2009年
1月

31日:あけましておめでとうございます.年末年始は3日休みをとって,実家周りをした.今年は自分の祖父母の最後の法事をするとかで,いままでこのような会に多忙を理由に参加してこなかったが,今回は必ず出よと言う命令が出された.親戚のおじさんも高齢になり,いつどうなるかもわからないような年代になってきたので,今回は命令に素直に従おうと思う.そのため近くまた実家に帰らなければいけない.思えば自分の義理の祖母が死んでも葬式にも出席しておらず,仕事があるとはいえ,ここまでこの仕事にdedicateする必要もない.ただし休むと自分も困るのである.休んでも自分の仕事を他の人がしてくれるわけではないので,休む前,休んだ後に膨大な仕事をしなければならない.自分の祖父は私が中学生の時に死んだのであるが,生涯自分のポリシーを貫いて人生を完結したその姿勢に,自分は子供の時からえらく感動していた.今でもその気持ちは変わらず,これまでの自分の人生の転機にも,祖父ならどうしたろうか?,今の生き方を祖父ならどう思うかと無意識に考えてきた.自分の中に祖父の遺伝子が存在することを強く感じる.尊敬するという感覚とは違うが,自分をほめてくれるだろうかといつも思っている.もう一人,祖父のような存在が自分にはいる.数年前に亡くなったが,私を育ててくれた教授である.人格も医学的な業績もすばらしい先生であったが,周りの医局員が神のように崇めていたので,自分はそんな雰囲気にはついて行けず,先生が退官するまでは,あまり親しく話したこともなかった.先生が亡くなった後,大学退官時の最終講義のDVDを見た.社会的な弱者への援助,地域医療の貢献,心身医学,内視鏡学の発展.内視鏡関係は教室から多数の権威が育って,日本のトップとして活躍している.また心身医学の分野でも同様.講義の中で,心身医学と消化器学の関連で先生が最後の講義で話された疾患は,胃潰瘍とIBSだった.これらの疾患の研究は先生にとって,ライフワークだったということだろう.そして自分はというと,IBSの研究をしている.その研究で学会からも賞をもらった.その時,知らないうちに先生の遺伝子が,自分に引き継がれているのだと理解できた.今の自分の仕事を見て,先生は何というだろうか?祖父と同じように自分を見てくれているだろうか?そんなことを時折思い浮かべている.自分自身に恥ずかしくないように生きる.そして恩師,祖父にも恥ずかしくないように生きる.これからも自分の行動は変わらないと思う.
疲労が蓄積している.どうしても疲労がたまったときには,1日睡眠をとって少し回復しなんとか仕事を続けている状態だ.仕事へのモチベーションも,自分のプライドを守るためだけになっている.
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最近撮影した写真を載せておく.6枚モザイク,80分露出の大作である.

2月
28日:道から派遣されている内科医も今年の11月で中止になる.そうなれば,どういうことになるか町はわかっているのだろうか?全く危機感のかけらも感じられない.3年前,内科医2人になった時点で,救急,病棟の停止だと町に伝えたのだが,結局はこちらが犠牲になりそれまで通りの業務を継続して今日に至っている.無理な業務をこなしていることを町が理解しているという態度は感じられない.親切にこちらが仕事を続けて,問題点が表面化しなければ,甘え続けるだけである.未だに病院の民営化がどうだとか言っているだけで,実質はなんの方針も出せないまま長時間経過している.内科医がいなくなれば,病院は閉めるしかなくなる.救急の停止だけではなく,今入院している患者もどこかへ転院させるしかなくなる.町の指導部がこんな態度であれば,決してまじめに地域医療をやりたいという医師は集まることはない.この町は奇跡的にこれまで医療が一定のレベルで守られてきたので,それが当然だと思っている.一般町民はそう思っても仕方がない.しかし町の指導者も同じレベルのまま.いくらこちらが指摘してもらちがあかない.いつまでもこの状態が続くという考えは甘い.
コンピュータを複数台使っているが,古い機械も常に稼働するようにしている.長年使ってきた機械は,なかなか捨てることができないのだ.また機械を変えて仕事をすると,気持ちもリフレッシュされてよろしい.先日,2年前に買ったthinkpadZ61PのHDDをintel製のSSDに交換した.SSDも最近急速に安くなり,この製品も3万円台で購入することができた.交換してみると,檄速.vistaの起動も感覚的には半分の時間で済むような感じである.この機械もこれからもしばらく使える.こうなると,他の機械もみんなSSDに交換したくなってくる.こんなことを考えていると,物欲がますます出てきて止まらなくなってくる.しかしこんなことを考えて,前段に書いた怒りを抑えて日々仕事をしているというのが本音である.天体写真も同じだ.心の平静を保つための薬である.
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一枚載せておく.冬は空気の透明度が良いので写真の写りも良いが,凍傷を覚悟で撮影に出動しなければいけない.

3月
29日:入院患者は相変わらず100人近くをkeepしている.人口は徐々に減っているのだが,高齢人口の比率が増加しているのと,観光客が相変わらず多いこと,それに近隣の病院の閉鎖などがその原因だろう.道の地域医療関係者は1-2年前に地域医療の患者受療調査と称し,分厚いアンケートを送付してきてそれに回答することを強制してきた.先日町の担当者が道に呼ばれて赴いたところ,当院が隣町の病院と提携して縮小できないのかなどと全く的外れなことを言われたらしい.隣町は看護士,医師が確保できず,かなり前に救急を含めて停止し,診療所化していることは医療の担当者ではなくても知っている.またその町へは峠を越えなければならず,その峠は10月から4月まで通行止めである.こんなバカな道職員が地域医療の担当者なのだ.終わっている.あの分厚いアンケートも,ただこのような努力をしていますという言い訳のためにしているにすぎない.こんな体制で地域医療の崩壊を止められるわけがない.この町の行政トップも同じ.こちらがいくら親切に問題を指摘してあげても危機感がわかない.お互い無責任で無知な者同士が行政を進めているから,問題が改善するわけがない.マスコミの責任もある.本当の問題点を指摘しないで,新聞が売れれば良いという意識から,きちんと取材もしないで,はじめからストーリーができあがって,それに沿ってニュースを構成している.夕張のことをマスコミはどう報道しているか?最近事実を聞いたのだが,あそこには市が経済破綻する前から,市立病院の他に開業医(診療所)が2-3あるのだそうだ.それと病床を持っている市立病院により連携がとられて,市内でそれなりの医療が完結していたのである.ところがマスコミが良く報道しているように,ある医師が突然現れ,なぜか市立病院は診療所化されてしまった.第三者が医療ニーズと経済的な面から市立病院の今後について,内科と整形外科などの診療科に絞って,一般病床をもつスリム化した病院として存続すべきと結論づけたのにもかかわらずである.これではもともとあった診療所と全く同じ機能しか果たせず,意味が乏しいのは明らかである.脳卒中で倒れて,市外の病院に運ばれる.急性期がすぎて寝たきりになっても,地域に受け入れる病院がなければ,患者の家族を含めて市を離れるしかなくなる.そうすればますます人口は減っていき,悪循環となる.解りきった話である.しかしマスコミはただの一度でも夕張にもともと数件の診療所が存在することを報道していたか?全くしていない.その医師が運営する診療所が,あたかも市内唯一の医療機関だというような内容の報道ばかりである.これが日本の政治,マスコミの典型だと思った.真の行政マン,ジャーナリスト,地域医療を志すプロフェッショナルな医師はいないものか.自分は地域医療に従事する医師は,まず第一にこの医療施設で,何を優先するかを考え,自分の専門性を犠牲にしてまず優先事項を追求する姿勢が最も大事であると考える.我々の病院は,それは救命救急,幅広い疾患を拾い上げて,適切な医療機関に転送すること,また急性期を過ぎた寝たきりの患者の管理-福祉への橋渡し,慢性疾患の日常管理である.自分の専門である消化器疾患の治療は無理にここでする必要はない.自分の専門とする診療スタイルを,地域に押しつけてはいけない(夕張の医師が必ずしもそうなのかどうかはわからない.個人で経営するのはまず第一に経済的な面が優先される.裏を返せば,真のへき地の医療ニーズに応えるためには,個人で運営するのは困難であるということである).自分の我を殺してどこまで自分の指命を自覚して仕事をするのかで,プロフェッショナルかどうかが決まる.この町も今年の11月いっぱいで医師の派遣が打ち切られるので,12月からは少なくとも内科はほとんどの機能を停止する.明確な事実があるのに,どうしてこの町の行政は危機感がわかないのだろうか?
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最後に一枚載せておく.接近したルーリン彗星である.

4月
29日:4月上旬は内科学会の発表のため東京出張.その後も毎日休む暇もほとんどなく,仕事をこなしている.疲労がこれまでになくたまり,長期間ウイルス感染症が直らずに,微熱,消化器症状,口内炎,頸部リンパ節腫脹が続いている.これは慢性疲労症候群の症状そのものであることに気がつく.日々怒りが収まらない.だれにぶつけていいかわからない怒り.なぜ自分が身を犠牲にして困難な状況で仕事を続けなければいけないのか.いまここで仕事を続けているのは,困難な状況からしっぽを巻いて逃げ出すことを自分のプライドが許さないから.この町に貢献するという高尚な精神など,遠い昔になくなっている.自分のプライドのために仕事を続けているだけだ.4月に入って,このまま今の状態が続けば,体をこわすだろうなと自覚するようになっている.外来で60-70人診た後,午後同じ数の入院患者を診る.一人でこれを毎日こなすのである.地獄と言っても良い.こんな状況なので,いつ自分が辞職しようとも,だれに文句を言われる筋合いはないと自信をもって言うことができる.ましてや町の上層部のこれまでの態度を見ても,こちらが辞めることに心苦しいところはどこにもない.逆に言えば,このような町の態度に助けられている.いつでも自分の都合で町に気兼ねなく辞めることができるからだ.そういう考えでないと,いつまで続くかわからないこの状況で,仕事をぎりぎりまで続けることは不可能である.限界に達するまで,自分が納得するまで仕事を続けると割り切っているからこそ,今日もこの病院にいられるのだと思う.自分がいつまでここにいるかに関わらず,12月からは今のままでは内科は閉鎖するしかなくなる.町民と話していてもこの町の医療危機についてわかっている人は誰もいない.職員ですら何とかなるだろう,あるいは,町のえらい人が何とかするのだろうと思っているに違いない.しかしこの町の行政の認識の甘さは今に始まったことではなく,危機管理が全くできないことは,医療の問題だけでなく,最近明らかになったことだが,ゴミ処理場が昨年度でいっぱいになることがわかっていながら,行政側の対応のまずさから地域住民の反発をかって新しい処理場建設が中止となり,なんと今年は他の自治体へゴミを運搬して処理してもらうという失態を見ても明らかだ.なぜ自分の首が絞められることがわかった段階ですぐに行動せず,首が絞まって苦しくなってからあたふたするのだろう?やっぱり自分はこの手のたぐいの人種とはわかり合えることはないし,つきあえない.
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一枚載せておく.春の定番M81,M82である.

5月
29日:5月に入っても,体調に回復傾向が見られない.11月いっぱいで内科医が欠員となることに対して,どのような危機管理をするつもりであるのか,1月前に町に質問状を出した.これまでのところ案の定なんのレスポンスもない.やはり,理解できない人種と言うことだろう.人ごとじゃないのだけれど.もう半年しかない.この段階で医師採用の見込みがなければ,内科は閉鎖を前提に準備を始めなければならないのである.外来患者の紹介,入院患者の受け入れ先の手配など,半年ではすでに遅いと思う.しかしこんな大量の患者をどこの医療施設が受け入れてくれるのだろうか?おそらくろとうに迷う人たちがたくさん出ると思われる.そして医療を受けられずに死亡する人も多数出るだろう.しかし医師が確保できない(確保する気がないのかもしれない)のなら,それはこちらとしてはどうしようもない.あとは町がどうするのかである.何もしないのかもしれない.少なくともこれまではそんな姿勢だ.だいたい,病院の民営化を打ち上げておきながら,2年以上検討さえも満足にしていない,方針が全くどうなるか解らない病院に,医師が就職するわけがない.こちらはこれまでやることはやってきた.あとはどうするのか,どうなるのか見守りたい.自分としては,ここを閉鎖するのが自分の最後の仕事になるような気がする.閉鎖を前提に仕事を続けていくほかない.
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一枚載せておく.M13である.

6月
3日:町に対して送った質問状に対して,responseが全くなかったので(responseがないという事実だけで論外),業務にも支障を来すようになったので,しつこく回答するように要求した.というのは,周辺の病院から,脳卒中などで長期寝たきり状態の患者の受け入れを要請されるので,12月以降のこの病院をどうするかという方針が決定しないと,その要請に返事をすることができないからである.閉鎖を前提とするなら,長期入院患者は受け入れできない.そしてついに,本日回答が寄せられた.結局当たり前の話なのであるが,常勤医1人となる12月以降は,救急を含めて大幅な内科業務削減,そして3月まで同様な状態であれば,内科診療の完全閉鎖を決断しなければならないというもの.しかし町が自分の口から,このような方針を示したことが重要である.これで,我々はその方針に従い,内科診療規模縮小,閉鎖に向けて淡々と仕事を進めていくだけである.そして本当にそうなったとき,だれがどのような責任をとることになるのか,その根拠としてこの回答は重要である.これまで町は,医師確保をほとんどしてきていない.こちらにその姿勢を見せることさえなかった.責任を明らかにして反省し,もし将来本当に病院が必要なら,そこからまた始めればよい.反省がないから,改善がなく進歩もない.明日からこの町の方針を患者に知らせながら,今後の受け入れ先を探すことになる.外来患者はいったいどのくらいいるかも解らない.この仕事も非常に困難なことである.
17日:病院の問題について,院内会議を開き,また職員にも町長からの自分に対する回答を回覧した.さすがに,自分たちの職場の存続が危機だと言うことが理解できたようで,職員にも不安が広がっている.思えばこのような危機感をこれまで自分1人で自覚し,なんとかこれを避けなければいけないと,行政を怒らせたり,作戦を立てて危機感を持たせるようにいろいろ手を尽くしてきた.しかしそれには全く反応がなく,ついにこの時を迎えている.町民に現状をまず伝えて,今後の医療をどうするかを問いたい.院内会議は全会一致でこのことについて同意が得られ,議会の承認を待たずに新聞チラシを入れて,広く町民に知らせることとした.直ちにこのことを町民に知らせるのは,町長が今後の方針を出した以上当たり前のことであるが,議員の中には議会に何の報告もなく町民に知らせることについて,難色を示した者もいたらしい.しかし,このことを議員は知っていたはずだし,それに対して町の不作為についても追求する機会がこれまで何度もあったはずだ.また知らないというのなら,それは怠慢だと思う.責任は重い.またこのことついては,すでに議会で話し合うという余地がない.医師がいないという物理的な単純な問題なのである.議論したところで,魔法で医師が確保できるものではない.さらに思うことは,いったい自分がいつまでここにいると思っているのだろうかと言うことだ.数年,ここまでバカにされてきた人間が,1人になってもここに勤務すると考えているのだろうか?来年3月まで,今の状態が続けば,診療所化や内科診療の閉鎖を決断しなければいけないと町長が言っているので,閉鎖になればもちろんここにはいないし,診療所になっても絶対にここにはいない.それはここに宣言する.診療所では自分の思う医療ができないし,ここの受け持つべき医療も不可能であり,自分が働くべき場ではないからだ.町長に質問した内容は,医師が確保できないと,救急の閉鎖やベッドの閉鎖など,内科診療を縮小しなければならないが,そのときに町がどのような危機管理策を考えているかを示しなさいというものであった.しかし,回答の内容はもう一度繰り返すが,"来年3月まで,今の状態が続けば,診療所化や内科診療の閉鎖を決断しなければいけない"というもの.回答には実は全くなっていない.危機管理とは,診られなくなる入院患者をどこに転院させるか,外来患者はどの病院に受け入れてもらえるのか,また網走の病院に受けてもらえるのなら,網走までの通院交通機関をどうするか,町として患者バスを走らせるのかなどと言うことが危機管理である.結局ここにいる限り,極めて厳しい診療とともに,行政が怠慢でやらない仕事まで自分がしなければならなくなるのである.ここ数年は,このくだらない仕事に費やす時間,労力が莫大であった.さらにacademicな仕事.論文を書いたり,学会発表をしたり.1人でできる仕事の範疇を明らかに超えていたのである.academicな仕事は職員の士気を高めるとともに,若い医師達への自分からのメッセージであった.田舎で地域医療に貢献しながら,世界に研究結果を発表すること.医学者,科学者としても生きること.実際良くやってきたと思う.この町からは評価されないが,振り返ると実にこの環境でがんばったと思う.今回の新聞チラシは,自分からの町民に対する最後の親切だ.これを見て,危機感を持った町民から,このままではいけないという思いがあがって,町を動かせば病院は再生できるかもしれない.逆に,町民からなんのresponseもなければ,それまでである.町長が言ったように,来年3月で内科診療はおそらく終わることになる.自分は今後を冷静に見守りたい.

7月
3日:先日正式に辞表を提出した.辞表は初めて書いたが,その様式には辞職願いとあった.願いではないので,願いのところを線で消して,届けに訂正.さらに一身上の都合にてというところも線で消して,度重なる行政の怠慢にあきれてと書き加えた.日にちは来年の3月31日と一応した.しかし,その前にこちらが怒りをこらえきれずに,瞬間的にやめることもあるかもしれない.この時期に辞表を提出すると言うことは,なるべく早く今後の体制を考えてもらって,町民に迷惑をかけないと言うことと,行政が本当に真剣に医師の確保をするよう,もう甘えを許すわけには行かないからである.これまでも口頭で何度も辞職を伝えてきたが,町の方は本気に取りあってくれなかった.それが甘えを生んでいる.いくら脅しても真剣にならない.危機感が生まれない.次にどこで働くかは全くの白紙.そのため自分にとってもこの時期の辞職表明はリスクがあって何のメリットもない.しかしこれこそが自分の最後の親切であり,メッセージである.私はこの町での暮らしが好きだった.郊外の景色を見ながら,鳥の鳴き声を聞きながら自然の中で走ることが楽しかった.また職場で私を支えてくれたみんなと仕事をするのも楽しかった.そんな状況で,ここを離れると言うことは自分にとってもどれほど大変で悩んだことか.ここ数ヶ月は自分一人で様々なことを考え,ストレスで体調を長期に悪化させながら仕事をしつつこの結論を出した.自分がこのままここにいれば,いつまでも理不尽に自分に頼り切る行政の態度は直らないだろう.それは,ここの地域の不幸につながる.そのためこの時期に辞職を表明したのだ.この件はこれで終わり.どんなことがあっても方針の変更はない.この町が今後のことを自分で考えていって欲しい.今後は遠くからこの町の発展を見守っていきたい.まだここでの仕事は残っているが,この場を借りて,自分をこれまで良く理解してくれ,サポートしてくれた職場の皆さんに心から感謝したい.また,自分の仕事に対して感謝や高い評価をしてくれた町民の皆さんにもお礼を言わせて欲しい.自分のことをそのように思ってくれる人がいたということが,自分の大切な財産であると思っている.そして突然ですが,このHPもこれで終了させていただきます.今まで,おつきあいしてくれた皆さんどうもありがとうございました.



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