宵闇
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 晩秋の落日は早い。ヒルメスの追っ手を振り切り、馬を限界まで駆けさせても、先を行く アルスラーンに追いつくことはできず、ダリューンら4人は程良い場所で一夜をしのぐこと にした。まだ出ているであろう追っ手の目を思うと火はおこしたくなかったが、この冬の夜 に暖を取らずにいることは厳しい。年少のエラムやアルフリードを思い、ダリューンとナル サスは街道を外れた崖下に苦労して馬を降ろすと、突きだした岩が死角を作っている岩棚で 火を焚き、僅かな食事を済ませて寝支度をさせた。
「…ねぇ、ナルサス…」
「何だ?」
 体温が落ちるのを避ける為、皆の騎馬を座らせてその間に寝床を作っている。借りたマン トにくるまってうとうととしていたアルフリードが、思い出したように尋ねた。

「ペシャワールに行くって、言ってたよね…。それって、ペシャワール城のことかい?」
「ああ、そうだ」
「それで…エクバターナを奪い返すのかい?」
「そういうことになるな」
「ふうん…」
 不満げに息をもらすと、もう彼女は寝息をたてていた。その彼女から一番距離を取った所 に、エラムはとうに横になって背を向けている。合流してからこっち、少年はまともにナル サスとも、特にアルフリードとは言葉を交わそうとしない。内心でやれやれと苦笑して、ナ ルサスは二人がきちんとマントにくるまっている事を確認し、腰を上げた。

 月の無い夜。彼を迎えに来た友人はその黒衣を闇に溶かして、少し離れた場所で見張りに 立っている。ナルサスが背後から近づくと、その気配を察したのか、もたれていた岩から身 を起こして微かに笑んだ。
「どうだ?」

 ナルサスの目は街道の方を向いている。
 そうと察して、ダリューンはかぶりを振った。
「今のところ、追っ手の気配はない。今宵は諦めたかな」
「さてね」ナルサスは素知らぬ振りで肩をすくめた。
「だといいがな」
 ダリューンは呆れ顔で、一人涼しげな顔の友人を振り返る。

「奴を怒らせたのはおぬしだろうが。手勢もないのに、無茶な事をする」
「おれ一人ならば逃げられたんだ。おれの責ではない」
 憤然と言い返す彼に、ダリューンは苦笑した。
「ならば彼女の責か?…アルフリードといったか」
「言っておくが、彼女とは本当に何もないからな」
 ナルサスは殊更に語気を強めた。会ってからこの言葉を何度口にしたことだろう。何度 言ってもこの旧友は曖昧に苦笑するだけで、いや増す苛立ちはその白磁の頬に血が上らせ、 夜目にも瞳が煌めいている。それをダリューンは眩しげに見て、つと目をそらした。
 それをどう解釈したのか、ナルサスはとうとう憤激して声を荒立てた。
「ダリューン、おれがそのような嘘をつける人間かどうかは、おぬしが一番良く知っているだろうに。ひどいぞ」
 まるで子供のような駄々っ子ぶりに、黒衣の騎士は思わず吹き出してしまう。
「ダリューン!」
「…悪い、悪かった。ナルサス」
くすくすと肩を震わせる友人に、怒気を覚えたナルサスは、足音も隠さずに寝床へ戻ろうと して、その腕を引き戻された。振り払おうとして振り向き、思いがけず優しげな黒衣の騎士 の眼差しに会って絶句する。
「すまん、ナルサス」
「…本当に、分かったのか?」
「ああ、わかった。充分にわかったぞ」
 なおも笑いを押し殺す気配の友人を睨みながら、ナルサスはしぶしぶ歩を戻した。  ふと、ダリューンがその身にまとう黒いマントの留め金を外し、片手で広げて友人を差し招く。

「入るといい。おぬしのマントはアルフリードに貸したんだろう?風邪をひくぞ」
「おれに構うな。まだそれほど寒くは…」
「ナルサス」
 他人が見ればまさしく駄々っ子をあやすような眼で、ダリューンは三国にその名を轟かせる 知将の声を封じた。実際冬の夜風は厳しく、ナルサスは仕方なくマントの片端を受け取ると、 その半分を友人と分け合う形でくるまった。大柄な彼のマントは、彼より二周りは華奢なナル サスを包んでも十分に余裕がある。互いの肩の温みを感じる程度の距離で、ナルサスは頭ひと つ高い旧友の横顔を見上げた。

と、その視線を感じたかのように黒い瞳がナルサスを捉える。
「なあ、ナルサス」
「な、何だ?」
闇夜の空を映したような、黒く深い彼の瞳。夜空はその下で人間達がいかに争い血を流そう とも、ただ黙してそれを見守っている。無言のまま、誰も責めず、否定せず、ただ穏やかに 包み押し隠すだけの…。

 …不意に甘やかなものを感じて、ナルサスは顔を背けた。その耳がうっすらと色づいてい ることに、本人は気づいていない。ダリューンだけがそれを目に留め、しばらく無言でその 僅かな色に見入っていた。

「ナルサス…」
「だから何だと…」
「何故そんなに否定してかかるのだ?」
「は?!」
 ナルサスは絶句した。ダリューンの顔から笑みは消えていた。
「おぬしがそういう嘘をつける筈はない。確かにおれはそれを良く知っている。ならば、殊 更『おれに』それを否定してみせることはあるまい。おれはとうにそれを知っているのだから」
「それは、ダリューン、おれは…」
「エラムにこそ、余程説明しておくべきではないのか?あれはかなり怒っているぞ」
「そういう事はアルスラーン殿下にお会いしてペシャワールに着けばいくらでも出来ること ではないか!それにそこまで待たなくとも、見ていればわか…」
「声が高いぞ、ナルサス」
 引かれた肘を咄嗟に払いのける。パルスに並び無き知将といわれた彼が、今完全に困惑していた。
「こうして俺に弁解する時間はあったではないか」
「…卑怯だぞ、ダリューン。おれに何を言わせるつもりだ?」
 上がる息を押し殺しながら、ナルサスは友の顔を見上げる。と、それが思いのほか近づいて いることに、ぎくりと身を引いた。
「ダリュ…」
「…おれに、誤解されたくなかったのか?」
 静かな声。
 それが何を意味しているのかを悟るまでに、この屈指の頭脳を持つ男が数秒を要した。
「ダリューン…?!」
 熱っぽい目。この男がこんな目をするのか。しかも自分に向けて。
「ナルサス…そうなのか?」
 逃げるように背けた顎を指先でゆるやかに止められる。そのぬくもりに戦慄を覚えた。武官 特有の節くれ立った男の指。それが一層太く黒ずんだ壮年の男の手に重なる。友人の顔に、髪を 振り乱し、正気を失った男の顔がぶれる。狂ったような目。吠える声。肩を縫い止める重石の ような手。高い子供の悲鳴。

 …あれは誰の声だ…?

「ナルサス?」
 凍り付いた軍師の目に、友人の答えを待って見つめる黒曜石の瞳が映る。

 違う。

 彼は父ではない。

 四肢を縛っていた目に見えぬ鎖がゆるゆると溶けていく。確かめるように、何度も友人の 瞳を見なおす。強張った手を彼の黒髪へ伸ばしたのは、半ば無意識に縋ろうとしていたのか。 ナルサス自身分からないまま、ただ、それが彼の問いへの肯定と受け取られたのだと悟った のは、その手を取られ、唇を塞がれた後だった。

 冷たい、と思ったのは一瞬だった。冬の風に晒されたそれはたちまち互いの熱で濡れた。 優しく激しいそれは、ナルサスが知らないものだった。封じられた過去にはもちろん、 これまで彼が女達に与えたものの中にも無かったものがそこにあった。息を継ぐのも もどかしげに、時折うっすらとまぶたを上げてそこにいる相手を確かめながら。彼の舌を 誘ったのはナルサスの方だ。唇を受ける事に慣れている自分に唾を吐く思いで。だが、 押し入る彼の熱に歯をなぞられ、舌をからめられると、たちまち意識は薄れた。受け止め きれずにあふれた唾液が白い頬を伝って落ちる。ぽとり、と首筋に落ちたそれが火傷する ほどに熱い。いつの間にか腕は彼の黒衣に縋り、体は彼の腕の中にあった。長い指が項に 潜り、背筋をなぞって腰を引き寄せる。無骨な手から繰り出されているとは思えない、 巧みで繊細な愛撫。暴力も嗜虐も、そこには無い。ナルサスは彼の髪にからめた指に力を込めた。

 …彼はこの身の汚辱を知らないのだ。

「…、んっ…」
「ナルサス…」

 息を荒げて離れた唇から、雫が糸をひいて落ちる。それを目で追うように瞼を伏せたナ ルサスの長い睫毛にまでも触れたい思いで、ダリューンはたった今口にした何よりも甘美 な酒の味を反芻した。寒さで白く煙る息が二人の間を覆っては風に流れて消える。若い体 は既に反応していたが、そこまでも許す彼ではあるまい。そう思いつつも、薄く色づいた 頬に誘われるように手を伸ばしたダリューンの目の前で、ナルサスが顔を上げた。

「…気が済んだか?」

 伸ばした手が止まる。

 己を見る琥珀の瞳は辺りの空気さながらに冷えていた。ついさっきまで官能に溶けて互い の熱を分け合っていた恋人はどこへ行ったのか。生ける死神とその名を恐れられる騎士の ダリューンが、青ざめて声もない。
「ナルサス…?!」
「もういいだろう。…明日は早くから駆けるのだ。追っ手も来ぬようだし、おぬしも寝た 方が良かろうな」

 一切の感情を感じさせない声で告げると、パルスの知将はするりとマントの陰から抜け出し、 エラム達が眠る岩陰へときびすを返した。何の気負いもなく背筋の伸びた、いつもの後ろ姿。

 彼は一度も振り返らなかった。


 風は刺すような冷たさで吹いていた。



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