子どもの頃、年が明けて、回りの大人達が、一様に、「おめでとうございます」と挨拶するのを見て、奇妙に思ったことがある。
私が育った、新興住宅地では、年始の挨拶回りなんてものは、特にないのだが、いつも正月は、父の田舎(長野県の、とある鄙びた山里)で過ごしたので、近所の人達や親戚同志がお互いに、「おめでとうございます」を連発して、お互いの庭先を回っていた。
いま思うと、都会では見られなくなった、非常にいい慣習だと思う。
そもそも、そんな田舎の方だったら、近所はみんな、顔見知りばかりだから、ごくごく当たり前にそういう挨拶をする、習慣がいまでも、残っているのだと思う。
都会で生まれ育った、私には、知らないおじさんや、おばさんが、ごく自然に話し掛けてきて、「おめぇは、どこの子だ?」と聞かれるのが、不思議だった。
田舎では、村中に同じ苗字がいっぱいいるので、苗字を言っても、何の役にも立たず、父親の名前を言うと、ようやく理解してもらえた。
最近は、あまり使わなくなったが、私が子どもの頃は、「僕は何歳?」年齢を聞かれると、「満x歳、かぞえでx歳」という答えかたをした。
誕生日を祝う風習は、ごくごく最近に、アメリカ文化から、輸入されたものだと思う。
昔は、いちいち、誕生祝なんてやらずに、正月に、みんなで一歳ずつ、年をとったそうだ。
だから、「お歳とり」らしい。
みんな、正月を区切りに、歳をとっていく。合理的な考え方だ。
正月になれば、一つ老いが重なるはずだのに、そこにイデアが設けられて、年があらたまると共に、逆に人も自然もあらたまると言うのである。
もっとも、この場合の「若い」というのは、年齢よりも、「元気になって」という意味らしく、鹿児島や沖縄には、この種の新年の挨拶が残っているそうである。