蘭学
Dec.22.98

江戸時代の、蘭学者達は、まさにパイオニアー精神の固まりだった。

それまで、日本の学問は、漢学か儒学。日本固有の学問の集大成は、それほど進んでいるわけでもなく、専ら知識は舶来輸入に長年、依存してきた。
日本の学問に、独創性が乏しいと、今日嘆いてみたところで、どうしようもない。

元来、日本の学問というのは、そういうもんだ。知識を輸入して、国内でどう応用するかが、学問のあり方だったと言っても良い。


早熟文学少年だった、私は、中学生の頃に、岩波文庫の杉田玄白の署なる、「蘭学事始」を読んだ。
今思うと、中学の頃にそんなものを読んでいるのは、めちゃくちゃ早熟だ。

確か、オランダ語原典の「たーへるあなとみあ」を「解体新書」に翻訳する過程の苦労を、綿々と綴ったものだ。
辞書すらない時代に、口コミと想像力で翻訳してしまうからには、一日関係者でウンウンと唸っても、一行も進まないという状態だったと、書いてあった。

そうした、時代の蘭学者達に比べれば、現代の語学の習得なんて、100倍恵まれているだろう。

今、オランダに住んでいる私が、時に残念に思う事は、この国に住んでいる、日本人の同胞達は、一向に土地の言葉を習得しようと、努力しない事だ。
勿論、全員がそうではないが、9割以上が、その努力を最初からしないと言っても過言でない。

確かに、必然性は低い。周辺の大国、獨仏伊西あたりでは、英語が通じないから、土地の言葉を習得する必然性に迫られるが、オランダ人は流暢に英語を話す。
しかも、オランダ語を習得しても、後にこの国以外で役に立つ事は、殆どない。
あとは、せいぜい、ベルギーの北部と、南ア、カリブ海の数カ国だけだ。
かといって、毎日暮らしている場所の、文化を学ぼうとしないのは、失礼な事ではないかと、思う。

じゃないと、杉田玄白が、現代の世に蘇ったら、嘆くであろう。