MPV 97/9/9


<<< 問題 >>>

21世紀中にコンピュータは将棋名人に勝てるか。囲碁はどうか。(MPV4からの続き)

(だいぶ間が空いてしまったので、答案1も再掲(一部訂正)します)

 

答案1:チェスに比し、将棋・囲碁の方がはるかに手の数(場合の数)が多く、とても計算しきれないからコンピュータは勝てない。

コメント:何かの本でぼくも読みましたが、全ての手を読み切るためには宇宙中をコンピュータの素子にしても何百万年もかかるとか。

疑問1-1:技術進歩をどう見るのか。計算機の大きさ当たりの計算速度が1年で2倍伸び続ければ100年で約30桁速くなる。これならパソコンでも読み切れる?

現在の技術では素子が熱を持つ問題をクリアできず、小さくする限界があるが、この問題もぼちぼちブレークスルーするらしい。

疑問1-2:(この方が本質的)人間の名人は全ての手を読み切っているわけではない。現局面からの将来図がパッと何百も浮かび、その大部分は深く読むこともなく瞬時に切り捨てる、形が悪いとかで。そして残りについてもっと奥まで読んだり、評価したりする。コンピュータが同じやり方をしたらどうなるのか。

Deep Blueも全部読んでるわけではない。

反論to1-2:Deep Blueは、カスパロフのこれまでの対局を徹底的に分析し、対カスパロフ用に局面を限定することにより、極力読み切りに近づけようとしたのではないか。コンピュータにできる必勝戦略は結局読み切りしかないのではないか。

 

答案2:コンピュータのやっていることは相変わらず単純なことだけであり、人間にとっては当たり前のことが全くできない。まして、天才中の天才であり常人の理解を遥かに越えている名人と同じような思考は、到底できるようにならないから勝てない。

コメント:例えば、自動車の塗装ロボットは、熟練職人が実際に塗装した際の腕・手・指の動きから採ったデータでコントロールされているだけであり、新しい車を与えられるときれいには塗れないのだそうです。

 

答案3:人工知能研究が急速に進んでおり、人間が行なえる程度のことなら将来機械にできないと言う根拠はない。将棋はルール、指し手の表現、勝敗の判断等に曖昧さがなく、当事者は2人のみ、必ず有限回の指し手で勝ち負け(引き分け含め)が決定するゲームであり、人間の知的活動の中では人工知能になじみやすい類である。今後100年の人工知能の発達を想像すれば、コンピュータが人間に勝つのは容易と言える。

コメント1:恋愛をゲームになぞらえることもありますが、これに比べれば将棋は極めて単純なゲームでしょう。恋愛では、例えば、いつどんな手が指されたのか指した本人にすらよく分からないことがままあるわけです。

(恋愛するコンピュータは原理的に可能か、というのも面白い問題ですね。)

コメント2:例えば、Marvin Minskyの『心の社会』は、人間の心(脳)の働きを基本的な所から組み立て、説明しようとする徹底した試みです。本人が「エッセイ」と言っているようにまだ仮説段階ですが、コンピュータで再現可能なものとして構想されています。

コメント3:人工知能研究がいくら進んでも、コンピュータの能力が伴わなければ理論を現実化できないという反論はあり得ます。この点についても、チップの小型化、発生熱の処理技術の進歩、さらにはバイオチップの開発等により、制約は順次乗り越えられるでしょう。(cf.疑問1-1)

疑問3-1:囲碁は将棋と同列に論じられないのではないか。例えば終局は当事者相互の了解で決めているのであり、将棋の「詰み」のような客観的基準は実はない。仮に、打つところがなくなるまでということにしても、その基準が難しい。大石を殺してもそこにまた打てるし、その応接次第では囲んでいた側が取られるから、初心者の場合いつまでも終わらないこともある。(アマ有段者でコンピュータにも強いK氏の話。なお、答案3は将棋のみについてとした。)

 

答案4:将棋や囲碁の複雑さというのがどの程度なのか、実は分からない。名人に新しい手がひらめく過程が、超一流の数学者が新しい理論を生み出す過程と同程度に複雑ではないとは、誰も言い切れない。どちらも少数のルール(公理)から展開され蓄積された膨大な定跡・定石(定理・理論)を踏まえつつ、全く新しいものを創造する。どちらも、なぜひらめいたのか本人にも分からない部分がある。コンピュータが4色問題を自分で証明できる時には、名人にも勝つだろう。それが100年以内なのか以後なのか、何とも言えない。

コメント1:将棋や囲碁の名人と超一流の数学者・科学者は、どちらも美的直感とでもいうべきものを重視しているようです。例えば羽生前将棋名人は「全部うまくいっているときには、全部の駒がきれいに働くわけですから、それはほんとににっこり笑ってくれるような感じです」と言っています(後述の本)。また、数学者の岡潔はフランス留学から帰ってきてから1年間、蕉門俳諧の研究に没頭したそうです。(その後重要な論文を連発)

 

<<< 本 >>>

(1) 森毅『エエカゲンが面白い』(筑摩書房,1991.10.24,ISBN4-480-02568-5)

MPV4で、神戸の事件に対する雑感としていい加減がいいということを書いた頃、森毅氏のコメントを読んだことがあります(日経?文春?)。事件をきっかけに教育がどうあるべきなんて議論をやることに対しかなりシニカルだったように思います。

その時は知らなかったのですが、森氏は、なんと上のような本を出しているのですね。(初めは1960年代に出て、91年に文庫版になった際にこのタイトルになったようですが)

この本に出てくるエエカゲンさは、筋金入りといいましょうか、大変なものです。

例えば、森氏が大学3年のとき教授に成績を聞きにいったら、答案が見つからなかった教授は「エ、どうでしたか、できましたか、ア、そうですか、そんなら、マア、その、80点にしましょう」と言ったとか。

森氏自身も、「気に入ったのは82、どうでもよいのは81、気に入らんのは80にする、これでも三段階絶対評価!」なんて威張ってる。

教育、評価について、目の醒めるような指摘、意見が到る所に出てきます。

一例。「最近の文部省の教育政策で、「教材の精選」などといった<俗>の原理と、「ゆとり」といった<遊>の原理とが、相補うかの恰好でおさまっているのは奇妙な風景である。「精選」されて生み出された「ゆとり」なんてものは、管理されたレジャーみたいなもので、<遊>の反対物に転化するにきまっている。」(学問のなかの遊び、1979)

もう一例。「自分のまわりにいる、自分と同程度か、ときには自分以上にわかっていない人間から、<教わる>ことが大事なのだ。自分以上にわかっていない友人は、おそらくはトンチンカンな、ときにエエカゲンなことを言うだろう。エエカゲンなものから<教わる>のが、学習というものだ。」(大学サボリ道入門、1979)

 

(2) 羽生善次、吉増剛造『盤上の海、詩の宇宙』(河出書房新社,1997.8.20,ISBN4-309-26319-4)

元将棋7冠王と詩人の2回の対談。この組み合わせを思いついたのは翻訳家の柳瀬尚紀氏(例のジョイス「フィネガンズ・ウェイク」訳の)。写真は荒木経維(!)。

一見奇妙な組み合わせが、実は絶妙。吉増氏は将棋はそんなに知らないようなのですが、羽生氏の言葉のちょっとしたところに天才の頭脳の働きを垣間見る糸口を見いだし、それに自分の言葉を絡ませていって、さらに引き出してくる。言葉に対する感受性、展開の幅がやはり尋常ではありません。

また、吉増氏の方もこのやりとりをしながら相当刺激されたようで、自分の詩作について普通は語りそうもないことを色々語っています。

引用。「羽生:最初はその待つ時間に入る前に、いわゆる苛立ちみたいなものをなくすための時間があります。それからいわゆる空白の時間がきます。つまり真っ白な気持ちで考えて、そこに浮かんでくるものを待つというのではないんですけど、空白の部分と、あとなにか湧き上がってくるものを、自分の無意識の中からなにか出てこないかということを待っているというような時間がきます......。」

もう一つ。「羽生:盤の前に座って考え始めると、なんというんですかね、盤に向かって潜っていくというか、のめり込んで考えていくというか、ほんとうになにか海の中に潜っていくというような感じになります。」

 

<<< art >>>

「日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!」/水戸芸術館 (1997.8.30)

つまらなかった。こういうのが面白かった時代が理解できなくなっている。

タイムトンネルというコーナーでは33人のインタビューを4、5台のビデオで流している。最近この手のが結構あるが、極端な例。どう考えても普通の観客はごく一部しか見られない。どういうつもりなのだろう。

 

<<< music >>>

"Ocean Blue Jazz Festival in Hitachinaka"/国営ひたち海浜公園 (1997.8.29,30)

初日のおしまいの方と、2日目の夜の部を聞いた。

初日は市民のためということで1,000円。ただし有名プロは最後の大西順子のみで、他はアマとあまり知られていないプロ。ぼくが聞いたのは大西Gとその前ちょっと。

2日目は、ブルース、メインストリーム、ヴォーカルの3セッションで6,800円。これは高すぎ。

会場について。斑尾、山中湖(Mt. Fuji Jazz Festival。今回のOcean Blueの前身だそう)を知っているぼくとしては、ちょっと気分がでない。Jazz Fes.の空間は開放性が重要だと思う。そもそも海が見えないOcean Blueなんていけません。

演奏について。大西順子は以前コンサートで聞いた結果あまり期待してなかったが、なかなかだった。特に、最初の曲がグループ全体としてミンガス的サウンドを作っており、大西順子ジャズワークショップの名は意味があったのだと思った(この部分、ジャズ好きの方しか分からないと思います。ごめんなさい。)。でも、優等生。

2日目の2番目はテレンス・ブランチャード他でTribute to Miles Davis。My Funny Valentineが来たときには身構えたが、あの耳慣れた、凛とした音とはだいぶ違った。別にそっくりでなくていいが、張り合えるレベルでないと。

3番目、今回お目当てのDianne Reeves。かつてMt.Fujiでの日本デビューを聞き、びっくりした歌手。今回もよかった。ただ、もはやジャズというよりWorld Musicと呼ぶべき音楽になっていた。Festivalにはこういうのがいいのかも知れない。

もう、ジャズの時代は終わったのかなあ、などと思いつつ、ビールを随分飲んだ一夜でした。(30年前に終わっていたのか、と今書きながら思ってます。)

 

<<< 時事雑感 >>>

北野武"HANA-BI"にベネチア映画祭金獅子賞

北野氏の映画は何も見ていないのだが、だいぶ前「週刊文春」(?)の連載で彼が映画について書いたのを読んだことがある。

「演技なんてのは大したことないんで、犬の映像だってうまく編集して音楽をつければ、見る人は泣くんだっての」といった内容のことだった。

極端だとは思いつつも、妙に納得して読んだ。スクラップしたわけでもないのに、思い出した。

役者として出た後だったのか、監督したあとだったのかは思い出せないのが残念(というより致命的?)

 

(関係ないのですが、今回のベネチア・ビエンナーレ(美術の方)の日本館、コミッショナーは南條史生氏、アーチストは内藤礼氏(一人。女性)なのですね。南條さんには何度もお会いしており、内藤さんにも一度お目にかかっているので、感慨大です。

若干関連で、私が前に担当した仕事のホームページご覧下さい。

http://www.pref.ibaraki.jp/prog/arcus/ )

 


< 発行人ノート >

・near-weeklyの筈が(と前回も書きました)、ついにmonthly状態です。こうなると、まあエエカゲンでいいじゃないの、とも言っておれません。せめてbiweekly位にはしたいものです。

・先月また秋田へ行きました(仕事です)。今度は男鹿半島泊。入道崎、おすすめです。

・その直後、近所でご不幸。亡くなった方は43歳。昨年の今頃は一緒に飲んでたのに。ショックでした。

・現在の勤務地周辺はPHSが使えないので、携帯に変えました。番号は下記のとおりです。

・久しくhomepageに手を入れていません。今月はやるぞ!(?)


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