反ユダヤ思想
Jan.16.99

反ユダヤ思想【はんゆだやしそう】


昨日、ホロコーストについて書いた。

日本人である、私にいまだによく判らない。なぜ、ユダヤ人は、あちこちで迫害され、嫌われるのだろうか?
キリスト教文化が、社会の礎になっているヨーロッパや、アメリカでなぜ、冷たい仕打ちを受けてきたのか。

歴史をみるかぎり、イスラエルが、他国を大侵略したような事もないし、キリスト自身がユダヤ人だというのに。

個人的に、私にはユダヤ人の知人はいない。もしかしたら、いるのかもしれない。ただ隠しているのかもしれない。
ユダヤ人というのは、民族だ。イスラエル人という国家単位で把握できない、特殊な民族だ。
世界中の各地に、ユダヤ人は分散して暮している。ベルギーのアントワープあたりに行くと、保守的な人は、黒い装束に帽子を被り、お下げの髪型の紳士をみかけるが、そうでもないと、よく判らない。

シェイクスピアの「ヴェニスの商人」でも、残忍な金貸しシャイロックは、ユダヤ人という設定だし、昔から経済的なセンスがよく、商売が上手だったのは、事実のようだ。

現に、英国あたりの有名な投資銀行なんかは、殆どはもともとがユダヤ資本だし、ロスチャイルドみたいな、大富豪もそう、金融情報の老舗ロイターも、そうだ。


ヨーロッパ中、どこにいっても、ユダヤ迫害の歴史が多かれ少なかれある。西欧に限らず、東欧、ロシアでもだ。

同時に、どこの国もその歴史を持っているから、なかなかアウトサイダーである、私日本人からは、突っ込んで質問がしにくいテーマだ。

中には、ユダヤ人である事を隠す人は、いまだにいるので、バーやレストランでその話題を出すのは、なんとなくタブーなようが気がするが、一度、意を決して訊ねてみた事がある。
場所は、日本だった。丁度、国際会議出席の為、日本を訪問したとき、英国人と、ドイツ人の出席者と、夜赤提灯に飲みに行った。

ドイツ人に、いきなりユダヤ人問題を訊ねるのは、かなり勇気がいるが、同席した、ドイツ人は、旧知の気心の知れる相手だった。
しかも、彼のおじいさんは、バリバリの共産党員で、戦時中反ナチスを貫き、ブタ箱に入れられた話を聞いていたので、問題なかった。
「親父の話だと、小さな村の中で、唯一の共産党員だったので、父親が警察にしょっぴかれて、つらい思いをしたが、戦争が終わったら、名誉回復して、逆に村の英雄扱いされた。」なんて話を、以前彼から聞いた。

もう一人の、英国人は、初対面だったが、今思うと、彼はユダヤの血をひいていたのかもしれない。
しばらく、ドイツ人が、ドイツで起きたユダヤ人問題を、とつとつと語ってくれていたのを、聞いていたが、突然英国から来た彼が、しゃべり始めた。

「ナチスドイツの話ばかり、クローズアップされるけど、ヨーロッパ全体が、反ユダヤ思想に洗脳されてしまったんだ。
戦争中だけじゃない。昔からそうだし、今もそうなんだ。

ロシアで殺されたユダヤ人の数だって、おびただしいのに、くそったれの大英帝国だって、殺しまくったくせに、戦勝国だったから、だまり通しているだけなんだ。
ドイツ人だけじゃなくて、ヨーロッパが犯した罪なんだ」

と興奮して喋っていた。


今日付けの、オランダの日刊新聞 "Telegraaf"にこんな記事があった。

前女王ヴィルヘルミーナ(現ベアトリクス女王の、母君)が、1939年に、ユダヤ人亡命者の収容施設を建設する時に、王宮の近くにつくる案に、反対の意思を示し、建設場所を変更させた、という経緯が、キャンプ ヴェスターボルク慰霊記念館の館長 Dirk Mulder氏によって、明らかにされた。

それは、当時の女王からの、個人書簡として、当時の内務大臣の、Van Boeijenに宛てて、1939年3月14日に出したもので、ユダヤ人が住む施設を、王室所有宮殿Het Looがある、Veluwe近くの、Elspeetに作る案に、不快感を示し、結局Westerborkに建設する事になった

という、ショッキングなニュースだ。
この資料は、今年の6月に、公開させる予定らしいが、「アンネフランク記念館」が、観光名所となり、ユダヤ人を迫害から守った事を、誇りにしている、オランダにとっては、ありがたくないニュースだ。

1939年3月といえば、1938年11月9日にドイツで起こった、「クリスタルナハト(水晶の夜)」事件の日から、約5ヶ月。
身の危険を感じたユダヤ人が、ドイツから周辺諸国に亡命しはじめた頃だ。

この書簡は、亡命の受入は、するけども、なんとなく嫌だ、という当時の一般的な気持ちを代弁しているのかもしれない。

あまり知られていないが、アンネフランクだって、最初からアムステルダムにいたわけではなく、幼少の頃は、フランク一家は、ドイツのフランクフルトに住んでいた。

アンネの日記自体は、オランダ語で綴られていたが、たしか古い資料のはがきなんかには、確かドイツ語を綴ったものもあったような、気がする。

ドイツから、亡命して、オランダに移ったときも、アンネが、社会から冷たい目で見られていたのかな、と思うと、胸が痛くなるような、資料だ。