し、福利厚生も充実していたことなどから、早くから社 歌成立の要件を充たした企業だった。
 明治39年に設立された満鉄は創立後10年を経た大正6年1月、社内外を対象に社歌 を募集している。これが、今回のスタディで文献的に確認できた最も古い事例である。
 前述の如く、後藤新平が東京市歌を募集したことを考えると、それより早く満鉄で社歌 募集がなされていたことは興味深い。
 この時、186編の応募の中から、奉天小学校教員の作品を1等とした。ただし、社歌 としての正式な採用は見送られた。
 今日まで満鉄の社歌として伝わっているのは大正14年に再び公募を行い制定されたも のである。
 大正14年6月、満鉄社員会の前身である『満鉄読書会』の提案により、同年9月〆切 りで歌詞の懸賞募集を行った。雄渾にして気品あり、且つ、満鉄の使命を歌いこむべしと いうのがガイドラインである。
 当選者は上海同文書院に在学中の満鉄給費生、山口慎一氏。
翌15年に曲を募集し、こちらは呉の海軍軍楽隊に所属する島本定吉氏の作品が当選した。
 このようにして選定された『社歌』は、なぜか『満鉄の歌』に改変されていた。当時の 社長安広伴一郎氏が反対したと伝えられている。
 その後、昭和11年、満鉄社員会は会社に対し『社歌』としての正式採用を請願し、同 年8月26日、正式に社歌として制定された。なんと、最初の募集から制定まで20年近い歳月を要したことになる。
 満鉄の歌は直立不動の歌手、東海林太郎の歌ったものを聴いた事がある。親子2代の満鉄マンであり、 最後は図書館長まで勤めた東海林太郎は、大正12年に満鉄に入社しており、この歌を歌うにもっともふさわしい歌手といえるだろう。
 参考までに、1番のみ歌詞を掲げておく。

    東より 光は来る 光を載せて
    東亜の土に 使ひす我等 我等が使命
    見よ 北斗の星の著きが如く 輝くを
      曠野 曠野 萬里續ける 曠野に

今回のスタディでは、社歌の発生を昭和初期と結論づけた。しかし、満鉄の社歌制定の経 緯は、これよりも早く、明治年間の社歌の可能性を示唆しているのかもしれない。


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