ヴィレム一世【Willem I van Oranje vogelvrij】
Willem I van Oranjeという、オランダの歴史上の重要人物がいる。
オランダ人なら、学校で習うので誰でも知っている、建国の父であるが、一般にはそれほど馴染みはない。
英語表記では、オレンジ公ウィリアムスとか、William the silentとか、呼ばれている人である。
確か、私の高校時代の山川出版の、世界史の教科書には、オレンジ公ウィリアムスという名前で、登場していたと記憶している。
私の住む街から、車で10分程で、デルフトという、古都に着く。
その街の、英雄として、今でもあちこちに、彼を記念するものが、残されている。
16世紀には、ルターの始めた宗教改革が、ヨーロッパ各地に、飛び火し、新教勢力が、カトリック勢力と、対立し戦乱の世を迎える。
オランダには、スイスで始まったカルバン派が、影響力を持ちはじめ、カトリック国スペインから、独立して、新教王国をつくろうという、気運が高まっていた。
この戦乱は、長く続き、1568年から1648年までの戦乱を、後に80年戦争と呼ぶようになった。
最初に、ライデン市の、市民軍が勝利し、スペインからの独立の火付け役になり、次第に、独立戦争に繋がるのだが、この独立軍を率いる中心人物になっていたのが、ドイツ生まれの、オラニェ(Oranje)家の、Willem T世だった。
これが、現在のオランダ王室の礎となり、ドイツ諸侯や、ロシアの皇族とも姻戚関係を経て、ベアトリクス女王まで繋がる。
サッカーの、W杯で、オランダチームは、ナショナルカラーの、オレンジ色のユニフォームで、活躍したが、そのOranjeというのは、蘭語でオレンジの事である。
蘭学者たる私の、素人歴史研究家のライフワークとして、取り組んでいるのが、このオランダ王国の成立と、東インド会社の歴史です。
当時、オランダの独立を快く思わなかった、宗主国スペインの、フェリペ二世は、このWillem 一世を危険人物として、その首に、懸賞金250,000クラウンをかけて、暗殺を奨励しました。
そのお陰で、1580年から、彼は、行く先々で、暗殺者に何度も命を狙われ、現在は、ベルギー領になっている、アントワープの狙撃では、瀕死の重傷を負うはめになり、その後の、肖像画では、首筋にはっきりと、傷痕が残っています。
それだけ、危険な目に会ったものの、このWillem一世、市民の中にも、気軽に顔を出し、国の独立の為に奔走していたようです。
当時、Oranje一族は、DelftのPrinsenhofという王宮に、居住していた。
大庭園を備えた、重警備の宮殿に住んでいた、他国の王侯貴族に比べれば、質素な町中の、普通の建物であることは、現在ものこる、その建物を見れば分かります。
1584年に、彼は、とうとう暗殺されます。
フランスから流れてきた、刺客Balthazar Gerardという狂信的カトリック信者が、その暗殺に成功するのですが、その詳しい資料が、博物館に残っています。
Gerardという男は、フランスから亡命してきた、ユグノー(新教徒)を装って、Willem一世に、謁見と保護を求めました。
しかし、身分を証明する書類も何も持っていなかったので、即座には受理されず、Willem一世は、貧しい格好で、金も持っていない Gerardに金を与え、衣服を新調し、フランスから、身分証明書を取り寄せるための、いくばくかの路銀も持たせてやりました。
この恩が、仇になるのですが、Gerardは、その金で服を買わず、ピストル二挺を、購入しました。
皮肉な事に、Willem一世が、恵んだ金が、自身を暗殺するピストル代に化けてしまった。
勿論、そんな事を知らぬWIllem一世は、暗殺される当日まで、普通の暮しを続けていました。
7月10日の決行日の夕刻に、Gerardは、再びPrinsenhofに赴き、謁見を申し出た。
丁度、夕食が始まる時間だったので、皇太子妃が、応対し(妃が、直接応対するあたりが、いかにも市民的な王室だったようです)、夕食後にもう一度出直すように、Gerardに伝えます。
Willem一世が、いることを確認できたGerardは、市内の下宿に、ピストル二挺を取りに戻り、夕食の終わる頃を見計らって、再び、王宮内に侵入しました。
ダイニングルームは、中二階にあり、そこへ至る、10段程の、短い階段が暗殺現場になります。
実際私も、その場所に立って検証してみましたが、降りる左側は壁になっていて、逃げ場がない上に、右側には手すりもなく、柱が一本立っていて、身を隠すくらいの死角が、あります。
この現場の、想像図がインターネットにありましたので、参考にしてください。
夕食を済ませて、階段を降りてきた、Willem一世を、Gerardは狙い撃ちにし、銃弾二発が貫通し、公はその場に倒れました。
朦朧とした状態で、公は、"mijn god, mijn god, heb medelijden met mij en dit arme volk"(神よ、神よ、この私と気の毒な民衆の為に、ご慈悲を施して下さい)とつぶやいて、そのまま息を引き取ったとされています。
暗殺に使った、ピストルを手に握らせたうえで、両手首を切断し、磔にされ、腹を刀で引き裂かれ、心臓を抉り出したというから、壮絶な処刑だったようです。
その場所にも、実際に立ってみましたが、いまではHugo Grotiusの銅像が立っているあたりです。
歴史というのは、本で読むのも勿論、結構ですが、やはり実際にその地に行ってみて 自分の目で見てみると、その時の情景が脳裏に浮かぶような実感が湧きます。
この、Prinsenhof博物館の、暗殺現場には、いまでも、二発の弾痕が、階段脇にそのまま、保存されていて、一発は、深く、もう一発は浅くいずれも、5cmぐらいの間隔でえぐられていて、至近距離から撃った様子を、見ることが出来ます。