乱歩怪奇譚(1) 作:闇の車掌長
『原点回帰譚
・江戸川乱歩を思う』
<消えた花嫁>
本来ならば小学校の作文の宿題でも、赤点スレスレの拙作なのだが、このサイトの主
催者のご厚情で、これまで恥の積み重ねをお許し頂いてきた。
冬風に舞う粉雪を見れば書き、雨に煙る飲食街を見れば描く、常に自分の中に溢れか
える妄念の味付けをして・・・・
しかしながら、こちらのサイトとの出会いにも共通する嗜好の根元は何か?そう振り
返った時、筆者としては、すでに鬼籍の住み人となってしまわれた【江戸川乱歩】氏
を、まっさきに思い浮かべる。
今回、筆者は自己の筆力のなさ、貧弱極まりない語彙を承知の上で、無謀なる試みに
挑戦したいと思う。それは過去に【江戸川乱歩】氏が提案され、手がけられた「合作
・競作」作品に筆者も参加する、その事である。
唯一、資格らしい資格を探した時、<熱烈な読者である>、それだけの理由ではある
が、どうかお許し願いたい。
その結果は、おのずから知れたものではあろう。しかも下手をすれば、心酔する【江
戸川乱歩】氏の遺作に泥を塗る事にもなろう。だが筆者の心は、この蛮勇に挑戦した
いと泣き叫んでいる。
もとよりこれは、筆者自身の虚名を向上したいと企てるものではない。無心に心酔し
た【江戸川乱歩】氏に少しでも近づきたい、染まりたい、その一点のみで筆を進めた
いのだ。
そして、その過程で読者諸兄に対する気配りが欠如する事も大いに予想出来る事を最
初にお断りし、ご寛容をお願いしておきたい。
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第一章
【江戸川乱歩】:出題作<消えた花嫁>
掲載誌
『面白倶楽部』 昭和33年3月増刊号
【 出題作のあらすじ
】
岡本文一という青年がいた。大学を卒業後、大手製薬会社に入社して間もなく、社長
のお供で立ち寄った銀座のバー「ヒサマツ」の女給マヤ(本名・芦田摩耶子)に一目
惚れをした。
マヤという女性は渋谷のアパートに、人形町の洋裁店に勤める姉の曾与子と2人ぐら
しをしており、両親はすでになく、頼るべき親類もなかった。
岡本文一の両親、親類の反対など、若干の紆余曲折はあったものの、結局、明治記念
館で挙式の段となったのだが、神前での式も済み、記念撮影をして、さぁ披露宴の前
の身支度を、と控え室に入ったのを最後に、マヤ・芦田摩耶子の姿は忽然として、消
え失せてしまったのだ。
そう、まるで神隠しにでもあったかのように。
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「怪異!花嫁衣装のまま、神隠し!」
「玉の輿の重圧か?花嫁、謎の失踪」
帝都のみならず全国津々浦々にまで、知れ渡った“この花嫁失踪事件は、時間の経過
とともに、捜査に困難が生じてきた。
「どうなっておるんだ捜査の方は!目立たない格好ならいざ知らず、あんな派手な花
嫁衣装に角隠し、しかも真っ白の“うちかけ”姿なんだぞ。それが、いったい・・・
・・・」
「は、現在、鋭意捜査中でありまして、、、し、しかしながら、、、」
その捜査陣の苦悩は現代とは比較にならないだろう。科学的な現代の警察を比較に出
すそれ以前に、例えば電話ひとつとっても、昭和33年のこの時代、GHQのお古の
白塗りジープから、都市警察を中心にしてようやく配備替えされ始めたパトカーにさ
え、無線など一切の通信設備がなかった時代なのだから。
ましてや捜査に活用できる車両など、どこを探してもない。なにしろ自動車そのもの
が超高級品だった、携帯電話以前に一般の家庭に電話がある事が裕福である事の証
だった時代の事件なのだ。
一方、首都高速や東名高速など計画すらない、まだ田園風景と雑木林が混在する帝都
郊外にある、文一の自宅では、
「かあさん、文一はどうしているんだ?もう発ったのかね」
「はい、今朝一番の“小田原急行(※今の小田急)”の特急で。念の為に書生の市ノ
瀬クンに一緒に着いて行っていただきましたわ。それに別荘には住み込みの婆やもお
りますし」
「どうりで今朝から一ノ瀬の姿がないと思ったが、そうかね。だったら安心だ、、し
かし、、、な」
「あなた?、、そのお話は、、、誰よりも一番傷心しているのは、、当の文一なんで
すから、、、うっううぅぅ、」
場所は変わり、時刻は、若干だが前後する。
舗装もされていない広いだけの道路の中央をパンタグラフの火花を散らしながら行き
交う路面電車。その間を縫うようにして土埃をあげて走る自動車達。
せいぜいが二階建て程度の商店の中央に位置する新宿駅は、まだ大きなビルではない
が、中心としての威風はすでに備わっていた。わずかに潮風のする方角に眼を移す
と、完成したばかりの大鉄塔“東京タワー”が、その威容を、帝都ばかりか関東一円
に知らしめていた。
今、新宿駅の西側に位置する小田原急行のホームから滑り出すようにして出発した、
車体を濃紺と山吹色のツートンカラーに塗り分けられた特急の車内に、和気藹々とし
たアベックの姿がある。
「この辺まで来ますとさすがに空気が美味しいですね。あっ、お坊ちゃん、お加減は
どうですか。」
「弓子さ、、いいえ一ノ瀬さん、この格好の時に「お坊ちゃん」はかんにんして下さ
らない。どうぞ文子って呼んで下さい。」
「こ、これは、、、失礼しました、、、、文子さん、、うふふ、でも弓子ってお呼び
になられるのも、かんにんしてくださいな。これでも今は御両親、推薦の“書生”の
一ノ瀬巌なんですから。」
「そうでしたわね、彩小路弓子は貴女の昔のお名前。今の貴女は一ノ瀬
巌、、そし
て、、、、わたしは、、、、、?」
「その一ノ瀬
巌の、最愛の婚約者、オカモトフミコ!、、、、でも、こんな“書
生”ふぜいでは役不足でしょうか?お坊ちゃん?」
「また、、、そんな、イヤです、そんなに意地悪な事、言うなんて、、、はぅ」
すねて、まだ何か言おうとする文子の唇は、一ノ瀬に奪われてしまった。そしてその
互いの唇の暖かみが、2人の間に言の葉の必要をなくす。
戦後の始まりで瓦解した日本古来の慣習と、与えられた新たな習慣、、、それは、薄
れた慎みと引き換えに現れた、押し止められていた愛の交情儀式でもあった。
座席指定とは言え、誰の眼があるか解らぬ混み合った特急の車内での接吻は、若い2
人にとってさぞ勇気が必要であったろう。だが、その抱擁は列車の振動に励まされた
ように続いた。
「はぅ、、、いけない方、、、こんなはしたない、、、」
「いけませんか?でも、ボクをこんな礼儀知らずにしてしまったのは貴女にも責任が
ありませんか?あの日、貴女があんな事さえなさらなかったら・・」
「あっ、は、はうぅ、もう、、、、もう、あの時の事なんか、、」
「悪いお嬢さんだ、、、、」
あの日・・・・・・それは、文子がまだ自分の中に存在するもう一つの人格を持て余
していた文一として、大学生活にあった時のことであろうか、、、そして、彼の運命
を左右するきっかけとなったのは、誰あろう、彩小路弓子、その人だったのである。
その出来事を読者に説明する為に、ここで又、少しだけ時間を溯る事にしてみよう。
母「まぁまぁ、文一さん、いつも娘がお世話になって、本当に何とお礼申し上げたら
よろしいんでございましょう。弓子の為に貴重なお時間を砕いて頂いて家庭教師なん
てお願い、、、、これ、弓子さんも、ちゃんとお礼申し上げて。」
「お母様、あたし、もう子供じゃないんですのよ。センセイお忙しいんですから、お
母様がいつまでもいらしてたら、勉強なんて出来ませんことよ。」
母「まぁ、弓子さんったら。はいはい、それじゃ邪魔者は退散いたしましょ。それで
は文一さん、どうぞよろしく。おほほほほ」
「ふぅ〜、センセイ、ゴメンナサイね〜お母さんったら、自分の方がセンセイの事、
興味あるもんだから。」
「いや、別に、楽しそうなお母さんじゃない。ふーーー、、、」
「え?センセイったらヤダ、溜め息なんかついちやって、何を見ているんですかさっ
きから・・・・・
「あら!きゃ、いやだわ。あたしったら、お洗濯物がそのまま。もうお母さんった
ら、クローゼツトに入れておいてくれたら良いのに。」
「あ!そんな、ボクなら別に、、、キレイじゃない、、、そんな下着なら、、」
「え?、、センセイ、、そんな下着なら、、なに?、、、、ふーん、、セ・ン・セ・
イ?着てみます?あたしので良かったら?」
「、、えっ?、、、そ、、そんな、、の、、、突然、、、変だよ、、、、だっ
て、、」
「きっと似合うわよ。着てごらん。はっきり言いなさい!こんなの穿きたいんでしょ
!」
「あ、はい!ワタシ着てみたいデス。」
「ふふふふふふ、素直な良い子ね、それじゃ今着ている物、全部脱いでハダカになり
なさい。あたし、部屋のドア、鍵を掛けてしまうから。」
初めて異性を意識する女性の前で、着ていた物を脱ぎ捨てる文一。その行為がまるで
何か見えない糸で操られているようなぎこちなさとは裏腹に、表情は隠しきれない歓
喜に覆われているではないか。
「それじゃ眼を閉じなさいな。わたしが良いって言うまでぜったいに勝手に眼をあけ
ないって約束なさい。」
別人のように人が変わった弓子は、そう文一に命ずると自分のセーラー服のスカート
の奥に両手を入れて、穿いていた真っ白なパンティと、弓子のはちきれんばかりの太
股に、ストッキングを戒めていたリング状の靴下留めを脱ぎとった。
弓子の太股に張り付いていたスクールブラックのストッキングは、その戒めを解かれ
ると、見る間にユルユルとずり落ち、その片方はかろうじて弓子の膝頭にとどまり、
もう一方はそのままくるぶしを隠すようなかたちで脱げ落ちてしまっていた。
「手を出しなさい。これ何か解るわよね?そう、文一せんせい。貴男があれほど肌身
に着けてみたかった、あたしのパンティよ。素直にそれを穿いたらご褒美にストッキ
ングも貸してあげる。・・・・穿きなさい、ただし眼は開けちゃ駄目!良いわね!も
しも勝手に眼を開けたりしたら、あたし大声を出すわよ。そうしたらいったいどうな
るのかしら。困るのはあたしじゃないわ。さ、穿いて!」
眼を閉じたままでフラつきながら、弓子のパンティを穿く文一の横で、弓子は自分も
興奮したのか、女学生とは思えぬ、まるで退廃に支配された街娼でも乗り移ったかの
ように、不思議な事を始めていた。弓子も自分の着ているセーラー服を脱ぎ、身に着
けていたスリップとブラジャーも取ると、堅く眼を閉じ、一心不乱に弓子から下げ渡
された下着を身につけている文一の目の前で、一糸まとわぬ産まれたままの姿になっ
てしまったのだ。
「何、グズグスしているの。次はこれブラジャー、それを着けたら今度はスリップが
待っているわよ。」
もはや弓子の操り人形と化した文一。そして数刻の後、その部屋に出来あがった不思
議なカップルの姿は異様にすら感じられた。下着からすべて、たった今まで弓子の着
ていた、今だ弓子のぬくもりさえ確かな下着を着け、セーラー服を着て、即席女装を
させられた文一と、それを楽し気に眺める全裸の弓子、、、
「せんせい、とっても素敵よ。そのセーラー服、とってもお似合いだわ。その髪型、
電発でもあてがったみたいだから、よけい映えるのかしら。ふふふふ、、変ねぇ男の
癖にそんな女性しか着ないセーラー服を着て、しかも下着まで、、、自分の教え子の
年下の女性にねだって肌身に着けて嬉がっているなんて、、、、正気のさたとは思え
ませんコトよ。ねぇ、せんせい、あたしも、せんせいに負けないようにお洒落をして
みたの。さぁ、どちらのお洒落が素敵か確かめ合いましょ。さあ、手をずっと前に、
あたしの方に差し出して下さらない。さぁ・・・」
それがキッカケとなって、2人の課外授業は、日々濃密の度を濃くして行った。
時間は戻る
今、学生服の男性の肩にそっと頭を乗せ互いの手を堅く握りあって指定席に収まって
いる女性。そんな仲むつまじいカップル。だがそんな仲むつまじい2人の会話は、折
りから酒匂川鉄橋を通過する特急の轟音にかき消され、それ以上聞く事が出来なかっ
た。
酒匂川を越すと間もなく、特急は箱根山を借景する小田原駅に入線した。
「文子さん、降りますよ。忘れ物しないように注意して下さいね。」
「あら?、、、まだ小田原じゃありませんか、終点まで乗るんじゃなくって?」
「そうでしたね。お坊ちゃんはいつも別荘へは、お車で来ていたんでした。実は別荘
に電車で来る時には、終点の“箱根湯元”じゃなくって、同じ線ですが、ひとつ手
前、箱根登山線の“入生田(いりゅうだ)”で降りた方が近いんです。」
「そうだったんですか。わたしって何も知らないんだ、、、仕方ないですね、一ノ瀬
さんに『お坊ちゃん』って、そう言われても。」
「あっ、ごめんなさい、、アタシそんなつもりで、、でも8年前に、この小田原急行
が箱根湯元まで乗り入れる前は、みんな小田原駅で乗り換えていたんですから」
【おだわらぁ〜、、、おだわらぁ〜、、箱根登山線、強羅、宮の下、彫刻の森ほうめ
ん行きは、、、、、】
帝都側からの狭軌道の線路巾が、山岳鉄道である箱根登山線からは広軌道になる為、
このホームから山側には、都合3本の線路が枕木に仲良く並んでいる。初めて見る者
には、少し物珍しい光景だろう。
2人を乗せて走る、マッチ箱を二つ並べたような玩具のような列車の車窓からは、右
側に青々とした葉を陽光に輝かせるミカン畑、そして左側にはブルーのフェルトを敷
き詰めたような太平洋が、家々の間からいつまでも見えている。
「箱根板橋」「風祭」そして、目的地の「入生田(いりゅうだ)」まで、約10分ほ
どで山岳鉄道の旅は終った。
乗ってきた列車の車掌が改札を兼務する無人駅のホームには、列車が出てしまうと、
2人以外に乗降客の姿はない。
「あっ、どうやら迎えの車が来たようだ。さぁ、行こうか、、、、、、文、、子。」
「はい、、、、、巌さん、でもあの乗用車、見たコトが、、、、きゃ!風がっ」
きまぐれに強く吹きつけた一陣の海風が容赦なく文子のスカートをめくりあげた。そ
の粗野なまでの強めの風は、文子のスカートの中に入り込み、春物の薄い布を持ち上
げた。そこに居合わせた者すべてから丸見えだろうパンティとパンティストッキング
に包まれた文子の下半身には、まぎれもなく男性の証が、天を仰ぎ見て脈打っていた
のだ。
「あら、お坊ちゃんったら気持ちはすっかり夜の睦言に。、、、、ふふふ、楽しみで
すわね。無理もないわ。あの結婚式のドサクサで、ボク達、お互いにすっかり“おあ
ずけ”状態だったのだから。さあ、文子、急ごうじゃないか。これ以上、海風の嫉妬
をかわないうちに。」
「はい、、、、あ・な・た・・・・」
主人を出迎えるにしては少し失礼とも思える、その乗用車のヘッドライトの催促がま
しいパッシングが、さらに2人の足を急がせた。
「お待ち申し上げておりました。さ、若奥様はこちらのお席に。」
「あ?、、、はい、、、、?、、で、、でも、、、」
「良いんだよ、文子。ボクが前もって準備しておいたんだ。すべてボクの計画通りに
進んでいるから、何も心配しなくても。あまり遅くなると、今頃は婆やが首を長くし
て待っているんじゃないだろうか。さぁ乗りたまえ、文子。」
一ノ瀬
巌の言葉に頷き、静かに黒塗りの乗用車の後席に身を沈めた文子に安心した
ように、一ノ瀬はドアを閉めた。そして自分自身も反対側のドアに回ると、外で待っ
ていたネクタイに制帽を被った運転手に何か目配せをした。
「はい」
きしゅー・・・・・・ブシユワウゥゥウウゥゥゥゥゥゥゥウウウゥゥゥゥ
タイヤの空気でも漏れたような小さいが鋭い音がわすがに聞こえた。だが、4輪のタ
イヤを含めて、何も変化したものはない。車内の後席でシートに突っ伏すようにして
倒れている文子の姿以外には。
「ご主人様。まだ睡眠噴射の霧が車内に残っておりますので、しばしお待ちを。」
「うむ、その間に一服している事にするか。何しろ、この“彩小路弓子”には喫煙の
習慣がないので、いささか閉口していたから丁度良いさ。
「あー、しかし、このマスク越しでも海風がさわやかだな。」
読者諸兄の方は、とっくに理解されているのではなかろうか。あろう事か、あの“結
婚式”から逃出した文一の婚約者<芦田摩耶子>が、実は、岡本文一であり、しかも
書生、一ノ瀬 巌、、、、男性である筈の彼が<彩小路弓子>、ここまでは何とか理
解する事が出来た。
素直に、異性装者どうしの恋路と受け止めてさえやれば、そして、個々の嗜好の垣根
にこだわりさえしなければ良いのだから。・・・・・親の監視下から逃れてつかの間
の恋の逃避行ごっこも又よかろう。
だが、それだけではない何かが、まるで食い散らした魚の骨が喉に刺さったように妙
に引っかかるのは筆者だけだろうか?
恐縮だが、この話は後回しにしたい。なぜなら黒塗りの乗用車はすでに走り出してし
まったのだ。
「しかし、今回は長かった。結婚までにはもっと手間暇がかかる様にと、わざとキャ
バレーの女給で接近してやったのに、まさかこんなに早く、結婚の許しが出るとは
な、、、、」
「そうは、おっしゃいますがご主人様、それ程、ご苦労されているようにもお身受け
できませんが?」
「ぷっ、そう核心を付くなよ。まったく君って部下は、あっはははははは、流石だ。
それでこそ、私の唯一、心を許せる片腕なんだがね。たしかに愉快ではあるよ。」
土埃を巻き上げながら疾走する乗用車の後席シートで、女装姿で失神したままの岡本
文一「文子」を抱きかかえたまま、一ノ瀬 巌は愉快そうに言葉を続けた。
「特に、「この」“彩小路弓子”って女性に変身した時は面白かった。さすがのこの
ボクも、まさか“彩小路弓子”が異性装者でなければ愛する事が出来ない性癖をお持
ちだとは予想も出来なかった。それも自分自身も男装が御趣味とはね。女装しながら
男装するっていう経験は、初めてだがオツなものだね。」
「変装術を駆使した世界一の怪盗でいらっしゃる御主人様でも、そうなんですか?わ
たくしには難し過ぎて良く解りませんが。」
「うわ、世界一は、オゴってくれたもんだね。そりゃ言い過ぎだが、君だって、ご希
望とあらば絶世の美女にしてあげるよ。どうかね?」
「あたくしが、ですか?ブルルルルルウゥゥ、せっかくですが、ご遠慮申し上げま
す。」
「あっはははははは、そりゃ残念、きっと君に熱をあげる紳士諸君が殺到すると思っ
たんだがな。」
変装術の名人?怪盗・・・・そして世界一、、、、それらの言葉を繕い合わせれば、
必然その答えは限られてくる。だが、なぜ?残念だが、それは時間に教えてもらうし
か、今は手だてがない。
東海道からなら、平塚以西、大磯、二宮を過ぎ、国府津あたりから、この辺一体の夕
暮れははやく、しかも箱根山に遮断され、夕焼けを見る事は出来ない。すでに、空は
赤紫から濃紺に変わり、星のまたたきさえ見とめる事が出来た。
その宝石のキラメキに眼を奪われている間に、街灯の普及にはこの物語から後10年
はかかる漆黒に近い山道の中に、その黒い車体は溶け込んでいた。
それから数時間後、月光に輝く小波の中、相模湾にイカ釣り舟の灯すランプの揺れ
る、そんな神秘的な光景を一望出来る部屋に、やっと彼らの姿を見つける事が出来
る。
第一章<完>
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