「なあ、今日中に片付くと思う?」

「ああ、二人で作業しているぶん、なんとか間に合いそうだ。」

「まったく、この会社もどうかしてるよ。こんな量の仕事をたった二人に任せるなんて。おかげでここんとこ毎日、残業続きだよ。」

「まあそう愚痴るなよ。俺と毎日、二人っきりになれて嬉しいだろう?」

「はは、馬鹿言うなよ。もう、その顔にはうんざりだ。君と僕とは、小学校からの付き合いじゃないか。お互い、なんでも知らない事は無いくらいの仲だろう?。」

「へえ、俺のことをそんな風に思ってたのか。俺は、おまえのことを全部理解しているつもりは無いんだけどな。ヒトって、完全には分かり合えないもんだろう?」

「あれ、どうしたんだい?急に哲学的なことを言い出したりして。」

「俺は結構、哲学とか好きなんだよ。知らなかったのか?お互い、知らない事なんて無いくらいの仲なんじゃなかったっけ?」

「例えだよ、例え。それにしても、君が哲学に興味があるとはね。なら、何で大学は僕と同じ経済学部に来たんだい?文学部に行って哲学を専攻すれば良かったじゃないか」

「う〜ん、哲学を学んだって就職が無いだろう?だから、妥協して経済を選んだんだ。でも、今は少し後悔している。貧しくともいろんな思索に耽っていた方が幸せだったんじゃないか、ってね。」

「へぇ、そんなに悩んでるなら僕に相談してくれればいいのに……。そういえば君、最近ぼーっとしてることがよくあるよな。そんな事を考えていたんだ?」

「ああ、最近何か変なんだ。頭の中で警鐘が鳴っているような気がする。このままでいいのか、考えるんだ、と誰かに切迫されているような感覚に陥ることが多いんだ。それでぼーっとしてるんだろうな。」

「一体何を考えてるんだい?」

「ははっ、お前が聞いたところでおもしろい話じゃないよ。」

「そんな事ないよ。それによく言うだろ、哲学的思想は他人と論じあってこそ、考えが深化させられるって。僕も付き合ってみるからさ。」

「そうか。じゃあ、講義のようになるかもしれないけど聞いてみてくれ。あっ,もちろん反論してもらっても構わない。というより、そっちの方が有難いからな。じゃあ、始めるか。」

「どうぞ。」

「まず俺が考えていたのは、この世界の成り立ちについてだ。まあ、これは哲学の中でも最も基本的な題目だがな。お前は、何がこの世界をつくっていると思う?」

「何がって言われても…。気圧とか重力とか?」

「科学的に言うとそうなるかもな。でも俺はこう考える。この世界は個人が創ってるんだ。どう言うことかって思うだろ?順を追って説明していこう。例えば、目の前に缶があったとする。そこに缶があることはどうやって定められているのか?それは個々人の、缶がそこにあるという観念が決定付けているんだ。分かるか?」

「いや、なぜ観念で決められるんだい。そこに有るものは有るじゃないか。」

「じゃあ逆に聞くが、どうしたらそこに缶が存在していると確証できるんだ?」

「それは、目で確認するとか、手で触れてみるとか…。」

「じゃあ、缶を空気に置き換えてみたらどうなる?感触も無いし、目にも見えないが、そこに空気は無いのか。そんなことは無いだろう?」

「なるほど。分かったような分からないような……。」

「まあいい。俺が言いたかったのは、この世界には絶対的なものが無いって事だ。個人の捉え方によって、その世界は違うものになるからな。物ではなくヒトにしたってそうだ。俺は、おまえがそこに存在してるってことは間違いないと思うが、どんな人間かっていうのは、全くもって俺のイメージだ。他の奴からお前を見たら、かっこいいと思っているかもしれないし、気味が悪いと思っているかもしれない。すべてはそいつのイメージだ。お前の存在に対して、各人が自分の考えを押しつけているんだ。その数だけお前が存在する。分かったか?事物の定義なんてかなり曖昧だろ?」

「そうだね。でも、なにもかもの定義がきちんと定まっていないのなら、この世界は不安定過ぎるんじゃない?」

「ああ、絶対的なものは無いとさっき言ったが、唯一ひとつだけある。それは自分だ。自分がここにいることは間違いないし、どんな奴かも知っている。この世界は自分自身が創っている、っていうのはさっき言ったよな。自分の定義さえしっかりとしていれば、他はどうなっていても世界は形を成すんだ。」

「へぇ、君はその持論に結構自信を持っているみたいだね。」

「まあな。論が通ってるだろ。結局この世は自分だけだよ、信じられるのは…。そんなことより早く仕事の続きをしよう。そうしないと……」

「…ちょっと待てよ。なんで自分は絶対なんだよ?自分の感覚だって間違っていることがあるはずじゃないか。例えばこんな話を聞いたことがある。腕を事故などで切断したりしたヒトは、もう無いはずの指先が痛むといった幻覚症状が出ることがあるらしい。麻薬中毒のヒトは虫が体中を這っているような錯覚に陥るとも聞く。それはどう説明するんだい?」

「えっ…、そ、それは………。どういうことだ…?…俺の考えは間違っていたのか?いや、そんなはずは無い!しかし、どう考えればその話の筋が通るんだ……?」

「おい、君、なんか体がおかしいよ。どんどん輪郭が薄くなってきてるみたいだ!」

「ふふふ、そうか……。そういうことか。俺は間違ってはなかったよ。自分が信じたことは全て真実なんだ。たとえ世界がどうであろうとも。簡単なことだったんだ。そうだ、もう俺はこの自分でいる必要もなくなった。もっと早く気付けば楽だったのにな……」

「どういうことだよ?おいっ!どこに行ったんだ?おい?………」








 ふと気付くと、かなりの時間が経っていた。ここは、いつも勤めてる会社のオフィスだ。僕は、さっきまで一体何をしてたんだろう?


 ああ、そんなことはどうでもいい。今は、目の前にある書類の束を片付けないといけないんだった。

 まったく、この会社もどうかしてるよ。こんな量の仕事をたった一人に任せるなんて………。