新ニシン

Jun.3.99

新ニシン【蘭:nieuwe haring】


今日、スーパーの前を通りかかったら、新ニシンの屋台が出ていた。

オランダは、ヨーロッパでは、英国の次に、料理のまずい国だ。

料理は、芸術性の微塵もなく、空腹を満たすための栄養補給としか、捉えられていない上に、プロテスタンティズムが、粗食を良しとする、文化背景を涵養してきた経緯もある。

これについては、別の項で触れたので繰り返し、言及するのは、避ける。

しかし、この国にも、神は公平に、ヨーロッパで一番うまいものを、毎年与えてくれる。

白アスパラガス、イチゴ、トマト、そして、生ニシンである。

例外的に、チーズという加工食品は、やはりヨーロッパ一うまい。

トマトを除くと、他の三つは、5月から6月に集中する。

この時期は、オランダにおいて、美食文化が開花する、例外的な時期となる。

味は落ちるが、白アスパラは、ドイツでも同様にとれるし、イチゴ、トマトもスペインあたりのは、確かに美味しい。

しかし、新ニシンの生食いは、この国以外では、入手困難である。


私の知る限り、ヨーロッパで、オランダ人は、珍しく、魚を生で食する国民と言える。

イタリアや、スペイン、フランスのように、魚介類の豊富で美味しい国に行っても、生で、魚を食べる文化には、いまだにお目にかかっていない。


生ニシンは、乱獲を防ぐ為、禁猟時期があり、解禁になると、どっと、国じゅうに出回る。

もちろん、冷凍ものは、一年中出回っているので、いつでも食べる事は出来るが、やはり、取れたてのをそのまま、食べるのが一番だ。

一応、ベアトリクス女王が、初ニシンを試食するまでは、下々の庶民は、口にしてはいけない事には、なっているが、この時期になると、「掟やぶり」の秘密ニシンパーティーが、横行する。


オランダ人の、この生ニシンに対する執着は、すごいし、彼等の誇りである。

司馬遼太郎の、「街道をゆく」シリーズの、"オランダ紀行"にも、このニシンに関する逸話が、書いてある。

確かライデンの市民戦争(スペインからの、独立戦争に市民軍が勝利した、記念的な戦い)で、スペイン軍の、包囲を解かれたライデンの市民は、餓死者を数千人出した後の、極限状況で、援軍が差し入れた食糧を、むさぶい食った。

この時の様子が、市庁舎の中にある。(先週、見てきました)

このなかに、すでに、ニシンの生食いの光景は、描かれている。


ここで、正統派の、オランダ生ニシンの、食べ方を伝授しよう。

アムステルダムのホテルオークラに行くと、「オランダ生ニシン」というメニューがある。

一口サイズに、切ったニシンが二本、皿の上に置いてあるが、これは、邪道のなかの邪道だ。

生ニシンは、レストランで食べるものでなく、家庭の食卓か、屋台で食べるに限る。

この時期になると、人が集まる所に、必ず屋台が立つ。

かわいいオネーサンが、

レッカー レッカー ニウェ ハーリング(美味しい、美味しい新ニシンよー)」

と呼び込みをしている。

通常は、ニシン二匹が一人前で、せいぜい5ギルダー(300円相当)です。

一応、ここですぐ飛びつかず、通ぶって、黙って、ニシンを覗き込んで見定めるのが、礼儀。一呼吸置いてから、おもむろに

エン ポーツィー アッシェブリーフト(一人前、下さいな)」と注文する。

メーネーメン オフ ヒアロプ エーテン(持ち帰り?ここで?)」と聞かれたら、通は、すかさず

ヒアロプ(これは、ロッテルダムの方言だが)」と、突然元気よく答える。

すると、オネーサンは、ナイフで、すでに頭を落としてあるニシンをさばいて、はらわたを抜いて、カワを削ぎ、シッポだけ残した状態に、おろしてくれる。

その動作を続けながら、次ぎのオネーサンの、発する質問は、

ウイチェ ダバイ?(玉ねぎは?)」と、必ず続く。

何もつけずに、そのままの人もいるが、一般的なのは、玉ねぎの微塵切りをまぶして食べる。

私も、玉ねぎつきのが好きなので、ここは

ヤーヴェル トゥーリック!(おぅ、あたりきよぉ!)」と答える。

このあたりで、漸く財布を取り出して、

フーフェール?(いくら?)」と聞く。最初にいきなり、値段を聞くのは、ニシンに対して失礼である。

フェイフ フルデン(5ギルダー)」

で、5ギルダー硬貨を渡すと、皿に乗せた、生ニシンに、玉ねぎ微塵切りをまぶして、

エートゥ スマークリック(どうぞ、召し上がれ)」と、渡してくれるので

ダンキュ ヴェル、ズィート レッカー アイト(ありがと、うまそーだねぇ)」と言って受け取る。

ここで、フォークなんぞを、所望したら、台無しである。

途端に、オネーサンの態度が、変って「けっ、この田舎者め」っと軽蔑され、もう口を、きいてくれないだろう。

正しい食べ方は、指で、シッポをつまみ、皿の上で、表裏左右に、ニシンを、玉ねぎの上を泳ぐように、滑らせてから、そのまま腕を上に伸ばして、ニシンをブラーーンと、宙でもう一度、泳がせる。

この"泳ぎ"の儀式が、大切なんである。

そして、間髪を入れず、大空にむかって、口を「あーん」と大きく開け、垂直に、ニシン様を、口腔に落とし込むようにして、噛み切り、口をもぐもぐさせながら

ンー、エヒト レッカー(うむ、こりゃうまいぜ)」とつぶやいて、頂戴するのである。

ここまでの、ステップを間違えずに、終了したら、店のオネーサンは、合格よ、と微笑んでくれるし、となりで食べている、オッサンも、「こやつ、出来るな」と目礼してくれるだろう

オフィス街で、エレガントにスーツを着こなした、美女も、メルセデスベンツで、乗り付けた、会社重役風の紳士も、この食べ方を忠実に、こなしているの。

そんな時、この国の人の、「ニシン」に対する、愛着を確認できると同時に、日本人としては、生魚を食べる文化を持った国民同志の絆を、感じるのであります。

江戸時代に、長崎の出島に来ていたオランダ人達は、漁民からニシンを買っては、大空に口をあけて、「あーーん」と食べていたんでしょうね。