己を識る【recogintion of own existence】
冒険家、大場満郎さんの、単独徒歩による南極点制覇の手記、「野人、南極をゆく」を読んだ。
その中で、面白かった言葉がある。
常に自然をよく観察し、その変化に対処する。謙虚な気持ち、畏れる気持ちがないと本当に手痛いダメージをくらってしまうのだ。
TV番組で、ある評論家が、冒険家として成功する条件に、臆病である事を挙げていた。
あと数十メートルで、目標に到達する状況でも、無理をせずに、冷静は判断をして、引き返すだけの臆病心がないと、命を落とすという意味だった。
今月、チョモランマ(エヴェレスト)の初登頂を成し遂げた(かもしれない)、登山家マロリーの遺体が山頂近くで冷凍状態になって発見されて、ニュースになっていた。
通説では、チョモランマ初登頂は、ヒラリー卿とされていたが、それを覆すかもしれない事実になるかもしれないと言う。
マロリー隊は、登頂を目指した最後の日に、行方不明になっていたので、記録上は失敗という事になっていた。
当時の関係者の証言だと、頂上を目前にした、マロリー隊が、突然白い霧に囲まれて そのまま消息を経ったとされている。
その時、誰かが、臆病になり、別の日をまっていれば、登山史上の快挙を認められて、英雄になっていたのかもしれない。
物事が順調に進んでいるときこそ、この気持ちが大切なんだが、人間の、あさはかな性というものは、この謙虚さを、順調なときに意識するのを、難しくする。
5年前に、勤めていた銀行を退職したときに、私はこの「謙虚」の大切さを痛烈に感じた。
それまでは、常に勤めている会社への所属意識が、毎日の安心感を与えてくれたのだが、辞めて縁を切った途端に、当然の事ながら、私は「XX銀行の」人間でもなく、単なる、一個人だ。
人間関係も、もはや同僚も上司も、取引先もなく、コンタクトが続く人は、単に「友人」としか表現できない。
人間関係のフィルターをかけるには、丁度いい機会だった。
会社関係の人たちも、退職しても、コンタクトを続けてくれた人は、今でも、続いている。
書類の職業欄にも、「無職」と書くしかないし、頼れる人も少ない、日本から、遠く離れた異国にいる訳である。これは結構心細い。
否が応でも、その時自分には、「日本人」という表現以外の肩書きが全く無い事を思い知らされた。
そうなると、自分には、名前とそれまでの人生経験しかない、小さな存在だと言うあたりまえの事を受け止めて、「謙虚」と言う言葉の本当の意味を実感する。
それでも、日常生活では、どうしても自分の存在を過大評価してしまうのが、人間。
最近、自分で偉そうな事を言って、あとで後悔する事があり、大場満郎さんの手記を読んでいて、この「謙虚」をたまたま思い出した。
夜郎自大って言葉があります。自分の力量を過信して、なかまの間で羽振りをきかす喩えです。