新ニシン【蘭:nieuwe haring】
今日、スーパーの前を通りかかったら、新ニシンの屋台が出ていた。
オランダは、ヨーロッパでは、英国の次に、料理のまずい国だ。
料理は、芸術性の微塵もなく、空腹を満たすための栄養補給としか、捉えられていない上に、プロテスタンティズムが、粗食を良しとする、文化背景を涵養してきた経緯もある。
これについては、別の項で触れたので繰り返し、言及するのは、避ける。
しかし、この国にも、神は公平に、ヨーロッパで一番うまいものを、毎年与えてくれる。
白アスパラガス、イチゴ、トマト、そして、生ニシンである。
例外的に、チーズという加工食品は、やはりヨーロッパ一うまい。
トマトを除くと、他の三つは、5月から6月に集中する。
この時期は、オランダにおいて、美食文化が開花する、例外的な時期となる。
味は落ちるが、白アスパラは、ドイツでも同様にとれるし、イチゴ、トマトもスペインあたりのは、確かに美味しい。
しかし、新ニシンの生食いは、この国以外では、入手困難である。
イタリアや、スペイン、フランスのように、魚介類の豊富で美味しい国に行っても、生で、魚を食べる文化には、いまだにお目にかかっていない。
もちろん、冷凍ものは、一年中出回っているので、いつでも食べる事は出来るが、やはり、取れたてのをそのまま、食べるのが一番だ。
一応、ベアトリクス女王が、初ニシンを試食するまでは、下々の庶民は、口にしてはいけない事には、なっているが、この時期になると、「掟やぶり」の秘密ニシンパーティーが、横行する。
司馬遼太郎の、「街道をゆく」シリーズの、"オランダ紀行"にも、このニシンに関する逸話が、書いてある。
確かライデンの市民戦争(スペインからの、独立戦争に市民軍が勝利した、記念的な戦い)で、スペイン軍の、包囲を解かれたライデンの市民は、餓死者を数千人出した後の、極限状況で、援軍が差し入れた食糧を、むさぶい食った。
この時の様子が、市庁舎の中にある。(先週、見てきました)
このなかに、すでに、ニシンの生食いの光景は、描かれている。
アムステルダムのホテルオークラに行くと、「オランダ生ニシン」というメニューがある。
一口サイズに、切ったニシンが二本、皿の上に置いてあるが、これは、邪道のなかの邪道だ。
生ニシンは、レストランで食べるものでなく、家庭の食卓か、屋台で食べるに限る。
この時期になると、人が集まる所に、必ず屋台が立つ。
かわいいオネーサンが、
「レッカー レッカー ニウェ ハーリング(美味しい、美味しい新ニシンよー)」
と呼び込みをしている。
通常は、ニシン二匹が一人前で、せいぜい5ギルダー(300円相当)です。
一応、ここですぐ飛びつかず、通ぶって、黙って、ニシンを覗き込んで見定めるのが、礼儀。一呼吸置いてから、おもむろに
「エン ポーツィー アッシェブリーフト(一人前、下さいな)」と注文する。
「メーネーメン オフ ヒアロプ エーテン(持ち帰り?ここで?)」と聞かれたら、通は、すかさず
「ヒアロプ(これは、ロッテルダムの方言だが)」と、突然元気よく答える。
すると、オネーサンは、ナイフで、すでに頭を落としてあるニシンをさばいて、はらわたを抜いて、カワを削ぎ、シッポだけ残した状態に、おろしてくれる。
その動作を続けながら、次ぎのオネーサンの、発する質問は、
「ウイチェ ダバイ?(玉ねぎは?)」と、必ず続く。
何もつけずに、そのままの人もいるが、一般的なのは、玉ねぎの微塵切りをまぶして食べる。
私も、玉ねぎつきのが好きなので、ここは
「ヤーヴェル トゥーリック!(おぅ、あたりきよぉ!)」と答える。
このあたりで、漸く財布を取り出して、
「フーフェール?(いくら?)」と聞く。最初にいきなり、値段を聞くのは、ニシンに対して失礼である。
「フェイフ フルデン(5ギルダー)」
で、5ギルダー硬貨を渡すと、皿に乗せた、生ニシンに、玉ねぎ微塵切りをまぶして、
「エートゥ スマークリック(どうぞ、召し上がれ)」と、渡してくれるので
「ダンキュ ヴェル、ズィート レッカー アイト(ありがと、うまそーだねぇ)」と言って受け取る。
ここで、フォークなんぞを、所望したら、台無しである。
途端に、オネーサンの態度が、変って「けっ、この田舎者め」っと軽蔑され、もう口を、きいてくれないだろう。
正しい食べ方は、指で、シッポをつまみ、皿の上で、表裏左右に、ニシンを、玉ねぎの上を泳ぐように、滑らせてから、そのまま腕を上に伸ばして、ニシンをブラーーンと、宙でもう一度、泳がせる。
この"泳ぎ"の儀式が、大切なんである。
そして、間髪を入れず、大空にむかって、口を「あーん」と大きく開け、垂直に、ニシン様を、口腔に落とし込むようにして、噛み切り、口をもぐもぐさせながら
「ンー、エヒト レッカー(うむ、こりゃうまいぜ)」とつぶやいて、頂戴するのである。
ここまでの、ステップを間違えずに、終了したら、店のオネーサンは、合格よ、と微笑んでくれるし、となりで食べている、オッサンも、「こやつ、出来るな」と目礼してくれるだろう
オフィス街で、エレガントにスーツを着こなした、美女も、メルセデスベンツで、乗り付けた、会社重役風の紳士も、この食べ方を忠実に、こなしているの。
そんな時、この国の人の、「ニシン」に対する、愛着を確認できると同時に、日本人としては、生魚を食べる文化を持った国民同志の絆を、感じるのであります。
江戸時代に、長崎の出島に来ていたオランダ人達は、漁民からニシンを買っては、大空に口をあけて、「あーーん」と食べていたんでしょうね。