アンネの日記

Jun.10.99

アンネの日記【Dagboek Anne Frank】


世に、ロングセラー、ベストセラーと呼ばれる書籍は、数々あれど、この本ほど書いた本人が知る由もなく、世界中に翻訳出版され、読まれた本は珍しいだろう。

ごく普通の少女が、悲惨な運命を辿り命を落とし、残された日記が語り掛ける、この本は、戦争、人種差別の空しさと残酷さを語り継ぐ本。

子供達が大きくなったら、是非読ませたい本の一つです。


今日付けの、オランダの経済新聞"het financielle dagblad"に、アンネの友人でホロコーストを生き残った、幼なじみのHanna Pick-Goslarさんの、インタヴュー記事が載っていた。

もし、アンネが生きていたならば、今週の土曜日で70歳の誕生日になるそうだ。

私が、アムステルダムに初めて来た時に、最初に目指したのが、「アンネフランクの家」だった。

いまでは、観光名所の一つとなり、訪れる人は後を絶たず、行列して待つほどだ。


読んだことのない方の為に、簡単に説明すると、

ドイツのフランクフルトで育った、ユダヤ人家族の次女アンネは、誕生日に贈られた、日記帳に日記を綴りはじめた。

やがて、ナチスが政権をとり、ユダヤ人迫害が始まると、一家揃って、オランダのアムステルダムに避難したが、ドイツがオランダを占領するに至り、迫害から逃れられなくなり、1942年の7月に、アムステルダムのprinsengrachtにある、倉庫の中に隠れ家を作り、他のユダヤ人家族達と一緒に隠れ住む事になる。

彼女が、日記をつけはじめて、二ヶ月目の事だった。

そこで外界から遮断された状態で、日記を"Kitty"と名づけ、その空想のKittyに語り掛ける文体で、ずっと綴られている。

感受性の強い、アンネは、生きる事の大切さや、自分の夢、恋心をよせる、友達のPeterの事、家族の事、いろんな話をKittyに託している。

やがて、密告により、フランク一家の隠れ家は、ゲシュタポ(秘密警察)の知るところとなり、Bergen-Belsen収容所送りとなり、終戦近い1945年に、死去。

ガス室で殺害された説もあるが、収容所内で、病気にかかり、衰弱死したとされている。

家族で唯一、生存して解放された父親が、このアンネの日記を発見し、後に出版されるが、現在出回っている本は、原文どおりでなく、削除された箇所が多くあるらしい。

アンネが残した書簡には、ドイツ語や英語で書かれたものがあるが、アムステルダムに移ってからの彼女は、オランダ語をすぐに、習得し、日記はオランダ語で綴られている。

父親自身を悪く書いている部分や、ドイツをあからまに避難する下りは、意図的に削除して出版したため、昨年も、未公開部分を新聞がスクープしたりしている。


今日の新聞記事で、インタビューに答えているGoslarさんは、ドイツ時代からのアンネの幼なじみで、同様にアムステルダムに移り住んだ、ユダヤ人。

彼女自身も、"Anne Frank Mijn Beste Vriendin"という回想録を出版している。

Goslarさんは、アンネと別の時期に、ナチスに捕らえられたが、偶然、同じBergen-Belsen収容所に送られ、殺害を免れ、戦後は、イスラエルに移住した。

彼女の知るアンネは、快活で自慢の美しい髪をなでながら、おしゃべりをするのが好きな少女だったが、収容所で再会した時は、お互い別バラックに収容されていたので、鉄条網ごしにお互いを見詰め合って、泣くのがせいぜいで、話をすることは出来なかったそうだ。

そこで見た、アンネは、すでに自慢の髪をそられた坊主頭で、やせ細って別人のようだったという、すでに死期が近づいていた頃だったのだろう。

アンネと同い年の、Goslarさんは、70歳になり、アンネを知る数少ない生存者だと言う。

「アンネと同じような物語を語れる、ユダヤ人は、まだイスラエルに大勢います。しかし、私がアンネを語る事によって、本来なら耳をかさない人にまでメッセージを伝える事が、出来るので私は、命ある限り、アンネの話をするつもりです。
我々、生存者は、この世にいる限り、この経験を共有する義務があるのです。」

とインタビューに答えている。


アンネフランクの隠れ家は、いまでは博物館として、公開されていて、中まで入る事が出来る。

本棚の後ろに、隠し階段があり、一人通るのがやっとの幅を通り抜けると、小さな部屋にたどり着く。

アンネの使っていた部屋には、いまでも壁には彼女が、雑誌から切り抜いて貼った、映画スターの写真なども残っていて、見ているだけで、切なくなってくる。


先月、私の知人が、アウシュヴィッツの強制収容所を見てくる機会があり、話を聞いた(私は、まだ行ったことはない)。

彼の話では、いまでも、なまなましく、残虐の限りの痕跡を見ることが出来るそうだが、反ナチス、反戦争、反人種差別のメッセージというレベルではなかったという。

「狂気に至った、人間が一体どんな事をしでかすのか」を感じたそうだ。


にも関わらず、いまだに民族浄化、虐殺、差別は世界中で絶える事がない。

人間は、いつまでたっても学習効果がない動物のようです。

ユーゴ人の同僚が、今日、故国が一日も早く、平和になって欲しいと、いつかはユーゴに戻って、普通の暮らしを過ごしたいと、切々と語ってくれた。