MICO YAYOI 2巻 (No.5)



−34−

 絵でものんびり描いて過ごしたいなんて、言ってなかったっけ?」
「あっ……覚えていてくれたんですね。嬉しいな。有希子」
「そうだったよね? いいものがあるから、ちょっと上まで来てみて」
「えっ? いいんですか」
 ますます笑顔で元気に、坂本 隆一さんの後について階段を上がっていく有希子さん。

 すっかり元気になっちゃったね。
 真咲さんが持ってきていた鷹のマークの栄養ドリンクを1本づつ分け合って飲んだ。
「疲れるね、真咲さん」
 二人でくすくすと笑いながら、後に続いて階段を上がった。
 二階の奧の部屋には、額縁がたくさん飾ってあった。
 あちこちで集められたらしい、珍しい一風変わった額縁───。

−35−

「どれでも好きなのを持っていっていいよ」
「いいんですか?」
「うん。本当に絵の好きな人に、使ってもらえたらいいんだ」

 有希子さんは注意深く、全部の額縁を見た後、白っぽくてオリエンタル風の装飾が施された1枚の額縁を選んだ。
「それでいいの?」
「はい」
 素直に頷く有希子さんに。
「きみならその額縁にどんな絵を飾るの?」
「青い海と、白い建物───例えばトーマス・マックナイトさんみたいな異国情緒豊かな絵を飾りたいな」
「それもいいね。1昨年に地中海を旅行したけど、あちらの気候は暑くても日本みたいにむしむししてなくていいね。なんだかカラッとしてね。音楽も解放的だね」

−36−

 尊敬と羨望が入り交じった瞳で、眩しそうに坂本 隆一さんの手を見つめている有希子さん。その瞳がとても綺麗だった。

「確か前に、トレント・リャドの絵を自分の家に飾りたいとか言ってなかったっけ」
 坂本 隆一さんがいいことを思い出したというように軽く目配せした。
「いいから、こっちに来てみて」
 坂本 隆一さんは、広い廊下の壁に掛けられた、白いシルクの布生地の覆いを勢いよく剥ぎ取った。
「あっ……」
 そこにはトレント・リャドの初期の名作「ジヴェルニーのバラ」(Roses Giverny)が飾られてあった。その隣には、「朝の光」(aiguamolls)「アルファビアの朝」(Vegetacion)「ライの薔薇」(L'Hay)の代表作が飾られていた。

−37−

「素敵ですね、教授」
「こういう絵の描き方知ってる? お祭りのヨーヨーの入れ物のような風船の中に、色とりどりの絵の具を詰めて数メートル先から、キャンパスに向けて投げつけるんよ。こういう風に」
 坂本 教授がピッチャーマウンドに立った少年野球の選手のように、ボールを2階の壁に向かって投げつける真似をして見せた。
 目を輝かせて天然少女のように瞬きひとつせずに見とれる有希子さんと、はにかんだ笑顔で答える教授。

「それはそうと、きみに捧げたかった曲があるんだよ。今だったらもっといい曲があるんだ。今のきみの顔を見てひらめいた」
 すぐさま下に降りると、いともたやすく、即興で美しいMelodyのフレーズを弾いてみせた。

-38-

「きみは本当はどういう楽曲を歌いたかったのかな?」
「坂本 隆一さんの、ガラスのように繊細で心がふるえるような、それでいて子供の心をどこか残したようなピュアな楽曲が大好きだったんです。それにオリエンタルな広大なアジアを感じさせる広がりのある曲に一度挑戦したかったんです」
「そんな感じでいいの?」
「あと、お願いしたいのは、前奏にオルゴールのような壊れそうに儚いMelodyと、鼓動のBeatのような時計の音を効果音として入れてもらえますか?」
 坂本 隆一さんはしばらく考えた後、
「おやすい御用だよ。今、いいアイディアを思いついた」
 と言い残して、自宅の隣のレコーディングスタジオに直行した。


9  ♭  Mスタ出演  ♭

−39−

 金曜日の5時過ぎに、ABSテレビ局の横に黒塗りの車が横付けにされた。
 隣には憧れの坂本 隆一さんが乗っていた。
 8時から始まる、生放送の「Mスターステーション」のリハーサルが既に始まっていた。
 坂本 隆一さんが黒塗りの高級車から降りると、周囲からうわっとどよめきが起きた。

「坂本 隆一さん」
「隆一さんよ」
「どうしたんですか急に」
 騒がしい声が、沸き上がって。その中を坂本 隆一さんが平然とした顔でエレベーターに乗り込んでいく。

 早速、音楽ディレクターに挨拶をする坂本 隆一さん。
「時間をあけてくれないかな、今夜のために」

−40−

 カセットテープをカタンとチーフディレクターの手に渡す隆一さん。
「3分14秒の曲だから、今から急いで構成してくれない?」
「懐かしいね」
 坂本 隆一さんとディレクターはしばしの間、熱い抱擁を交わした。
「衣装はどれを選ぶ? きみのイメージは、リトルプリンセスだったね」
 衣装部屋でのん気にCHOICEする坂本 隆一さん。
「これはどうだろう?」
 クローゼットの奧の方に、掛けられた衣装に目がいった。
 うわーっ目を輝かせる、岡野 有希子さん。その衣装には、驚くべきことに岡野 有希子さんとはっきり書かれたタグが付けられていた。
「きっときみの新曲の衣装だったんじゃないかな?」

−41−

 隆一さんが手を伸ばして、その衣装を取ってくれた。
「きみに着てもらえると、その衣装も本望だよ」
 有希子さんが微笑みながら、衣装を受け取った。
「歌はさっき練習したから、早速着てみよう」
 ドレスのサイズはぴったりだった。
 黒いヴェルヴェットに白いシルクの袖口が品よく見える。レースと色んな色彩のビーズ飾りがふんだんに惜しみなく使用されている。
 髪の毛をふんわりウェーブにセットされて、ちょっと今時風に見えるように、すそにシャギーを入れてもらった。
 大きな手鏡を渡されて、
「はい、どう? こんな感じで」
 しげしげと食い入るように鏡の中の自分の姿に見とれる岡野 有希子さん。
「うん、こんな感じ

−42−

 鏡を前に置いて、ふわっとドレスが風に舞うように立ち上がった。
「化粧を直してくるね」
 メイクさん達が、用具を一式貸してくれる。
「どういう感じに仕上げたいの? よかったら、アドバイスしてあげるよ」
 メイク仲間の間ではすこぶる有名な、浅瀬さんが透明感の強いリキッドファンデーションと明るいピンク色のチークバイダーとパステル調のアイシャドーを3色。(イエローパープルとペパーミントとパールピンク)
 それからゴージャス感のある少し大人の色の淡いレッドベージュのリップとパール感覚のグロスを出してきてくれた。
「うわぁ。すごいですね。有希子が生きていた頃はこんなグロスとかなかったですもんね」
 感動したという風に、メイク道具一式を、ちゃらちゃら触って感触を確かめている有希子さん。

−43−

「うん……この際だから、色のCHOICEはメイクさんにお任せしちゃおうかな。仕上げは自分でします」
「そうそう。これが流行のカラーね」
 メイクの浅瀬さんが次々に新色の定番を積み上げていく。
「ごてごてした感じには、しないから。思い切っていっぱい使っちゃうからね」
 ふふっと微笑む有希子さんと、メイク仲間さん達。
 急いで仕上げなくちゃね───。

「弥生さん、こっちに来て来て」
 呼び声が掛かって、振り返ると。
 淡いスポットが当たって、パール感のある光輝くようなメイクが施された有希子さんが立っていた。
 リップはゴージャス感たっぷりで、水に濡れたばかりのような透明感のある、今にも雫がこぼれ落ちそうな感触に、丁寧に仕上げられ

−44−

ていて。有希子さんの小さくて高級フランス人形のような精緻な口元が微笑むと、まさに魅惑の唇だった。
 チークパウダーの効果でほんのり頬に健康的な赤みが差した感じで。
「ほんとうに生きているみたいだね、有希子さん」
 思わず本音を漏らすと。
 有希子さんが微笑み返してくれた。

「素材も大事だけど、メイクを重ねていくんじゃなくて。命を吹き込むように、雰囲気を出すように仕上げていくことも肝心なんだよ、弥生ちゃん」
 そうなんだ……と感心して有希子さんの完成されたばかりのお顔をしげしげと拝見していると。
 メイクの浅瀬さんが、「メイクの処世術」という自著を手渡してくれた。

−45−

「弥生ちゃんは純和風のオリエンタルな顔立ちだからね。化粧の施しようがあるよ。時間があるから一度やってみる?」
「面白そうだから、やってもらおうかな」
 メイク室の大きな鏡に向かって、改めてしげしげと自分の顔をよくよく見てみた。
 小さい頃から見慣れた顔だけど、亡くなった純和風で美人と近所でも有名だったお母さんの貴子似のこの顔。
 一重瞼だし、小さい頃キツネとからかわれたつり上がり気味の細い目。
 肌は白くて綺麗だとよく言われるけれど、陽射しの強いこの季節はそばかすがすごく気になる。
 小顔は小顔、まゆ毛は薄くて先になるとよく見えないくらい。
 唇は薄くて、勉強頑張りすぎてあまり血色もよくないうえに受け口。
「こんな私でも、きれいになれますか?」
「大丈夫。大丈夫」

−46−

 さっさっさと自然に弥生の直毛で真っ黒の髪を櫛で梳かしながら。
「きれいになる、きれいになれる。と自分に暗示をかけていく過程もとても大切だよ。きれいなオーラをメイクさんもつくるけど、自分からも出さなくちゃね、弥生ちゃん」
「メイクを施す方と、される方が一緒に作り上げる魔法なんだね」
「そういいうこと、そういうこと」
 楽しみ、楽しみというように大きな鏡の中を見つめていると。
「弥生ちゃんの顔のコンプレックスはどこかな?」
 さりげないやさしい口調の聞き方で、思わず心がほぐれていく。
「やっぱり目かな? お母さん譲りの細い切れ長の目がコンプレックスといっちゃいそうなんだ。目の上の肉が厚くて、腫れぼったく見えるし、疲れたような表情に見えないこともないしね」

−47−

「まかしておいて、オリエンタル風の異色美人に仕上げてあげるからね」
 弥生の肌の色に似た色彩の、明るい白のさらっとした下地クリームが手際よく塗られ、目元にシャープな感じにアイラインが引かれ、薄いまゆ毛をぼかしていくように眉が自然にかたちよく弓形が描かれた。
「繊細なお肌だからね。毎日、最低でも化粧水、乳液でお手入れをしないと。弥生ちゃんは今は若いからいいけど、そばかすひとつにしても今からお肌のケアをしておかないとあとあと苦労するよ」
 メイクの浅瀬さんが、ポーチに入った基礎化粧品入れのセットを弥生にくれた。
「とりあえず、それを使ってみて。肌に合わなかったらすぐに使うのやめてね」
 メイクしたての、浅瀬さんいわくオリエンタル風異色美人に仕上げられた弥生は、写真を撮ってもらって、浅瀬さんにちゃんとお礼を言ったんだ。


10  ♪  いよいよ本番  ♪

−48−

 ♪ ダダダダーン・ダ・ダ・ダ・ダ・ダン ♪
 Mスタのテーマソングが高らかに響きわたり出演者の間に緊張感がきりりと走る。

「はい。モリタです」
「下北 さやかです」
「毎日暑いですね」
「熱帯夜がしばらく続くそうです」
「エアコンの故障に気を付けて」
 モリタさんのひとことコメントに続けて。

「今日は珍しい現象が起きます。お楽しみに」
 観客席からどよめきが起きて、出演者が新曲のMelodyと共に階段を次々に降りてくる。
「はい、有希子さん」
 白いマイクが渡されて、にっこりと微笑む岡野 有希子さん。

−49−

「色とりどりの風船を降らすからね」
「楽しみにしてて」
「この子ネコのぬいぐるみちょっとバスケットに入れて持ってみて」
 小道具さんがいっぱい案を出してくれる。

「がんばってね。僕の楽曲を気に入ってもらえると嬉しいな。最後だからしっかり歌ってね」
 坂本 隆一さんが照れくさそうな笑顔で励ましてあげている。
「はい」
 髪をセットされながら、可憐そのものの笑顔をふりまく有希子さん。
「あの……伴奏のピアノは弾いてもらえるんですか?」
 恥ずかしそうにはにかみながら、隆一さんの目をしっかりと見つめて尋ねる有希子さん。
「まかせといて、僕が右手をこう上げて合図するから。歌い出しの時にこっちを見てね」

−50−

「よかったね、有希子さん」
 弥生と有希子さんは、ぱちん☆と手を合わせて笑っちゃった。

「次の曲は、坂本 隆一さん作曲の……」
 モリタさんがそこで一呼吸置いて。
「Glassのハーモニー」
 続いて厳粛なMelodyが流れて、幕が上がると、広大な草原に一台のピアノと風に吹かれた美しい髪の少女のイメージでセットが出来上がっていた。

 坂本 隆一さんの美しいピアノの演奏を打ち合わせどおり振り返って、じっと聞き入っている岡野 有希子さん。
 右手を上げて、うんと軽く頷いて合図をする坂本 隆一さん。
 そっと風のように歌い出す有希子さん。

-51-

 「出逢いは簡単
 別れはきっと訪れて

 生まれ変わっても
 きっとあなたとめぐり会う

 風はそよぐ
 この荒れ果てた地上に

 わたしは小鳥になって 歌うの

 緑と風のハーモニー
 谷間を流れていくの

 わたしは小鳥になって 現れて
 あなたはきっとわたしを見つける」

−52−

 曲の間奏の間に、色とりどりの風船がゆっくりと降りてきて、見上げた子ネコのぬいぐるみを抱えた岡野 有希子さんの立ち姿は、あまりにも可憐で初々しくて愛らしかった。

 坂本 隆一さんはピアノと向き合って、白く清らかな魂へのレクイエムのごとく胸に押し寄せる荒波に巻き起こる己の感情をも共に昇天させるような、美しすぎる旋律を奏でていた。

 音楽が終わると、割れるような拍手が響いた。
「よかったよ」
 坂本 隆一さんが有希子さんの肩にそっと手を回して、固く握手を交わした後。
「それじゃ、これで帰るからね」
「冷たいんじゃないの? 隆一さん」
 弥生がすかさず口をはさむと、
「ううん。もう十分。弥生さん」

−53−

「これでいいの?」
「ありがとうございました。坂本 隆一さんには奥さんも子供もいますから」
 坂本 隆一さんが、くしゃくしゃとしたどこか愛嬌のある笑顔を残してその場を立ち去った。

「ショックじゃない?」
 坂本 隆一さんの後ろ姿を見送りながら、尋ねる弥生に。
「坂本 隆一さんは大人ですから。でも、子供っぽいところも実は魅力なの」
「そうなんだ……確かに、才能もある上に、ピュアな人だったね」
「そういうところが好きだったの」
 そう言って、隆一さんの背中を見送る有希子さんの顔はどこか晴れやかだった。

 モリタさんが番組終了後にやってきて、
「有希子ちゃんよかったよ。で……」

−54−

 カバンから白い封筒を取り出すと。
「これ、最後のギャラ。受け取っといてね」
 愛想笑いするモリタさんに。
 有希子さんはにっこりと笑って。
「もうわたしは死んでいるから、お金はいりません。気持だけでけっこうです。急に出演させていただきまして。本当にありがとうございました」
「そんなの、ちゃんともらっといてよ。有希子ちゃん」
「もらっても、もう使えないですから」
「残念だね」
「はい」
 どこか潔い態度の有希子さんに。
 弥生はすっかり見直して。
 その凛とした横顔に見ほれちゃったんだ。


11  ¶  ムリプロへの挨拶  ¶

−55−


「社長さんに最後に会っておいていい?」
 ABSテレビ局のエレベーターを降りながら、岡野 有希子さんが無邪気な笑顔で真咲さんに聞いている。
「それは、ちゃんと会っておかないとね」
 素速く乗りこんだ車のシートベルトを締めながら、見やすい small map を片手に都内を走る。

「まだ、カーナビ装備してないんだ。まだまだ貧乏だろ?」
「ADなんてほんとに金ないんだぜ? なんて言ってよく笑わせてくれたよね。真咲さん。覚えてる?」
「あの当時の口癖だったな。いまも変わってないよ」
 そう言いながら、少し誇らしそうに狭い車内をぐるっと見回して。最後に助手席にちょ

−56−


こんと座った有希子さんに横目でウインクしながら。
「でも、あの頃の夢がひとつ叶ったよ。この車を買った。自分の居場所をひとつ見つけたよ」
「自分の制作の番組をつくる夢もきっと叶えてね」
「うん。成功したらまっ先に有希子ちゃんのお墓に報告に行くからね」
「よかったね、真咲さん。ほんとうに、わたし真咲さんを好きでよかった」
 なんだかあてられっぱなしの車の中だったけど。弥生はだんだん本当の笑顔を取り戻していっている有希子さんの横顔を見ているうちに、これでよかったんだな。と自然に思えて、こっちまで嬉しくなっちゃったんだ。
 それで……今も病室で寝ている透のことを思い出して、透もはやく元気になって一緒に青山当たりのお洒落な街中でも腕を組んで歩けたらいいな……なんてホントに願ったんだ。

−57−


「ムリプロダクション」の看板が高く聳え立った白い建物の前に到着した。
 見慣れたはずのこの建物が、今日はどこか遠くてよそよそしく感じるの……岡野 有希子さんがぽつんと弥生の耳に囁いた。
「死んじゃったんだもんね……わたし。死んじゃった人はもう要らないんだもんね」
 涙を浮かべながら、行き場のない憤りをぶつけるように有希子さんが初めて怒った。
「でも、
いまわたし……安心できて信用できる人達が周りにいてくれるから、こういう生きていた頃は言えなかった本音が言えるの……ホントに」
「よかったね、有希子さん」
「うん……大分胸がすっきりした」
 白くて細い手で瞼を押さえる有希子さんの頬にすーっと涙がひとしずく落ちて、心が少しずつ浄化されていくのが手に取るように分かった。

−58−


「社長に会う決心はついた?」
「はい」
 はっきりと答える有希子さんの姿に、弥生と真咲さんはふふふっと笑ったんだ。

 社長室まで広いエレベーターで直行して。
 弥生と真咲さんが、優しく後押しをした。
「行って来るね」
 有希子さんが、用意してもらった慣れないピンクのヒールの靴をはいて、堂々と前向きに部屋に入って行った。

「どうぞ」
 衝立越しに、聞き慣れた有希子さんにとってなつかしすぎる社長の声がした。
 白すぎるカーテンがさらさらと揺れていて。
「岡野 有希子」
 歴代のアイドル達が飾られたムリプロの社長室で、地の底から響くような独特の声がそう告げた。

−59−


「はい……わたしです」
 壁時計がカチカチと不気味に音を立てる音が部屋中に響きわたって。
 つばを飲み込むような、音が衝立の向こうからした。
「社長に最後に会いに来ました」

「どうぞ」
 声は再びそう告げた。
 ピンクのヒールに、紅いベージュの混ざったちょっと大人の口紅をつけた有希子さんがコツコツと音を立てて社長の前に姿を現した。
「大人になったな……有希子」
 薄い茶色の背広を着た社長が、射るような眼差しで有希子さんを見た。
「なんでいまさら?」
 立ち上がってブラインドを押し広げながら静かに問いかける社長。
「ほんとうにあいさつにきました」
「……」

−60−


 じっと黙って窓の外を見つめている社長。
 外はレインボーブリッジの赤い光りが遠くに光っていた。

「お前のことは愛情を持って、大物のひとりに育ててやろうと思っていた」
「ありがとうございました。身に余る光栄だったんですけど……」
「飼い猫にひっかかれたような気分だ」
 吐き捨てるように言う社長に。
「でも、わたしだって人間ですから」
「バカな女だ、お前は」
「社長はそう思うかもしれませんね、でもわたしも芸能人であるより先に、ひとりの人間であって、ひとりの女で。ちゃんと恋もしたかったし、もっと自分をちゃんと見つめ直す時間が欲しかったんです」
 社長と有希子さんの目がパッチリ合った。
「どうせ、わたしなんか死んだらもうお払い箱なんでしょう!?」

−61−


 もう有希子さんの勢いは止まらなかった。
「働かせるだけ働かせて、自分好みの女に仕立て上げて可愛い猫でも飼いならしている気分だったんでしょう?」
「可愛いお前の幸せを願わないことはなかった。ちゃんとムリプロ専属のアイドルとしての使命を勤めて、ちゃんと恋愛もして、普通に結婚して子供も生んで、幸せなひとりの女性としての将来を送って欲しかった」
「本当ですか?」
「本当に」
 気づけば、ムリプロの幹部クラスの重役が、ひとり残らず勢揃いしていた。
「有希子ちゃんはムリしてたんだよね。最後の方の笑顔、痛々しかったよ」
「今度生まれ変わったら、もっと自由な人生を生きてね」
 有希子さんの胸には花束が抱えきれないほど渡されて。
 涙で濡れながら、精一杯微笑んでいた。


12  &  最後のデート  &

−62−


「真咲さん最後に2人っきりでデートがしたいな」
「生きている間は、忙しすぎて普通のデートも出来なかったもんな」
 真咲さんが同情したように、有希子さんの髪に手をやった。
「真咲さんの手、あたたかいね……やっぱり生きている人間の体はあたたかくて……涙が出そう」
 泣きじゃくりそうになる有希子さんに。

「夏の暑い時はね、ちょっと涼しいぐらいが体にいいんだよ。ひやっとするぐらいがね。化けて出てきてくれて本当によかったよ」
「なに? その言い方……失礼でしょう?」
 真咲さんのユーモアたっぷりの口調に、有希子さんの顔が綻んだ。
「今から海辺でデートしようか?」

−63−


 真咲さんのひとことで有希子さんと弥生の3人を乗せた車は一番近い海に向かって高速を走らせた。
 時速のメーターは、ゆうに100km/hを越えていて。窓を開けるのが好きな弥生の耳元を風がびゅんびゅん通りすぎていく。
「飛ばしすぎ! 真咲さん」
「もう有希子には時間が残されてないからな。それはもう。飛ばす飛ばす!」

 真咲さんの愛車で、流行りの POP−MUSIC をフルボリュームでかけながら海まで一直線に向かった。
 なつかしい夏のナンバーが掛かる度に、心はさざ波のように揺れて、切ない気持でいっぱいになる。
 夏の夜はなんだか感傷的になっちゃうね。

 夜風はひんやり冷たくてとても気持が良くて、みんなで車を降りて夜道の散歩に出掛

−64−


けた。真咲さんが足下の小石を拾って、腕を水平に滑らせるように、海に向かって投げた。

 小石は、つつつつつ ─────っと5回海面に姿を現しては潜り最後に沈んだ。
「真咲さん、上手だね」
 弥生も真似して小石を投げてみたけど、すぐには上手く投げられなかった。
「ちょっとコツがあるんだ。かしてごらん」
 真咲さんが小石の持ち方を教えてくれた。
「こうやってひねるように持つ」
 真咲さんの教えてくれた通りに先が丸くなった小石を投げると、今度は上手くいった。

「真咲さんは有希子さんのどういうところが好きだったのかな」
「聞いてみて、弥生さん。わたしも一度聞いてみたかったの」
「うん……」

−65−


 空を眺めて、少し伸びかけてきたヒゲを手でさすりながら真咲さんが感慨深そうにおもむろに口を開く。
「やっぱり素直な子だったね。もちろん愛嬌もあったし、礼儀も正しかった。親に可愛がられて大事に育てられたのが見ているだけでよく分かる子だったよ」
「ありがとう。真咲さんに会えてよかった」
 真咲さんの顔が、なんとも言えないやるせない表情になって、じっと有希子さんの瞳を見つめた。
「Kiss していい?」
 こくんと頷く有希子さん。
 愛する2人は見つめ合った後、自然に体を寄せ合って口づけた───。

 そっと目をそらす弥生の前で、
 2人は長い長いあいだ、お互いの愛を確かめ合うように見つめ合っていた。


13  ‡  親子の対面  ‡

−66−


「でね、やっぱり最後にお父さんとお母さんに会っておかないといけないんじゃないかな」
 弥生が最後にアドバイスした。
「自分を生んでくれて17才まで育ててくれた両親に挨拶をしておかないと、成仏させてあげない」
 岡野 有希子さんは、涙を流して答えてくれた。
「親の反対を押し切って、芸能界に入って、こういう結果になって絶対こんな姿になって今さら会いに行ったら怒ると思うの」
「だめだめ、そんなの」
「でも……やっぱり会いたい。有希子を小さい頃から可愛がってくれたお父さんとお母さんに」
「そんなの当然だよね」
 真咲さんが同情してくれた。



No.6に続く!





渚 水帆作




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