MPV 98/2/10
<<< pentagon >>>
前回の正五角形について、なぜ五角形なのか、という問いを頂きました。
(実は、そう来ることを期待してたりして。)
いくつか理由があります。全部、主観的なことです。
・かつて正五角形によって正十二面体ができることを知った時、新鮮な驚きを覚えたこと。
・正多面体を構成できる正多角形(他は正三角形、正方形、正六角形のみ)の中で、五角形だけはなんだか違う雰囲気を持っていること。周辺との折り合いをどうつけたものか少し困っているような、それでいて自分一つでその場を充足しているような感じ、とでも言いましょうか。
※正三角形、正方形、正六角形は、同じ形で平面を敷き詰めることができるが、正五角形ではできない、ということがこの雰囲気と関連があるような気もします。
※読者のNさんは、「五角形は、中心から外に向かって、隙のない、安定した万能感のある形態」、「粋でイナセな感じ」とのメールを下さいました。
・自然界にも、人工物にも、適度に例があること。正三角形、正方形、正六角形はあり過ぎ。気をつけないと見つからないが、でもいろんなところに結構ある、というのは見つける楽しみが大きい。
・象徴的意味を持たされている例がありそうな予感がしたこと。従って、形の意味を探ることが楽しめそうと思ったこと。
以上を、一応の答ということにします。
<<< TV >>>
NHK特集「(タイトル失念)」1998.1.18
ルワンダの1994年の虐殺について、「フツ族とツチ族の民族間の対立」ですませず、その背後にあるものを探ろうとした番組。
実は虐殺を煽動するラジオ番組があり、しかもこの煽動は相当計画的になされたらしい、というのが最大のポイント。
海外事情音痴の私のようなものが、番組によってこのことを知り得たことは評価する。また、フツ族とツチ族は実は相当混血が進んでおり、両系統が混在して村落共同体を作っているということも、初めて知った事実。
しかし、不満も残った。
このような煽動で、13万人以上の者が殺人者となり80万人以上を殺すに至るということ、そう簡単に飲み込める事実ではない。
例えば教育とか、法律や宗教(村の教会に多くの人が集まっている映像も出てきた)についての意識、さらには死生観のようなところまで踏み込まないと、本当は何も分かったことにならないのではないか。言わば民俗学的調査・分析も必要なのではないだろうか。
18歳の時に姉の子を殺し、3年後に刑期を終えて家に帰ってきた男とその家族を、番組は追う。
殺したくはなかったが、殺さなければ自分が殺されたという状況は、一応理解できる。
しかし、男がかつての殺人の現場に立った時の、あまりに淡々とした姿や、殺した子の祖母と握手(空々しいものではあったが)できるということなど、ぼくの理解を越えている。(これはもしかすると死生観が違うのではないか、との印象を持ったのはこの時。)
テレビのドキュメンタリーでは、特定の人物を追うのが常套手段になっている。(動物ものでも然り。)
これは、対象と暫くつきあえば、その行動・しぐさについての非言語的理解が成立し視聴者は分かった気になれる、と制作者が期待するからなのだろう。同じ人間(動物)としての間主観性があると。
が、少なくともこの番組について言えば、手法の限界を感ぜざるを得なかった。
<<< music >>>
芸術劇場「ピアソラのすべて」(1997.12.7,NHK教育TV) (*1)
(以下は、録画テープをご提供下さった、HさんとOさんへのメールとほぼ同じものを、ご了解を得て掲載するものです。)
昨晩、ピアソラのテープ見&聴きました。
初めの、ピアソラ後のバンドネオン第一人者(*2)、素晴らしかった。後で日本の若造(*3)を見て、楽々と弾くことのすごさを再度認識。
ギターデュオ(*4)もよかった。美しい音でした。
日本の彼氏には30年後に期待。挑戦する姿勢は評価しますが、ピアソラ演奏には余裕が必要です。バンドネオンの伸ばしたり縮めたりをよく練習してほしい。
ヨー・ヨー・マ、ぼくは大好きなのです。もっと聴かせて欲しかった。マネージメントが強いのかなあ。
白眉はクレーメル。以前Hさんにお聞かせしたCDに比べ、非常に音楽が自然になってるなと思いました。クレーメルならではの音が、ピアソラの曲にここまで合うとは驚きです。
ヨー・ヨー・マやクレーメルのような現代の巨匠が、ほんとにピアソラにはまっちゃっているのを見るのは、実に楽しいものでした。ぼくも皆さんと同じ頃はまっちゃったんです、と、誇らしくもありました、おかしいんだけど。
で、ピアソラ。
率直に言って、体力の衰えが明らかに出ていましたね。バンドネオンはかなり体力がいるのかもしれません。
でも、かつての偉大な演奏を偲ぶことはできました。
そして、演奏後のあの優しい顔!厳しさと優しさが、あのような形で共存する人だからこそ、これらの曲は生まれたのだなあと思いました。
それにしても、ミルバおばさんの迫力に気圧されたまま、これで番組が終わってしまうのではちょっと寂しいなあと思っていたら、NHKも考えましたね。
最後の1980年西ドイツでのアディオス・ノニーノ、じんと来ました。
ピアソラを語る様々の言葉が、改めて納得される演奏、姿でした。情熱、自由、闘い、愛。ぼくは、さらに品格という言葉を加えたい。
大衆芸能と芸術を分けるものは、品格であると言ってもいいと思っています。
この曲を聴き、ぼくは満ちたりた気持ちで眠ることができました。
※注
1. この番組は、多くの演奏家によるピアソラの曲の演奏と、ピアソラ自身の演奏(最後の1曲を除き1988年ミルバとの来日時のもの。この時ピアソラは67歳、4年後に死去)により構成されたもの。計3時間。
2. フアン・ホセ・モサリーニ
3. 小松亮太
4. アサド兄弟
<<< 時事雑感 >>>
(1)中学生によるナイフ刺殺事件に端を発する持ち物検査について
あなたは、持ち物検査を実施しますか、しませんか。現場の中学校長は、この二者択一を避けられない問いとして突きつけられている。
ぼくだったら、検査したくない。検査は、現在の社会を成り立たせている根幹を揺るがすものだと思うから。
社会の存立が危うくならない限り、構成員の自由を認める、これがわれわれの社会の基本原則だろう。ぼくは、この原則を守りたい。
何万分の一かの危険を避けるために、全員の自由を束縛するようなことは、したくない。検査の効果も疑問だ。
が、こう答えるためには、もう一つの問いの答えも用意していなくては校長として無責任なのだろう。
危険の可能性は、少ないとはいえ現にある、それをどうやって回避し教師や生徒の安全を守るのか。
持ち物検査以外に有効な方法があるのか。
この問いに対して、情けないがぼくは自信のある答を用意していない。
ナイフでなくても、コンパスだって彫刻刀だって、あるいは鉛筆だって凶器になりうる。
問題は持つ、持たないでなく、道具を凶器にさせないこと、キレさせないことだ。答を求める方向はこちらにあることだけは分かっている。
だが、どうやって?
ごちゃごちゃ考えていること。
・100%の安全を求めるのは、恐らく「自由」と両立しない。どんな社会でもキレる人間はいる。教育や環境だけでこれをゼロにすることはたぶん不可能。
・教師に悪態をついたり黒板を叩いたりすることと、ナイフで刺すこととの間にある極めて大きなギャップを、一部の子供はもしかすると理解していない。
健全な大人は、そのことを頭で理解しているだけでなく、そのような行動に対して無意識に抑制が働く。体が動かない。自分の手首を切るときと同様に。
この無意識の抑制をわれわれはどのようにして身につけたのか。あるいは、3歳までは殴ってでもしつける、という方法論が当てはまるものなのか。
・現実には、ずっと以前から、「非行防止」とやらのために持ち物検査や服装検査をしている高校等は結構ある。案外検査をしても子供は抵抗しないのかもしれない。
そのことの方が恐ろしい。管理されることに慣れ、その方が望ましいと思う子供が増えているのだとしたら。
抵抗を感じる方が自然だと思うが、そのような子供にとって今の学校は非常にストレスの強い所なのだろう。それがキレることの遠因になっているという大雑把なくくりはできないが...(レアケースでは個々の事情が非常に重要でマクロな要因だけでは説明不可だろうから)
・一時的なストレス解消法として、授業の前に歌を歌う、あるいは深呼吸をする。こんなことが役に立つのは低学年までなのだろうか。
・一般論としては、教師と生徒の間に十分なコミュニケーションが成立していれば、簡単には刺せないのではないか。
成立させるだけの時間的、精神的ゆとりを教師に与えているか。
一方で、教師側にその態勢ができていても、生徒側が拒否すれば成立しないのだから、教師にのみ期待するのは不適当だが。
(2)長野オリンピック開会式
冬季オリンピック自体にさほど興味はないのだが、イベントのプロデュースにちょっと興味があったので、開会式のテレビ放送を全部見た。
力士を各国選手団の先頭に歩かせる、というのを聞いたとき持ったのは、かなり場違いな、間抜けなイメージだった。
実際は違った。先頭は力士だけでなく、子供が一緒だった。
これによって、場の雰囲気は実に明るい、軽やかなものになっていた。
力士と手をつなぐことによって、子供たちは緊張から解放され、言ってみれば半分空想の国で遊んでいるような楽しさに満ちていた。
伝統と未来を感じさせる、というあたりが公式コンセプトなのだろうとは思うが、それにとどまらない効果を生んでいた。この対比を考えついたプロデューサーに敬意(力士を先に決められての窮余の策だったりして)。子供たちのコスチューム(各国の国旗をモチーフにした、ちょっと「不思議の国のアリス」的なもの)もきいていた。
開会式の中で、これが一番よかった。
最後が小沢征爾指揮、世界6会場同時演奏の「第9」(カッコがつくときはベートーベンの第9なのですね、日本では)。小沢は熱がはいっていたし、会場が世界中に分散しているとは信じられない好演奏だったとは思う。
でも、なぜ「第9」なのか、と考えてしまう。
オリンピックが平和の祭典だから、ということなのだろうが、5大陸で同時に平和の歌を歌えば世界が平和になるというものではもちろんないし、祈りの様式だとすれば不自然、強引。平和を演出するということがぼくにはどうも好きになれない。
技術的には興味津々。電波が行って戻ってくる時間のズレを、どう調整したのだろう。
なぜ、を問うなら最大のものは、なぜこのような開会式をやるのか、ということ。
オリンピックの価値の高さをアピール?開会式がなくたって誰でも知っている。
選手を鼓舞?多少の効果はあるのだろう。でももっとシンプルでも同じ効果をあげられる。開会式に出ずにメダルを取る選手だって多い。
結局、このイベント自体がビジネスというのがやはり当たっているのだろう。
< 発行人ノート >
・初めてLibrettoから発信します。これまでのMacとは半角スペースの幅が違うので、少し見かけが変わっているかもしれません。
・少し風邪をひきましたが休まずにすみました。咽喉には早めの耳鼻科、おすすめします。
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