☆1983年生まれのみんなの同盟☆

c l o v e r

 Clover0  

花の冠。

小さな両手。

もうすぐ消える、あたしの体。

幸運の四葉のクローバーをください。

あたしが何処にいても、あなたを覚えていられるように。

あなたが何処にいても、あたしを思い出せるように。

 

  Clover3

 

何処からか紗江が花火を見つけてきた。

白いこの街に似合わないそれは、火がついても淋しそうで、すぐに消えてしまう。

線香花火を二人で並べた。体で覆うように、火をつけて、ゆっくりと見守った。

「そろそろ、さよならなんだ。この世界にも、先生にも」

「どうして?」

「先生がいけないの。早く摘んでくれないから」

「紗江?」

花火がゆっくりと消えていく。

それはやがて………

 

Clover1

 

その緑灰色の瞳に、僕は射すくめられ、動けなくなった。

今日という日が終わるために、今日の太陽が犠牲になる。

その瞬間のサヨナラの光が僕達を照らし出す。

教室にいるのは僕達だけ。

あるのは、古ぼけた椅子と机、そして黒板。壁中に貼られた古びたポスター。

だけど原形をとどめているものは少ない。

全てが壊されたここは、見捨てられた旧校舎だ。

誰も来ないここは、僕だけの楽園。僕だけの隠れ家

…………のはずだった。ほんの数瞬前までは。

「あなた、誰?」

目の前の少女がそっと言葉を紡いだ。

僕は、答えなかった。

「この学校の卒業生?あたしもそうなんだよ。もう5年も前の事だけどね」

そういって彼女は少し笑った。

風が割れた窓から吹き込んでくる。秋の風。

見捨てられた校舎の窓は割られ、その破片がきらきらと夕陽に輝いて………とても、綺麗だった。

「窓際の席が好きだった。チョークの粉が光ってね。すごく綺麗なの。暖かくて、明るくて……あたしはいつもこの席に座ってた………」

指先が埃にまみれた机の表面を

ぞる。指と指が重なるたび、埃が風に解けていく。

それは……きらきらひかる。きれいに光る。

汚いものでも、無駄なものでも、残酷なものでも………光はそれら全てを包み込み、全て「きれい」に変えてしまう。

そんなのずるい。僕はそっと呟いた。心の中でだけど。

「それは救いだよ。誰だって生まれてきたからには輝きたいもの。他の人の光を浴びてでもね」

僕が声に出さなくても、この人には僕の思った事がすべてわかっている。

「なんで、わかるの?」

「なにが?」

言ってしまった事は、分からない。

「僕が何を思っているのかって事」

「なんでそんなこと聞くの?あなたの声、あたしには全部聞こえるのに」

あなたには聞こえないの?

遠く、彼女の声が響いた。彼女は口を開いてなかった。空気は震えてなかった。

僕は少しだけ感動して、少しだけ驚いた。

「ほらね?」

紗江は確認するように両手を広げた。細い腕。

僕はその腕に抱かれる自分を想像した。あれ?

「あたしの名前。聞こえた?」

サエ……。口には出さず、心の中でだけ、そっと呟いた。何度も何度も…。

サエ、サエ、サエ……その音だけを繰り返した。はしゃぐ子供。

「不思議だね。声に出さないのに、紗江の思ってることがわかる」

言葉ではなく、魂で人とつながるその快感に、心が揺れた。

「いつでもあなたの声、聞こえてたよ。遠い昔から。ずっと………」

緑灰色の瞳に、ふと、淡い翳りが走る。月が翳る時に似た、淡いブルー。

「呼んでた。待ってたよ。ずっと…」

カーテンが揺れた。たった一つ残っていた花瓶が倒れて、割れた。その破片がきらきらと光った。

紗江の指先が紗江の唇を通り、頬を撫でて、眼球へと伸びた。

その綺麗な緑灰色が怖かった。その気持ちが紗江に伝わり、紗江の蒼はもっと濃くなった。

 

Clover3

 

冷たいストレンジ・ブルー・スカイ。

白いコンクリートの屋上に、新しい世界なんて見えない。

「どうして死のうとする?」

手首から血を流しつづける生徒の腕を掴む。血は止まらない。

僕の指と指の間から溢れ出し、涙のように雨のように体中を濡らす。

「生きたくないから」

泣きつづける水原の瞳から、涙と共に流れ落ちる一枚の葉。

それはゆっくりと雫と共に地面へと届いた。

クローバー?違う。

それは緑色のカラーコンタクトだった。

「お前…コンタクトなんて…」

血が乾く。血が乾く。ゆっくりと空気中に水分が逃げ、パリパリに渇いていく。

「あたしの目ね、小さい頃から変な色してるの。澱んで、濁った灰色。知らなかったでしょ?先生?隠してたほうが生きやすい」

何も言えない。何か言わなければならないのに、何も言えない。僕はいつもそうだ。こうやって、一番大事なものをなくしている。

あの時だって。

「あたしのね、弟が死んだの。血なんて繋がってなかったけど、ただ一人の大切な人。弟は一つだけあたしと約束したの。『生きる』って事。だけど死んじゃった。あたしは、約束とかそういうのが無いと生きていけないんだ。生まれた瞬間からずっと一人だったから」

その瞳が上目遣いに僕を見ている。澱んだ目。濁った灰色。グレイの瞳にエヴァーグリーンのカラーコンタクト。それが紗江の不思議な色の瞳の秘密だ。

右目は灰色で、左目は緑色。そのどちらもが紗江で、そのどちらもが紗江じゃない気がする。

「他者に自己の存在照明をしてもらわないと生きていけないから。あたしがあたしでいられるために、約束が欲しい」

同情。哀れみ。だけど多分それ以上に僕はきっと…。

「なら先生と、約束をしようか?」

冴えが髪を振り乱して僕を見た。ほんの少しの微笑みをたたえて。

「先生と水原は、放課後、この屋上で会おう」

そうすれば生きていられるのか?

紗江はばかにしたような、そのくせ嬉しそうな不思議なその瞳で僕をもう一度見て、

次の瞬間に、気を失った。

 

Clover2

 

とっくに下校時間は過ぎていた。

やっぱり雨が降っている。こんな日に屋上に上るヤツなんていない。

僕達は教室で会う。それが約束だから。湿った感じの冷たい廊下を登り、三個目の教室が約束の場所だ。扉を開ければいつも通り。壁に貼りつき、俯いた紗江がそこにいた。

僕はその手首を見る。

「またなんかされたのか?」

紗江は黙って首を振った。

斜めじゃよくわかんないと僕は言った。

「もうなんもわかんないよ…」

電気は消えていた。紗江は僕に自分の顔を見せたくないからといった。僕は見たい。

「どうでも良くなっちゃったんだ……生きることとかさ、何かすることとか」

遠くで稲光が走った。一瞬だけ紗江の顔が見えた。隠した傷。小さな傷。無数の傷。そして、緑灰色の瞳。一瞬で全てが現れ、そして消える。

僕はゆっくりと紗江に近づき、2メートルぐらい離れた同じ壁に寄りかかった。

「そういうのってさ……」

「わかってるよ。10代の閉塞感ってやつ。鬱んなって、誰か傷つけて、結果的に自分まで壊しちゃう。わかってるよ。掛井君の言いたいこと。知ってるって。なんでも」

僕は黙った。

「けどさ……とまんないんだよね。こういうの。ホント。困ったなぁ……」

包帯を巻いた手首が見えた。紗江はひざを抱くようにして座り、顔をひざに押し付けた。長い髪が揺れて、天使の羽みたいに紗江の顔を隠した。

困ったなぁ……困ったなぁ……困ったなぁ……

繰り返し呟く言葉が、小さな教室を反響して僕に届いた。だんだんとその声は小さくなり、消えていく。哀しくなって、僕は泣いた。

「あたし、四葉のクローバーなんだ。他の人より葉が一枚多いだけで、あたしはうまくこの世界に溶け込めない。四葉は探索され、発見され、摘み取られるために存在しているの。摘み取られて始めて、摘み取った人に幸福を与えられる。それだけがあたしの存在意義なの」

世界からの疎外感。

「だからさ……あたしのこと、摘み取ってくれないかな?掛井君にならシアワセ、あげてもいいから」

 

Clover3

 

約束とかそういうのが無いと生きていけないといったのは、彼女だった。

自分が世界に居られる理由が、自分である人間なんてほとんどいない。

僕は、新任教師で彼女はちょっとした問題児。この学校に通っていた頃の僕に似た奇妙な孤独と寂しさを身にまとった彼女を、僕は放っておけなかった。

いつのまにか僕は彼女に惹かれ、同じ時間を過ごすようになった。

彼女の手首には無数の傷跡がある。リストカッター。それを包帯で隠している。

「最初はね、バーガーショップの店員さんだった。あたしにおつり渡す時にね、制服が少しだけずれて、手首が見えたの。0円のスマイルを浮かべながらね、手首には消えない傷跡があったの。そこでコーヒーを飲みながらね、なんか、そういうことってふつーなんだなって思った。それで『感染』したの。リストカッターにね」

やけに彼女は楽しそうに喋る。

僕は落ち着きを取り戻せないでいた。

「血はあんま出なかった。良く切れなかったから。けどね、体がふっと楽になった。魂が抜けてくみたいな。視界がクスリでも決めたみたいにノイズが走ってね、空気の重さっていうか、空の重さになったの。あたしの体がね」

その体温と感覚だけを残して外形を捨て去る。

「そうしたら大きな蒼い塊が出てきて、あたしに来ちゃだめだよっていうの」

その作業とイメージは……臨死体験だ、立派な。

「先生は、見たことがある?」

鼓動が高鳴る。その声があまりにも似ていたから。体が汗ばんでいた。

「何を?」

「人のタマシイが抜け落ちる瞬間」

無邪気に笑う彼女の顔が一瞬だけ見えて、その姿は柵の向こうへと消えていった。

 

Clover2

 

「屋上、好きなのか?」

冷たい金属の扉を開くと、そこは屋上。僕と紗江は昼休みをここで過ごす。

紗江は既に座って、昼食をとっていた。

「昔ね、好きな人と約束したの。ここで会おうねって…」

軽い嫉妬を覚える。それと同時に、何故か、安堵する。どうして?

「オマエさ、俺以外のヤツの前でもそういう顔してれば良いのに」

紗江の笑顔が揺れている。だけど、その笑顔は突然曇る。

屋上にはどうせ誰も来れない。数ヶ月前にある女生徒が自殺したせいで、ここは立ち入り禁止になっているから。ただ、僕だけはその例外だ。屋上への扉の合鍵を持ってる。

「あたしは変わんないよ。ただ、周りの人が違うだけだよ」

言ってからペットボトルのお茶を飲み干す。そうやってからもう一度笑った。

「……そんなこと無いよ。教室じゃぁ、なんつーかそのー……暗い顔して、笑わない」

「そうかなぁ?」

そんなこと無いのに……。そうなのかなぁ?困ったなぁ……。

首を傾げる。

「掛井君は違わないの?」

「なにが?」

全てを見透かしてしまうような。その瞳。緑灰色の瞳。

「あたしと居る時と、他の子と一緒の時と…」

いつのまにか僕と紗江の顔は近づきすぎていた。手をつき、体を後方へと送り出す。

「痛っ!」

指先の間から血が滲んでいた。指の先に、割れたガラスの破片きらきら。

「違うなら、あたしは嬉しいよ。あたしは掛井君の『特別』でいられる。ねぇ。あたしは掛井君のなんなのかな?」

痛みとガラスが僕を遠い記憶の彼方へと追いやる。

紗江の声が、僕をこの場所に縛り付ける。

目眩がした。ココロが二つに割れちまいそうだ。
 

どこからか、声が届く。それは未来から届いた遠い、約束。

『あたしは、約束とかそういうのが無いと生きていけないんだ。生まれた瞬間からずっと一人だったから』

誰だってそうだよ。

『他者に自己の存在照明をしてもらわないと生きていけないから。あたしがあたしでいられるために、約束が欲しい』

『なら先生と、約束をしようか?』

誰が喋っている?

『先生と水原は、放課後、この屋上で会おう』

そうすれば生きていられるかもしれない。

そっか、大切な人って…。

 

紗江の唇が僕に触れ、遠くからリフレインする鼓動が聞こえてきた。

今を過ごすこの瞬間が、何かに結びついている確証が欲しかった。

本当は全てが繋がっていることに気づいていなかったんだ。

僕も、紗江も。

 

Clover3

 

僕はその光景をスクリーンでも見るような気分で見ていた。

映写機のまわるカタカタという音が響かないだろうか?

現実が全て虚構にならないだろうか?

それは僕の儚い願望。

 

僕は水原紗江の担任として葬儀に参列した。

紗江の家は母子家庭で、兄弟もいない。

母親は僕の前では泣き顔すら見せず、笑いながら雑務をこなしていた。

それは、無理をして笑っている感じじゃなくてただ現実を受け入れられないでいるだけのように見えた。

 

火葬場は無意味な熱で包まれ、棺桶がゆっくりと吸い込まれるように炎の中へ消えていく。

その瞬間が見たくなくて、僕は目を伏せた。

どうせ…………どうせ、あの中に紗江の体は入っていない。

あの日、紗江がこの世界から消えた瞬間から、僕の時間は止まったままだ。

魂の抜け落ちる瞬間なんて僕には見えない。

その光の奥から不意に、声が聞こえた。

紗江の悲鳴。助けてと叫ぶ、紗江の声。

僕の前でだけ、ほんの少しだけ、一瞬だけ見せた、その泣き顔がフラッシュバックした。

いつかの夏の暑さが炎の熱さと重なる。あの時のように熱風が吹いて、木々を揺らす。陽炎と涙が僕の視界を揺るがせる。

あの棺桶の中には一体、何が入っているんだ?

僕は自問する。

体も、何も入っていない。空の棺桶。空気だけ。その中には紗江の遺した言葉も、想いも、何も入っていない。

いっそ僕の中の記憶だけでも、炎と一緒に空に帰してしまえればいいのに。

目の前を通り過ぎる白に、空を見上げる。雪が降ってきた。

それはまるでいなくなった紗江のタマシイのようで、連れて行かないでくれと僕は呟いた。

 

Clover1

 

「紗江はどうしてここにいるの?」

窓際の壁に背中を押し付けて、紗江は風のリズムにあわせるように揺れていた。

僕はその両手の中にいる。背中を暖かくて柔らかい感触が包んで、薄いハーブみたいな匂いが鼻腔をくすぐる。

耳元で紗江が囁いた。

「あたしは四葉のクローバーなの。他の人より葉が一枚多いだけで、あたしはうまくこの世界に溶け込めない。四葉は探索され、発見され、摘み取られるために存在しているの。摘み取られて始めて、摘み取った人に幸福を与えられる。それだけがあたしの存在意義なの」

そう言えばいつか、好きな人のために四葉のクローバーを探したことがある。

あれはいつのことだったのかな?

風が止んだ。紗江の体を揺さぶる心地よいリズムがとまる。

「掛井君……覚えてたんだね」

絡みついた指先がぎゅっと僕の手をつかむ。そして、離れる。

僕は指先を開いた。四葉のクローバー。栞になって悲しそうに揺れる葉。

「紗江?」

あの子の名前、覚えてる?

紗江……そっか、君だったんだ。

紗江の体が震えた。髪が僕の頬にかかる。紗江の全身が僕を包んでいた。

「紗江……泣いてるの?」

紗江は答えない。ただ、一人ぼっちの四葉のクローバーだけが、僕の指先で揺れていた。

 

Clover4 the last thing I can do

 

僕達の住む街は、冬になれば白に閉ざされる。

パートから自転車で数十分の実家。母親は何処かに出かけた。妹も。

僕はアルバムを開いている。教え子の死が与えた傷は思いのほか強かったらしい。

もう一度、僕の生きている意味を考えたかった。

大学の頃の写真。

高校の卒業アルバム。

中学の卒業アルバム。

小学校時代。

一つ古いアルバムを取り出すたびに、ページをめくるたびに、時間を遡る。

やがて、探していた写真を見つける。

四葉のクローバーを挟み込んだ栞と、一枚の写真。

その裏には小さく、『紗江』と刻まれていた。

何故彼女は僕に言わなかった?

知らなかっただけ?

目の前で消えていく彼女に、僕は何をしてやれたのだろう?

後悔と疑問が僕を取り巻き、壊していく。

栞と写真に水滴が落ちる。僕の涙。

滲む向こうにもう一枚の写真。紗江だ。

僕の隣で微笑む紗江。幸せそうなその写真は、結婚式のものだ。

日付は、2年後の今日。

消えた時のようにまた、彼女は戻ってくるのだろうか?

 

だけど、僕は知っていた。

それは遠い世界の出来事。

ほんの少しずれてしまった、紗江を取り落とした僕には、もう希望なんて残っていない。

だけどきっと、僕がこれから生きていく人生の中で………。

   
太陽が落ちて、雪が降り始めた。

僕は紗江との最期の思い出を埋めるように、残った線香花火に火をつけた。

灰皿に火花が落ちていく。

窓の外、降り始めた雪は白く、切なく。まるで空へと消え去っていく魂のようで……

僕の手の先ではじける花火は、その送り火のようだった。

やがて涙がその炎を消し去るまで、僕はずっとみつめていた。

 

 

by.【No.47】白峰冬夜  ('00,9/10 up)