嵐青 (3巻139頁4行後)
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…父上。
…父上はいずこに?
少年が走っている。まだ子供だ。暖かい春の気に満ちた邸内を、腕一杯に花枝を抱えて…
…その日、待っていた花がやっと咲いたのだ。何という名を持つかは知らない。高い枝に、ふわりと
大きな白い鳥がとまったかのような姿で咲く白く香り高い花、子供の母親が好きだと言って微笑んで
抱いた花。あなたの父さまもお好きだったのよ、と言って少女のように笑った母の、白い腕に抱かれて
香った花…
…父上は?
お部屋におられますよ、と誰かの声がする。上気した頬を笑みにゆるませて子供は瀟洒な屋敷の長い
回廊を走る。白い石畳。硝子のない広い窓からは暖かい微風と共に花の香りと翠の木洩れ日が絶えず
繊細な影を落として揺れている。
穏やかな、午後。
母を亡くしたばかりの子供は、この屋敷に来てからまだ日が浅かった。義母も、その娘である義姉た
ちも彼に冷たく、来た日のうちにつけられた子供の食事の毒味役は今日までに既に2度、その顔を変えて
おり、子供はわずか7才にして敵という言葉の意味を知っていた。
だが、味方もいた。才気あふれる少年に家庭教師達は皆目もとをゆるませたし、でっぷりとした女中頭
は6人もいる自分の子供と同様に、才気走った悪戯を仕掛ける少年を叱りつけ、夜には毛布でくるんで
寝かしつけた。父と同年だという家令はほとんど言葉を発しない寡黙な男だったが、それでも義母の目を
盗んで屋敷を抜け出しては夜中に帰る少年のために、いつでも裏庭の門を開けていた。
そして、父。
母が死んだ後、日を置かず子供を引き取りに来た父。屋敷に着いたその日から警護と毒味役をつけて
彼を守ってくれた、父。彼こそは、子供の『味方』の筆頭だった。
…そう、子供は信じていた。
その父の部屋が近づき、子供は肩で息をしながらその扉の前に立つ。ちらりと腕に抱いた花を見て、
形が崩れていないかどうかを確認する。子供の手には余る大きなドアノブを花枝を抱えたまま両手で回し、
顔を真っ赤にして押し開く。
…ちち、うえ?
室内は闇に沈んでいた。
一瞬、視界を奪われた子供は何度かまばたきをして、ようやくその闇が昼間にも関わらず窓一杯に
ひかれたカーテンのためだと悟る。その奧、開けたドアから差し込む光も届かぬ最奥に置かれた黒檀の
広い机。その向こうで、ゆらりと振り返る気配。薄暗い中でも明らかな、大柄な体躯。
…父上、
呼びかけて。
子供は声を失った。
父と思ったその影の中から、子供を見据えた、目。
ぎらぎらと血走り、まるで亡霊を見たかのような表情で子供を睨め付ける。…その。
子供は立ちすくんだ。ばらばらと音を立てて花枝が床に散る。無意識に後ずさる子供のかかと
が白い花びらを踏みにじり、それで余計に匂いたつ香りがこもった室内に満ちていく。
…ち、ち……
細い悲鳴は閉まる扉の音にかき消された。
そののどかな春の昼下がり。
女中はおろか、たえず主の側近くにいるはずの家令すら遠い自室でその午後を過ごし、日は暮れた。
屋敷の主とその息子が姿を見せない事に、誰も気づかぬまま。
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「王太子殿下は?」
「先ほど、お部屋に戻られました。側近の方がお送りに」
生真面目に答えた若い兵士に頷いて、パルスの軍師ナルサスは自室にあてられた兵舎の一角へと足を
向けた。
シンドゥラの国都ウライユールは2月。だが、既に母国パルスならば春先と言っても良いような暖かさ
に満ちている。次の国王を決める神前決闘を明日に控えて、その場への臨席を求められたパルスの王太子
をはじめ数十人のパルス兵は、都の入り口に近い兵舎で前夜を過ごすことになった。与えられた兵舎は
兵営といっても常時城門を見張るだけの兵の宿舎であるため、中は戦いよりもむしろ生活に均した感が強い。
暑い国らしく、空気の流れをよくするために極力仕切を避け、シンドゥラ特有の織り目の粗い布を吊して
仕切の代わりとしている。それは風が吹くたびにさらさらと涼しげな音をたてて、暑い夜の寝苦しさを
和らげる。
だがこの夜、兵舎ではその微かな音が聞こえない夜を過ごしていた。ここそこに灯された夜営の明かり、
必要以上に多くの兵が寝付けずに囁きを交わしているようで、どこからともなくざわめいた気配が漂って
くるのだ。眠れないのは暑さのためではない…明日の夕刻に迫った、かの決闘のためだ。いわく、なぜ
他国の王位継承権を決めるための決闘に、我が国が誇るかの黒衣の騎士が命をかけねばならぬのか。神前
といえど、それはパルスの神々ではなかろうに…
囁きの中には、なぜ王太子がそれを許したのか、という不穏な不満さえ聞こえる。それを王太子の側近
に数えられる軍師は咎めなかった。すべて明日への不安が言わせる事だ。明日かの騎士が勝ちを納め、
それがもたらすものを身をもって知れば、自然と静まるものに過ぎない…
薄青の上下に短剣を吊しただけの軽装で、ナルサスは内庭を見おろす回廊に立った。夜空には雲ひとつ
なく、染め上げたような紺色に星が瞬いている。
ここ数日、彼もまた眠れない夜を過ごしていた。一度火蓋を切ったシンドゥラの兄弟喧嘩はその父であ
る国王の覚醒によって急転直下の展開を見せた。事実上、現在のパルス軍の頭脳を担っているナルサスは、
常に起こりうる事態を想定して先手を打つ事を得意としている。だが今回はさすがにその展開の早さに
眠る暇も与えられなかった。
そして明日…彼は決闘に出る騎士の腕をよく知っている。よっぽどの相手でもない限り、彼が負ける事
はないだろう。だが、それは相手方もよく知っている。あえてかの騎士の相手に選んだ人物とはどんな
強者なのか…その情報はまだ入らない。そのこともナルサスを不安にさせる。いずれ名のある人物なら、
それとなく噂が聞こえてきても良さそうなものだ。だが、相手の陣営は決闘に出る勇者の名に、固く口を
閉ざしている。それはどういう意味なのか…
考えておかねばなるまい。こちらが…かの騎士が勝った場合の展開と…負けた場合の…
…負けた場合の?
ふと浮かんだ言葉に、ナルサス自身が動揺した。負けた場合。それは死を意味する…彼が…黒衣の騎士
と呼ばれ、無二の存在である彼が…
…死んだ場合?
「ナルサス?」
不意に後ろから声をかけられ、パルスの軍師は凍り付いた。色を失って振り向いた彼に、声をかけた
人間が目を丸くする。
「どうかしたのか?」
「…ダリューン。驚かすな」
咄嗟に表情を殺し、ナルサスは安堵の息をついた。肩をすくめて彼に歩み寄ったのは、当の騎士。明日、
決闘の場にその身をさらす予定の、パルスが誇る騎士の中の騎士…ダリューン当人だった。
「それはすまなかったな。邪魔をしたか」
「いや。…王太子殿下をお送りしてきたのか」
「ああ。やっとお休みになられた」
横に立って内庭を見おろす友人は、ナルサスよりも頭ひとつ高い。共に王立学院で机を並べていたころは、
そう変わらなかったのだが…いつもは黒一色の甲冑に固めている肢体も、今は濃紺の平服だ。灯火を反射し
て鈍く光る彼の大剣だけが、いつものように腰に収まっている。
「皆、明日の事を案じているようだな」
精悍な顔が苦笑する。その内庭を見おろす黒瞳を見つめていた自分に気づき、ナルサスは目をそらした。
眼下では、用もないのに落ち着きなく見回りに立つ兵士達の影が、近づいては遠ざかっていく。
皆、明日の勝利を信じているにしても、前例のないこの展開に落ち着けずにいるのだ。
口をつぐんでその影を目で追うナルサスの横顔を、ダリューンはちらりと盗み見た。夜目にも白い肌。
文官とは言え、戦場に立つ事が多いはずの彼は、昔からあまり日に灼けない。淡い色の頭髪、白い手に軍師
の鞭を持って戦場を見おろす彼の姿は、ただでさえ肌色の濃い者が多いこの国の中にあって、ひどく目立つ。
戦場の土煙の中からでも、一目でその姿を見分けられるほどに。
「殿下は」
己に向けられる視線を知ってか知らずか、階下に目を落としたままナルサスが問う。
「おぬしに謝られたか?」
ダリューンは軽く目を見開いた。
「なぜ…」
ナルサスはく、と口元だけで笑む。
「部下を死地に立たせて平然とできるお方ではないからな。今になって、ラジェンドラ王子の口車に乗って
むざと部下を危険に晒してしまったような心持ちになっておられるのだろう」
「…そこまで分かっていて」
当の部下は呆れたように息をつく。
「あの王子の頼まれたら、ああ言えと言ったのはおぬしだろうが」
はじめ、ラジェンドラ王子は直接ダリューンに決闘に出ることを頼んだ。それを辞し、主君であるアルス
ラーンに頼めと言ったのはダリューンである。いわば、決を主君に譲ったのだ。
「そうと分かっていれば、俺は俺の意志で決闘に出た。殿下がお悔やみになる必要はない」
「いや、ダリューン。それでは殿下のお立場がない。ラジェンドラ王子に殿下を軽視させるわけにはいかぬ。
今後のためにもな」
これは単なる戦争ではない。外交のための交渉戦だ。戦っている最中よりも、むしろこうして穏やかな
ひとときに交わす言葉がこの後の国同士の関係を位置づけてしまう事を、ナルサスは充分に承知している。
「なに、殿下のご杞憂など、明日おぬしが勝てば良いことさ」
「勝手なことを言う」
ダリューンは低く唸る。これでは、明日の戦いに気合いが入らざるを得ない。ナルサスは軽く笑った。
「覚悟を決めて、今日はもう寝るんだな。<騎士の中の騎士>が寝不足で負けた、ということになっては
まずかろう…」
そうだな、と彼は頷くはずだった。ナルサスはそう思い、己もその場から去るために身体を起こした。と、
行く手を遮る太い腕。
「…ダリューン?」
「そうはいかぬぞ、ナルサス」
黒曜石の瞳が、まっすぐに琥珀色の瞳を捉える。その中にある影に、ナルサスは愕然とした。
「なにが…」
「おぬしはこの頃俺といると、必ず殿下の名を出す」
そむけた頬を、淡い色の髪が覆う。その向こうにある瞳は見えない。ダリューンは彼の背後にある柱に
ついた手を動かさぬまま、じりじりと身体を動かして退路を断った。そうと気づいたナルサスが、唇を噛み
しめる。
「なるほど、おぬしは俺をよく知っているようだ。殿下の名を出せば、俺がそれを無視できぬと解っている
ようだな」
「…」
「だが俺はアルフリードと違って、おぬしが答えを出すまで待っていられそうもない」
アルフリード。
その名に、ナルサスは僅かに身じろぐ。
「彼女と俺も同列だな。切り捨てたいのに、現状がそれを許さない。だから、曖昧な態度で話をずらす。
相手は明確に拒絶されないことに希望をつなぐ。そして利用できるだけ利用するわけだ」
「…ダリューン?!」
なかば喘いで、ナルサスは目の前の友人を見つめた。まさか彼が、こんな言葉を己に浴びせるとは。
「アルフリードはそれに気づいていないようだが、俺はそうはいかぬ」
黒曜石の瞳。いつもは深く暖かい闇夜の色のそれが、今は硬質の光を放っている。
「案じずとも、俺は殿下の側を離れはせぬ。あの事は忘れる。おぬしも忘れてくれていい。…それが
出来ぬと、もはやこの友誼が続かなくとも、おぬしを恨みはせぬ。だから…」
ナルサスは目を見開いた。今耳に届く、彼の言葉が信じられなかった。
「…頼む、ナルサス、言ってくれ」
俺を蔑む言葉を。
俺には、おぬしを救う器量などないと、思い知らせてくれ。
「もう俺は、ただおぬしの側に立っているだけの自信がない…」
友人の黒髪が、肩に乗せられる。他に並ぶ者のない勇者としてその名を知られるこの男が僅かに震えて
いるのを、ナルサスは感じとった。そのぬくもり。はるか昔、幼い時からナルサスを悪夢から救ったその
友人が、今ここで己に選択を迫っている。
ナルサスは目眩を覚えた。
今さら、何も無かったことになど出来るはずがない。
もはや二人の間に、少年の頃は二度と戻らない。
「俺に、選べと…?」
…足下が揺らぐ。目の前が暗くなり、心の臓が耳元で鳴っているかのように脈打つ。
「ナルサス…?」
鎮痛な色を浮かべる漆黒の眼差し。
それを呆然と見つめながら、彼は口を開いた。
-------------------------------- 続
…続くか、普通…。