秋霖  (1巻232頁6行後)
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休み無く落ちてくる雨粒の合間からどんよりと暗く曇った空を垣間見て、ナルサスは眉を 寄せた。雨足は激しく、足下の地面はそこここのくぼみに水を溜めあふれて小さな川を作り、 丘の麓へと流れを描いている。運良く駆け込んだ岩場の陰。思いのほか深くえぐれており、 充分に雨をしのげるのを幸いと思わねばなるまい。
「ナルサス、どうだ?」
 岩陰の奧から低く響く声。ナルサスは振り向いて答える。
「ダメだ、止みそうにない。ここで夜明けを待つしか無さそうだ」
岩陰は入り口から数十歩の所で急に横に向きを変えている。いくつもの大岩が何時の世かに 落ちて組み合わさったものだろう。自然の妙というものだな。ナルサスは心中で感嘆した。
そのおかげで、奧で火炊きをしても外から明かりが見えにくいのが有り難い。
 奧では友人がその大きな体を器用に折って火の番をしていた。広いとは言えない岩敷きと 岩屋根の幕屋を、湿ったフードで座る場所を作り、石と砂とで竈を作ってエラムが持たせて くれた干し肉をあぶっている。見かけによらず、この騎士は昔からこういった事に器用だ。 その黒い瞳がナルサスを捉える。
「何を笑っている?」
「いや…手慣れているな」
「野営で培っただけだ」
かろうじて集めた枯れ枝を炎に放り込む。
「それにしても、ここで 足止めとは歯がゆいことだ」
「殿下なら大丈夫だ。ファランギースがついておるし、ギーヴもあれでぬかりはない男だ」
「…」
「ダリューン?」
「…ナルサス。あのことを、殿下に隠しておくわけには行かぬだろうか」
 沈痛な低い声。今度はナルサスが黙って干し肉に手を伸ばした。あの事とは当然、今日 ひそかに王都へ潜入して聞きつけた、ルシタニア国王と王太子の母であるパルス王妃の結婚の 噂だ。パルス国民にとってはおぞましき事この上ない噂、子である王太子にとっては言うま でもないことだ。だが。
「ダリューン、俺とて殿下の御耳に入れたくはない。だが、ルシタニア王が正式にタハミーネ 妃を望んでいるとあらば、いずれ聞こえてくることだ。心ない者の口からそれを聞かされる よりは、俺やおぬしの口から申し上げた方が良いだろう」
「ああ…そうだな」
ダリューンは息をついた。ふと側の、冷静で知略に優れ心強いことこの上ない友人を見て微笑む。

「おぬしがいてくれて良かった。俺ひとりなら、浅薄に隠していたやも知れん」
「なに、おぬしとてすぐに気づいた事さ」
その微笑から、ついと目を反らしながら、口調だけは軽くナルサスは応じる。
「とにかく食おう。明日は夜明けに発たなくては」
「そうだな。…おいナルサス、おぬしまだ濡れているのではないか?」
何気なく手を友人の髪に伸ばしたダリューンは、ぎくりと体を震わせた相手に驚いて手を止めた。

「ナルサス?」
「…いや、大丈夫だ」
ナルサスは渾身の力で笑う。
「…それなら良いが。もっと火の側に寄ったが良いぞ」
屈託無く頷いて、ダリューンはさらに枯れ枝を炎へ放り込む。ひときわ燃え上がる炎。その光に 照らされる友人の横顔からは、今の自分の行動に不審を持った様子は無く、ナルサスはそろそろ とあがる息を押さえた。

 …情けない。
 この程度のことに動揺するなど。
 それも他ならぬダリューンに対して。

「ダリュ…」
「そうだ、良い物があった」
つと立ち上がった友人が、入り口の陰に休ませている騎馬の腰から小ぶりな水袋を外してナル サスに差し出す。栓を抜くと、濃厚な酒の香りが漂った。
「ずいぶんときつい酒だな」
「気付け兼消毒用、だがな。ちゃんと飲めるぞ。体が温まる」
ナルサスとて酒に弱いわけではないが、酔えれば何でも良いというものではない。ただ濃度が 濃いというだけの酒はむしろ苦手なのだが…恐る恐る一口すすると、強烈な酒精に思わず咳き 込んだ。
「おぬし…こんなものをいつも持ち歩いているのか?」
「ああ、万が一ということがあるからな」
さらりと答えた雄将に、彼がパルス随一の武官であることを今さらながらに思い出す。 忘れているわけではない…だが、ナルサスの目の前で笑い、くつろぐ姿が出会った頃と同じ 少年の日と変わらぬだけに… …あるいは、いつ墜ちるやも知れぬ闇の淵に立っていた己を、ただ彼だけが光の中に連れ 出せただけに…。


ほどなく静かな寝息をたてたナルサスを、ダリューンは乾いたマントに抱き込んで己ごと火の 側に横たわらせ、その額にかかっていた髪を払った。マントの裏地の深い紅に、ナルサスの ごく薄い色の髪が波打っている。白いまぶた。金褐色のまつげ。年を追うごとに秀麗さを増す 鼻梁。…軽く綴じられたほの紅い唇。

 …眠るがいい。
 それだけが、安らぎを得るただ一つの方法なら。

届かない想いと諦めて遠い国へと発った。己の想いだけを扱いかねて、彼の気持ちを考えなかった。

 …おれは卑怯者だ。

差し伸べる手を払った彼の目がすべてを語っている。3年の間、何も変わっていなかったことを。 むしろ時を経てなお傷が固く膿んでしまたことを。…己が遠くへ旅だった後、残されたのは、 誰にも言えぬ痛みを抱え、心許せる友人すら失って立ちすくむ子供だったのだ。 …慚愧の念がダリューンの心を冷やす。

 この腕の中ですべてを忘れさせられたら。

払う手を引き寄せればいいのか。彼の傷がひとり治るのを待てばいいのか。 …果たしてそんな日は来るのか? 熱い焦燥が雄将の有り余る熱情を焦がす。

そうして何も出来ず…今はただ、彼の夢が悪夢でなければ良いと、抱く腕に力を込める。
「おやすみ、…ナルサス」

悪夢でなければ…いいと。 


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我ながらバカ●ンな企画「もしこの行と行の間にこんなコトがあったら本編の読み方変わるよね」(死)
腐れた第1回は定番といえば定番、「ナルサスの過去の傷編」。
はからずも「いつ二人がデキちゃったか編」になりそうな気配ですが…。

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