寒月  (3巻99頁15行後)
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 深夜。シンドゥラの城塞であり今はパルス軍の陣営であるグジャラートは、不寝番の 兵士が灯す灯火でほの白く輝いていた。

 明日明後日にはガーデーヴィ王子の軍との戦いを必然としている。将兵達の緊張には 只ならぬものがあり、城内は高揚感に満ちたざわめきに満ちていた。廊下という廊下も、壁にかけられた灯火で昼のように明るい。

 その光から顔を背けながら、一人の青年がその淡い色の頭髪をなびかせる勢いで歩いて いた。もし今、彼とすれ違う者がいても、彼が誰とは分からなかっただろう。もしそうと 分かった者がいても、目を疑ったに違いない。常に平静さを保ち、その手の一差しで軍を 動かし負けを知らぬという知者の誉れ高いパルスの軍師が、その冷艶な美貌を歪めて唇を 紅くなるまで噛みしめて走っているなど…

 光を避けて走る獣のように、彼は薄暗い階段を駆け上がった。次第に灯火が少なくなり、 人影が途絶える。上がる息が白くなり、空気が冷たく肌にまとわりつく。まだ外は2月、 冬の最中だ。

 彼の目は己が走る道を見ていたが、耳は別のものを聞いていた。
 繰り返す、一つの言葉。つい数瞬前に黒衣の騎士が発したそれ。
 返事の返らぬ、それは彼自身が答えを知りたい問い。


”俺のことか?”

”ナルサス、それは俺のことなのか?”


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 近づく戦いに備える為の、私的な軍議だった。大まかな手配は先の会議で取り決めて いたが、いざ戦場に出た後にものを言うのは万騎長ほか、実際に剣をふるう者たちだ。 その為に将兵らの要とも言うべき黒衣の騎士ダリューンと、私室で打ち合わせをしていた のだ。ずっと二人きりになることを恐れていたナルサスだが、軍の采配の為ならば避けて 通れぬ事だった。実際、この一月ほどの間と変わらず彼は平然と打ち合わせをし、冗談す ら飛ばした。だからすっかり過去に戻った錯覚を覚えて、何の他意もなく頷いたのだ。 ただの相づちだった。
『そうなれば、おぬしもおれも、憂世の義理から解放されるだろう』

 …ただの相づちだったのに、返される筈の言葉は返らなかった。
 恐れを知らぬと有名な彼が、沈黙の重さに寒気を覚えた。

 不自然な沈黙を破ったのは、いまだ黒い甲冑をまとったままの騎士だった。
今までの 溌剌とした口調が嘘のような、深く沈んだ声。

「それは俺のことか?」

 ナルサスは目を見開いた。「…何を言っている?」思わず彼を振り向いたが、しらを 切ったわけではなく、本当に分からなかったのだ。だが、改めて見た友人の黒い双眸は 思いがけず静かなもので、哀しみすら含んでいた。

 その深い漆黒。ナルサスは目を逸らした。  無言のまま、問いの意味は彼に打たれるような衝撃を与えた。
 分かっているのに、そうと知っているのに、ダリューンの声が繰り返し問う。

「おぬしにとって憂世の義理の筆頭は…」
「…打ち合わせは終わりだ。もう寝んだ方が良い」
「ナルサス」
「おぬしはアルスラーン殿下のご様子を見てから寝むのだろう。早く行くがいい」
「ナルサス、俺は…」
「早く行け…!」

 もう限界だった。声が震えるのを止められない。突然、部屋にこもる空気すら側にいる ダリューンの体温を含んでいるような生ぬるさを感じて悪寒が走った。無言のまま椅子音も 高く立ち上がり、卓上の書類をおざなりにかき集めると、走るまいと己に言い聞かせながら 部屋を出た。後に残した彼が何かを言った…ような気がする…どこに行くのかも分からず、 ただここから早く遠ざかることしか考えず…


 我に返った時には、城塞全体を見晴らす高台に出ていた。さすがにここは闇に沈んでいる。 見張りの為に城壁に沿って置かれた火が、狼煙のように見え隠れするだけ。そこにいる将兵は 突然城壁上に姿を現したナルサスに気づいていないようだった。あるいは、見回りの兵士の 一人と思ったのかも知れない。これ幸いと、ナルサスは月明かりが落とす城壁の影に身を隠した。 その間も声無き問いは心の内に止むことなく響き、たまらずに低い呻きが洩れる。

”…もしすべてが終わったら”

  苦しいのはそれが真実だからなのか。
  それを否定する材料を、彼は持たない。

”俺との友情も過去も、ただこの世の義理とみなして”

  そういうつもりで言ったのではない…   弱々しく抗う心の声に、ふとナルサスは思う。己自身に問いかける。

  それは真か、と。
  無意識にそれを望んでいなかったと言い切れるのか、と。

”切り捨てるつもりか…?”


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 脳裏で繰り返される低い声の名残に耐えかねて、ナルサスは固く綴じていた目を開いた。 何気なく反対側の城壁上に目を向ける。と、そこに二つの人影を見つけて目を凝らした。  体格の良い黒衣の青年。…その前に立つ小柄な少年。少年は青年に背を向けていたが、 ふと腕で顔をぬぐう仕草をすると振り向き、何かものを喋った。声まではこちらに届かない。

 二言、三言交わす様子の後に、二つの影は肩を並べて城壁から降りていった。  その姿は、階下に溢れるほどに灯された光の中に降りるように視界から消える。  無垢な光の王者。それに離れず付き従う臣下であり守護者たる騎士。


 …それでいい。

 ナルサスは息を吐いた。ようやく息がつけるようになった気がするのは、ただ走った後の 息切れが止んだだけなのか。


 ダリューン。  おぬしは光の中にいるべき者だ。

 例え血と泥にまみれて戦場の土と化す日が来ても、おぬしのその輝く精神は光の眷属の ものだ。俺とは違う。俺は生まれた所も汚泥なら、育ちも獣のそれだった。それから逃れる ために殺戮の術を覚え、過去も今も殺戮で己の生をあがなっている。そしていつか、おぬしが 俺の手の上で身を血の海に浸して死にゆく様を見るだろう。眉ひとつ動かさずに。


 …だから、俺に触れるな。

 俺の毒におぬしは耐えられぬ。


 抱かれるのは容易い。初めての処女のように羞じらい震える事もできる。プライドも誇りも 投げ捨てて悦楽にすり替える術を、この身体は既に知っている。彼は疑わないだろう。

 …だがそれをしたら、俺たちは本当に終わりなのだ。


 ナルサスは寒さに震える子供のように己の肩を抱きしめた。



 青い月光が城壁を染める。


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一瞬タイトルを「泥沼」にしたい衝動にかられました… こんな知将イヤですね。すみません。でもやめないけど。←おい。



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