條 野 採 菊のぺーじ 自家メモ版



ume_yamato2.jpg
 やまと新聞明治20年8月20日号 花井お梅




■ 條野採菊といふ人 ■





幕末にあっては人情本の作家として、幕府瓦解後・明治初・中期には、新聞経営者・編集者として、江戸末期から言論・出版界を生きた人である。しかも浮沈激しい明治期の新聞界にあって、2つの著名な新聞社の創立と経営、編集に携わってきた。そこに、採菊翁の何かを感ぜずにはおられない。條野採菊に関する伝記や研究も十分ではない中にあって、これはささやかな取組みです。

hzichmyw.gif 江戸末期の戯作者として

天保3(1832)年9月1日、江戸日本橋長谷川町の地本問屋に生まれた。17・8才頃から、5世川柳の門に入る。本郷の呉服問屋「伊豆倉」の番頭となり、老中阿部伊勢守にその才能を評価され、その庇護の下に戯作の世界に入った。為永春水以後の幕末戯作世界において、もっとも艶麗な人情本作家であるといわれている。

文久末から元治元年にかけて、三題噺を自演する粋狂連を組織して、仮名垣魯文、瀬川如皐(じょこう)、河竹新七(後の黙阿弥)などとともに創作活動に従事した。また、春風亭柳枝、柳亭左楽、三遊亭円朝らの落語家の技芸の向上に寄与した。

慶応4年・明治元年 福地桜痴とともに『江湖新聞』出すも、5月に廃刊(新政府による、桜痴投獄、発行不許可のため)

明治5年、教部省発令の「三条の教憲」に対して、仮名垣魯文とともに『著作道書キ上ゲ』の答申書を出して、旧来の戯作からの転向を誓った。

條野伝平は、浅草第六天神社の神主を務めていた鏑木氏の娘、婦美(ふみ)と結婚した。婦美は嘉永5(1852)年生まれ、第六天神社は、明治5年に改名し、現在の、浅草、榊神社である。婦美の母方の実家は、鉄砲洲稲荷神社の神官であった甫喜山氏の出であるという。(八柳サエ・鏑木清方と金沢八景(20001.12、有隣堂)22頁による)。伝平は、当時としては晩婚の部類に入ろう。

伝平と婦美の間の子が、のちの鏑木清方であるが、母方の姓を引き継ぐ背景には、このような事情(とくに神社家系)もあったものと思われる。

なお、東京日日新聞の創生期の頃、條野・西田のほか、甫喜山景雄の名前があるが、この知己関係で婚姻したか、あるいは妻方の親戚であった甫喜山景雄を参加させたものと見られる。岸田吟香が入社(明治6年)する前である。

hzichmyw.gif 東京日日新聞の設立と編集

 貸本屋辻伝右衛門方の番頭であった西田菫坡(本名・伝助、1838〜1910)や浮世絵師の落合芳幾(通称・幾次郎、1833〜1904)らとともに東京日日新聞社を創立した。『東京日日新聞』 は、 東京で発行された最初の日刊紙で、 明治5年3月29日(旧暦2月11日 ) に、当時浅草茅町の採菊の自宅にあった日報社から創刊された。

東京日日新聞は、総合新聞を目指しているようで、大蔵省へ提出の出版願では、
    「御布告を始、御各省之御転任、御館御移住等之事、日々米穀及物価之相場、開店売薬等之報告、商事之新報、農事之評論、外国新聞之訳挙、新技之発明、不意之凶変、其余珍説奇話、流行之俗謡ニ至候迄」
と述べている。創刊号は美濃紙版一紙に片面二色刷で、政府の布告や公文書を掲載する「官書公報」と一般の記事の「江湖叢談」の二つの欄からなっていた。

明治6年には岸田吟香が入社して、 平易な口語体の雑報や台湾遠征記がうけた。明治7年5月には、銀座2丁目3番地表通り東側に進出した。同年暮には、征韓論争で外務省を去った福地源一郎(桜痴)が入社して、紙面を一新し、 社説欄を設けた。主筆兼社長が桜痴、編集長が岸田吟香という組合せになる。桜痴の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。

明治10(1877)年1月、尾張町1丁目1番地 恵比寿屋跡に移転した(現・銀座5丁目西側で、ニューメルサがあるところ)。

 また、東京絵入新聞にも関係した。須藤南翠、饗庭篁村らとともに、明治20年代の新聞社派の劇作家である。福地桜痴から材料を得て翻案小説も執筆し、歌舞伎座の創設にも協力した。

hzichmyw.gif やまと新聞の経営と編集

明治17年10月には「警察新報」を創刊したが、これを明治19年10月には「やまと新聞」と改めて、主宰した。

三遊亭円朝の講談を、大蘇芳年の絵入で連載をはじめたが、これがたいへんな人気であったという。講談のほかに、採菊山人が人情小説を書いた。これも人気であった。これらによって、他の小新聞が読者を「やまと」に奪われ、「都新聞」が出るまでは東京新聞界の全盛を極めていたと言う。「やまと」の講談、「東京日日」の歴史小説(塚原渋柿園)、「読売」の芸術小説、「都」の探偵小説(黒岩涙香)という評判であった。(千葉亀雄「新聞小説研究」440頁)


1893・明治26年5月21日 両国中村楼にて還暦祝賀会
1902・明治35年1月24日 心臓衰弱のため日暮里の自宅にて没




條 野 採 菊のぺーじ ホームへ

(c)2001 All Rights Reserved. Waifu Seijyuro.