ドイツとオランダの関係

この文章は、ドイツからオランダに私が移ってきて日が浅い1996年5月に記したものです。今年も5月になり、妻がドイツの実家に行くと言い出してこの事を思い出しました。



昨日、ちょっと気が付いたことがありました。これは、日本人には欧州在住の人でもなかなか 気づかない微妙なものです。

家内がいない先週、わたしはチャットに入り浸りつつも、暇をみては 家の近所を散歩して回りました。あるときは徒歩で、あるときは 自転車で。

土曜日に 近所の家が軒並みオランダ国旗を掲揚しているのに気が付きました。よくみると、どの家にも 旗を立てるための竿がちゃんとあるんですね。

日本でそうゆうこと、やるのはもう田舎の方だけでしょう。ドイツに住んでいた時は 国旗を立てる風習は やはりありませんでした。

ドイツ人は過去のナチス時代の反省から、それを連想させる、国旗の掲揚とか制服の制定には相当抵抗があるようです。

わたしが8年前に日本からドイツにやってきたときに、親ドイツ感情をあらわそうとして、窓にドイツ国旗と 日の丸をぶら下げておきました。

よく国際会議なんかで テーブルにありますでしょ、そうゆうのが。ところが、管理人から ある日抗議がきました、旗を外せと。

ドイツ国旗と日の丸が並んでいるのは、非常にまずいからやめてくれとゆう理由です。これにイタリア国旗がそろったら大変な問題になると。

なるほど、そうゆう受け止め方があるのか。この時は自分の気配りのなさを反省してすぐ旗をおろしました。


さて、オランダの話にもどります。土曜日に近所の家に赤白青のオランダ国旗が軒並みならんでいました。はて、なんだろうと思いカレンダーをみると5月4日と5日は、たまたま週末ですが休日のマークがついていました。でも何の休日かは 分からなかった。

もう一度外に出て、よく見ると その国旗は何処も 半旗掲揚になっています。

その理由を近所の人に たずねるのも、なんとなく気がひけて、新聞を買いに行きました。

わたしのオランダ語は、まだ不十分ながらも、辞書を引けば新聞ぐらいは読めます。

その結果わかったことが、5月4日は第2次大戦の戦没者追悼記念日で、5月5日はナチスドイツからの解放記念日でした。

ロッテルダムの街を訪れる人は皆、その近代的な町並みを意外に感じます。歴史的な建造物がなにもなく、モダンなビルしかありません。

その理由は、ドイツ軍の空爆で戦前の建造物は徹底的に破壊されて何ものこらなかったからです。

ヨーロッパではそれでも、元の設計図をたよりに元の街を再び復元するのが普通ですが、ロッテルダムの人たちは敢えて復元をせずに新しい街をつくったそうです。

その経緯があり、ロッテルダム地区はいまだに 反ドイツ感情は高いのです。オランダ人の殆どはドイツ語を流暢に話しますが、ここではドイツ語を話すのはタブーになっています。

私が昨年ここに移ってきたとき、みんなドイツ語がわかるので、最初は ドイツ語で通していました。

しかし、ある時年配の同僚に言われました、「おれの両親は戦時中ドイツ軍に殺された、ドイツ語で話すのは 止めてくれないか。オランダ語がまだ出来ないのは当然だからニュートラルな英語で話してくれ」とゆうことでした。

この時も、再び気配りのなさを 反省し、恐縮する事しきり。それ以後オフィスでドイツ語を口にした事は一度もありません。


また話はもどって、先週1週間 家内はずっとドイツの実家に帰っていました。

ちょっと実家ですませたい用があるからとゆう理由だったけど、やっと分かりました彼女がドイツにいった訳が。ドイツ人の彼女には、この時期にロッテルダムにいることが肩身がせまく、苦痛だったようです。

同時に、戦時中に日本軍がインドネシアを占領した時にオランダ人の捕虜を虐待し、オランダ人を慰安婦にした事も思い出し 久しぶりに歴史書を紐解いてみました。

再び自分の立場を省みて、その事をまったく意識せずにずっとオランダに住んでいた事を申し訳なく思った次第です。

戦後50年経っても、ヨーロッパ人の間には こうした意識が根づいている事を思うと、

アジアにおける日本人の位置づけも同じものがあるのだろうなと感じております。

今回は固い話になってしもうた。たまにはこんな事もかんがえております。

1996年5月


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