読書【lezen(蘭語)lesen(ぷろしあ語)reading(えげれす語)】
私は、思えば、かなり早熟の読書、文学少年であった。
いまでも、読書は好きな方であります。
小学校の頃、級友が、少年ジャンプなんかに熱中しているときに、(今思えば随分ませておりますが)、新潮文庫や、岩波文庫なんかを愛読していた。
いまでも、よく覚えているが、小学生の頃、5百円の自分のお小遣いで、最初に買った文庫本が、北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」だった。
その下りで、オランダの、スケベニンゲンという場所に、停泊し、船員達がその名を聞いて笑い転げるという、文章があったように思う。
実際には、Scheveningenは、シェーフェニヘンという感じの発音になるのだが、まさか、私自身が、この異国の港町のすぐ側に、居住するであろうなどとは、思いもしなかった。
因果とは、誠に奇なるものと、言う外にない。
その頃、井上靖の、長編小説「夏草冬涛」を読んで、旧制中学の、バンカラ風の生活に憧れて、わざわざ公立中学校に行かず、私立の男子校に中学校から志願して通った事を考えれば、たかが書物といえ、人生の航路にすくなからず、指針を与えるものである。
すくなくとも、私の人生は、読書の影響をかなり受けて動いている。
安穏とした、人生から、はずれたくなければ、本を読まぬこと。
なまじ、活字に触れると、邪念が湧く(ミュンヘンのカオリさん、読んでいるか?)。
私は、自分の人生を決めるにおいて、"to be or not to be"の、迷いが出たとき、一貫して、航路を変える方向を優先して、行動をしてきた。
行動した上で、失敗してから自分を責めた方が、行動しないで、後悔するよりも、ずっと楽だから。
ゲーテと、トーマスマンを読んでしまったが為に、私はドイツに流れ着いた。
そのあと、オランダに漂着したのは、読書には関係なく、職業上の成り行きであったが、本当に、書物は人生を左右しかねない。
こやつに、脅されていたので、これを読むときには、心して読まねばとおもいつづけて、もう15年は経ってしまった。
先般、日本に帰国したとき、文春文庫から、新装第一版というのが、書店に並んでいるのを見て、全8巻を、買い揃えて帰ってきた。
しかし、なんとなく、読み始めるのが躊躇われて、ずっとホコリを被っていた。
読書によって、翻弄されてきた、我が人生を省みて、なんとなく、自分にとって、アブナイ禁書ではないかと、思い続けて、手を付けられなかったのだった。
ふとした弾みで、暇をもてあました時に、第一巻をとうとうひらいてしまった。
確かに、これは面白い、全8巻の、第7巻まで読んで、いよいよ、最終巻を残すのみだ。
これを読んでいるうちに、己に、影響を与えつつあるのは、確かだが、「人生観が変わるか」は、読破するまでは、まだなんともいえない。
これを再び読み返したら、ただでさえ、波瀾万丈気味の人生(なんといっても、我が人生ですでに13回も引っ越しをしていると言うと、お分かりいただけるだろうか?)に、また波風を立てそうで恐いのである。
今となっては、それなりに家庭を持った身だけに、あまり無茶も出来ない。
この二冊は、今読んではいけないと、自分に課している。最初に読んだ時は、まだ若すぎて、大丈夫だったが、今読むと、危険だ。
いや、今でもまだ読むには、早すぎる。
二冊とも、私は中学生の時に読んだ。大学生の時に、もう一度読んだ。
どちらも、社会の第一線から、退いて、隠居した心境で、人間社会などという、つまらないものに、目をむけずに、自然と対話する生活を綴った本だ。
一冊は、徳富蘆花の、随筆「自然と人生」-1900年刊
もう一冊の究極の、本は、ソローの、「Walden, or Life in the Woods-邦題は、森の生活、1854年刊」
「自然と人生」は、学校の教材で、一部を読んだのがきっかけで、文庫本を買った。
「森の生活」は、父が学生時代に、大学の英語の授業の教材に使ったらしく、たまたま家の本棚にあったものを、紐解いた。
これを読んだら、私は、仕事をやめて、山奥に一人蟄居してしまうかもしれない。
だから、自制している。時期を待って、また読んでみたいと思う。