イギリス「光輝ある孤立」の限界

福田潤一

1999年10月12日

編者評(伊神満)
2000年11月30日
第一次世界大戦の前史であります。
ビスマルク外交の終焉と、英独の建艦競争、という二十世紀初頭の欧州国際政治史は、
高校の世界史教科書でも詳しく紹介されていますが、本稿ではことさら目新しい記述は
見当たりません。比較的有名な事例であることから、何かしら新奇な 切り口ですとか、
理論的枠組みの画期的な運用といった、新たな視点によって興味を掻き立てて
ほしいところと考えます。

 このレポートでは、前世紀末から今世紀初頭にかけての英独関係のようすについて触れ、なぜイギリスが「光輝ある孤立」を放棄して他国との同盟の道を選んだのか、またなぜドイツがビスマルク外交を放棄して帝国主義への道を歩んだのかについて報告する。そして両者の対立の結果がどのようなものであったかを考察したい。

1、露仏同盟の結成
 19世紀におけるビスマルクの外交方針は独・墺・伊の「三国同盟」と独・露間の「再保険条約」により、フランスを孤立化させることが最大の目的だった。しかし、ビスマルクを追放したウィルヘルム2世はフランスにロシアと同盟することを許した。これは何故だろうか。また、ドイツにいかなる影響を及ぼしたのか。

2、イギリス孤立主義の限界
 ウィルヘルム2世の帝国主義的外交方針は、それまでヨーロッパで孤高を保ってきたイギリスの世界政策を脅かした。このことは前世期末の四つの危機となって現れた。これに対し、イギリスはどのような対応を採ったのか。それに対するドイツの反応はどうであったか。

3、英独世界争覇戦 ――その意味と結末――
 英独は世界の権益を巡って対立状態に入った。それは外交的にみてどのような意味合いを持っていたか。また、その結末はどんなものであったか。特に、ドイツの外交的な失敗はどこにあったのか。    

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* イギリスとドイツという二つの列強の動きを中心に、第一次世界大戦に至るまでの国際情勢を概観してみたいと思います。戦争を引き起こした両国の外交的失敗がどこにあったのかを探ることが目的です。
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1、露仏同盟の結成

 19世紀末のヨーロッパにおいて、ドイツの孤立を決定的にした最大の出来事はロシアとフランスの接近――すなわち露仏同盟の締結でした。このことはビスマルクがあれほど回避に全力を尽くしたドイツの二正面作戦を不可避のものとし、やがてドイツの軍拡と、イギリスの対抗とを引き起こし第一次世界大戦へと時代を導いていったのです。まずはなぜロシアとフランスがドイツを共通の敵として同盟を結ぶにいたったかについて考えてみたいと思います。

 そもそもヨーロッパの状況は、ビスマルクが宰相時代に行ったさまざまな条約関係によって細部までもれなく安全を保障されているはずでありました。ビスマルクはつねにドイツの安全を考えて、周辺国との勢力均衡を保つことに全力を注いできたからです。彼の残した業績は巨大ですが、中でも最大のものは独・墺・伊間の「三国同盟」とロシアとの間における「再保険条約」でした。ビスマルクは三国同盟によってフランスを孤立させ、再保険条約を結んでロシアと権益を確認しあうことで、ドイツの地政学的宿命から逃れることが出来ると考えていました。すなわちこれで二正面作戦の恐怖を考えなくてもすむようになるのです。一方、彼は植民地を求めないことで海洋国イギリスとの対立を避け、イギリスとの協調を求めるか、またはそこまでいかなくても「光輝ある孤立」を守らせることで英仏の連合を阻止しようと考えてもいました。もしも圧倒的な海軍力を持つイギリスを敵に回せば、フランスはその機を逃さずイギリスに接近し、ビスマルクの目指す「フランスの孤立」という目標が達成されなくなるからでした。これは事実上実現し、イギリスはドイツと同盟こそ結ぶつもりはありませんでしたが、またフランスとの関係も冷たいままに保ち続けました。このような深謀遠慮がヨーロッパを支配している間はドイツの安全は保障され、露仏の連合という最悪の事態は生じなかったのでありました。

 ところが、ビスマルクを追放した若き皇帝・ヴィルヘルム2世の考えはこれとは異なり、積極的に世界に植民地を求めて飛躍しようというものでした。彼は新政策の名を「新航路政策」と名づけました。ヴィルヘルム2世は興隆するドイツ資本主義を背景に、さまざまな地域においてドイツの利権を主張しようとしたのです。こうした姿勢がすでに海外に植民地を持つイギリスやフランスと対決しないはずがありません。特にバルカン半島を通ってバグダードまで行くアナトリア鉄道建設に関係して、ロシアとの仲も悪化の一途を辿ったのです。こうした一連の外交政策の転換が、ドイツのヨーロッパ内での孤立を決定的にしたと言えるでしょう。ではなぜヴィルヘルム2世はドイツの政策を転換させたのか。また、ロシアとフランスはどのように「外交革命」と呼ばれた画期的な同盟関係を持ち得たのか。以下詳しく見て行きたいと思います。

 まずヴィルヘルム2世の政策転換に関してですが、これはあながち皇帝の野心によるものばかりではありませんでした。当時はビスマルク時代に縦横無尽に張り巡らされた外交関係の網がそろそろ綻びをみせる時期に入りつつあったのです。まず、ドイツの急激な経済発展の影響が挙げられます。ビスマルク時代にもドイツの経済は確かに発展を遂げていましたが、それでもその規模は国内市場の枠を越えるものではありませんでした。ところがヴィルヘルム2世の時代には資本や金融制度の充実により、経済は飛躍的な発展を遂げ、国内市場だけでは製品を捌き切れない状態にまでなったのです。これがドイツの海外進出を促しました。次に、高まるナショナリズムの影響を考えることが出来ます。当時、表面的には穏やかでありながら、各国内では深い猜疑心や民族的対抗意識が渦巻いていました。こうしたものの最も顕著な例はフランスの「ドレーフュス事件」にみることができます。この事件では、ユダヤ人の砲兵大尉がユダヤ人であることを理由に嫌疑をかけられたのでした。ナショナリズムはドイツにおいても他民族との競合意識を醸成させ、国民は海外での植民地獲得競争に関心を向けるようになりました。そして、最後に所得格差に伴って生じる社会不安があげられます。すでにビスマルク末期からドイツの資本家階級と労働者階級の所得格差は大きくなっており、これが社会主義の台頭など、不穏な動きをもたらしました。これらから国民の目をそむけるためにもドイツは海外進出をする必要性があったのです。

 ただし、こうしたヴィルヘルム2世の外交は、必要以上に夢とロマンを追求しすぎたものでもありました。彼の下にはビスマルクに匹敵するような賢明な補佐役がおらず、皇帝が思いついたことはそのまま帝国の方針として実行されました。冷静な計算と十分な見とおしのない外交が成果を得ることはありません。これは彼の場合でも例外ではなく、やがて他の帝国主義国との対立をひきおこして孤立の憂き目を見るのです。それこそロシアとフランスが同盟を結んだことでありました。それまでロシアとフランスは、一般的には決して同盟を結ぶことはないだろうと思われていました。なぜなら両国は一方が専制君主制、一方が民主主義国とその政体を異にするからです。イデオロギーを異にする国家同士が同盟関係を結んだことはありませんでした。そのため、ヴィルヘルム2世も強引なやり方を採りながら、露仏同盟の可能性については少しも考えていなかったのです。彼は、まずビスマルクが苦心して結んだロシアとの間での「再保険条約」の更新を拒否しました(1890)。ロシア側が強く望んだにもかかわらず、皇帝は独露の接近は無意味としてこれを却下したのです。「3B政策」によりバグダードまでの鉄道敷設を望むドイツにとって、バルカン地方で衝突するロシアは所詮敵でしかありませんでした。またドイツとしては、秘密条約であるこの条約がオーストリアとの関係を損ねることも心配していたのです。ところがこれによりロシアはフランスとの接近を考え始めるようになりました。

 わずか3年にして再保険条約は破滅をむかえました。今やドイツはビスマルク時代とは違い、経済でも軍事でも自信満々の姿勢でヨーロッパに君臨するようになりました。この状況に危機感を覚えたロシアは、フランスとの同盟を真剣に考慮するようになったのです。実はロシアは、こうなる以前から密かにフランスとの関係を強化していたのです。それは金融面における関係でした。19世紀末のロシアでは、軍備や鉄道、財政赤字の補填のために多大な国債を発行していました。これらの国債は主に海外市場において取引され、1887年頃まではベルリンがその主な捌き場所でした。ところがドイツにおいてロシアの経済政策に対する猛烈な非難が開始され、ビスマルクもこれを抑えることができなかったため、1888年を境にその市場はパリへと場所を移動したのです。この年はシベリア鉄道起工のための募債が行われた年であり、ロシア側の申し入れにドイツが反応を示さなかったのが大きな理由でした。ところがフランスの銀行には資金が豊富にあり、高利回りで運用されるロシア債権に国民も好意的でした。本格的な移動は1889年と1890年の二年間に起こりました。この時期に20億フランもの金がフランスの預金者からロシアに貸し付けられ、この影響はフランスの新聞紙上にロシア寄りの形で如実に表れました。政府間のやり取りには現れないものの、民間のレベルでは確実に両国の接近が行われていたのです。この結果、91年にまず露仏政治協定が締結され、続いて92年にドイツを仮想敵とした軍事協定が加えられ、最終的に94年に露仏同盟が誕生したのでした。

 従来の国際政治の慣習を破って成立したこの同盟は、その過程の特異さから「外交革命」とまで呼ばれました。いまや、共通の敵への対処が国家間のイデオロギーの違いをも乗り越え得ること、さらに、金融という意外なつながりから軍事同盟が誕生し得ることが立証されたのです。これはヨーロッパにおける新たな外交の梠繧フ始まりを意味していました。そしてなにより、ビスマルク時代の終焉を意味していました。これによりフランスはビスマルク以来の孤立を脱し、逆にドイツが両国の間にはさまれて孤立してしまうことになるのです。これは全くドイツの予想外のことでした。しかし、成立初期の露仏同盟は期待通りの成果を発揮しなかったため、ドイツはその本当の意味をわきまえないまま帝国主義政策にひた走ることになります。そのつけはやがて現れてくるのですが、とりあえずはイギリスに対する挑戦がドイツの主要な国家目的となりました。当時海洋帝国イギリスの覇権は凋落の一途にあったのです。次は、このイギリスの覇権凋落について述べたいと思います。

 

2、イギリス孤立主義の限界

 世界に先駆けていち早く産業革命を起こしたイギリスは18、19世紀に渡る2世紀もの間、最大の通商国家として、また最強の海軍国として世界に君臨し続けました。その主な戦略は、ヨーロッパの勢力均衡が保たれている限りこれに介入しないとした「光輝ある孤立」と、積極的に植民地を拡大してヨーロッパとの交易を独占する事の二点にありました。ところがこの原則は19世紀末に動揺しはじめます。台頭するドイツの勢力がその海上覇権を脅かし始めたからでした。ここでは、イギリスが世界でどのように覇権を失い、その孤立主義を破綻させていったかについて述べたいと思います。

 ヴィルヘルム2世がその施政方針たる「新航路(ノイエクルス)」政策を発表したとき、すでに彼の頭のなかには海外の植民地を守るための強力な海軍の創設が想定されていました。彼は「ドイツ帝国の将来は海上にあり」と宣言して英国の制海権に挑戦する意向をあらわにしたのです。なぜドイツはここにきてはっきりとイギリスに対決する姿勢を示したのでしょうか。その背景には、ドイツの急速な経済発展に伴うイギリスの相対的な覇権の凋落がありました。19世紀後半、イギリスの経済成長率はすでにピークを過ぎて下り坂にあったのです。1860年代には3.6%だったものが70年代には2.1%に低下、そして80年代には1.6%にまで下がっていました。これは、イギリスが生産技術を独占しきれなくなったことが最大の原因でした。一国で技術を独占している間は比較優位を維持できますが、時が経って後進国がその技術を模倣しはじめるとシェアを奪われ、停滞してきます。イギリスが先進国として繊維産業に重きを置きすぎたことも災いしました。後進国はイギリスのように個人資本が豊富でないので、政府が集中的に資本投下することで産業を発達させる傾向がありますが、その資本がどこへ向かうかといえば新興産業である重工業なのでした。後進国ドイツにとって、先進国であるイギリスを追い掛けることは、「技術の模倣」、「新産業への特化」という二点において有利だったというわけです。ところが、イギリスでは国内産業の技術革新は行われず経済は停滞したままでした。

 こうして国内産業への資本投下が鈍化したイギリスでは、代りに海外への投資が活発化するようになりました。ところが、これがさらにイギリスの優位を危うくしていく原因となりました。なにしろ海外投資された資本はすべてその国の産業育成に貢献します。投資すればするほど、イギリスの比較優位は崩れて行くのが目に見えていたのです。こうした状況を政府がストップできれば良かったのですが、当時ちょうど力をつけ始めてきていた金融資本家という存在を政府は操ることができませんでした。彼らは国家権力の経済への介入や、保護主義的な貿易政策に対して強い反発を示したのです。こうして、19世紀末のイギリスの優位はまず経済において崩れて行くことになりました。

 つづいて起こった四つの危機が世紀末のイギリスの施政方針を大きく揺るがしました。第一の危機は、1898年にスーダンで起こった「ファショダ事件」でした。エジプトからナイル川沿いに遡るイギリス勢力と、サハラ方面からジプチにかけて植民地拡大をめざすフランスの勢力が、ファショダ地方で激突したのです。これに対し、イギリスはただちに海軍に動員体制をとらせて対仏威嚇の動きに乗り出しました。これに答えてフランスも戦争を準備するかに見えたのですが、国内が混乱していたうえ、海軍力に自信がなかったため涙を飲んで対英譲歩を行いました。この事件はフランスのイギリスに対する感情を大きく悪化させたといいます。第二の危機とは、同じ年にドイツの採択した「第一次艦隊法」のことを指します。熱烈な海軍拡張主義者ティルピッツ提督の言が皇帝の目にとまり、いよいよドイツが大海軍の建設に乗り出したのです。その主たる目的は以下のようなものでした。すなわち、イギリスは「二国標準主義」を採用して、自国に追随する二位と三位の海軍力を合わせた以上の勢力を有している。それに対しドイツが勝利を収めることは出来ないェ、たとえ独海軍が全滅しても、それにより英国の二国標準主義を崩せるのであれば十分な牽制能力があるといえるのではないか。こうしたティルピッツの考えを「危険理論」と呼びます。この思想を採用したドイツは次々に軍艦を竣工させ、英国の海上覇権を揺るがす動きに出たのです。イギリスは同じ年にフランスに加えてドイツの脅威を受けねばなりませんでした。

 そして1899年には第三の危機がイギリスを襲うことになりました。イギリスは金鉱を求めて南アフリカのトランスヴァール共和国、オレンジ自由国に宣戦を布告したのは良かったのですが、40万もの大軍を送ったにも関わらず、戦いが泥沼化してしまったのです。いわゆる「ボーア戦争」の発生でした。この戦争は、イギリスに反感を持つフランスやドイツが密かにボーア人側を支援したために2年半もの間続き、この間イギリスは孤立の負担を厭と言うほど味わいました。ヨーロッパでの問題を抱えたまま、南アフリカに出兵するのはイギリスにとって困難なことであったに違いありません。ところが、この戦争が勃発して間もない1900年には早くも第四の危機が極東から伝えられてくるのです。清国の北京で、外国人排斥運動である「義和団」の勢力が公使館を目指して進軍してくるというのです。イギリスはただちに列強8ケ国からなる連合軍を組織し、義和団を駆逐して清との間に北京議定書を結んだのでした。ところが問題はこれで解決はしませんでした。事件後、密かに清国と密約を結んだロシアが満州から撤退せず、虎視眈々と韓国を狙うそぶりを見せたからです。中国に多大な権益を持つイギリスにとってこのことは看過し難い出来事でした。しかしイギリスにはとても極東にまで手を回す余裕は無くなっていました。緊張度を高めるヨーロッパの問題に加え、ボーア戦争の継続、そしてロシアとの対決までを同時にやれば、ついにイギリスの国力は破綻をきたしてしまうことでしょう。

 そこでイギリスはここに至ってついに「光輝ある孤立」の方針を放棄することを決めたのです。すでに世界中に拡大したイギリスの危機をすこしでも減らすには、どこかで有力な勢力の国家と手を結ばねばならないという結論に辿りついたのです。第一の候補としてはドイツがありました。当面、イギリスは同盟関係にあるロシア・フランスと対立しているわけであり、それには両国と敵対するドイツとの同盟がもっともふさわしいというわけでした。アングロサクソンとゲルマンという民族の接近性もこの同盟に有利な要素といえるでしょう。第三次ソールズベリー内閣(保守党)は、植民相チェンバレンの助言によって真剣にドイツとの同盟を考慮したのです。ところが、ドイツの態度は実にそっけないものでした。ビスマルク以後ドイツの外交政策を担う人材は、ホルシュタインやビューローというあまり先見性のない人物であり、ドイツの力に奢りを抱いて他国との同盟など必要だとも感じていませんでした。それどころか、イギリスがどのような覚悟を持って「光輝ある孤立」を放棄したのかをわきまえず、三国同盟への加盟を要求したり、3B政策と3C政策の衝突点ばかりを指摘するような行為にでたのです。皇帝に追随する彼らには英独の建艦競争のことしか頭になく、露仏同盟によるドイツの危機にはまるで無頓着であったとしか言いようがありません。ついにイギリスは英独同盟を諦めざるを得ませんでした。そして、世界があっと驚く意外な行動をとるのです。

 1902年、バルフォア内閣の外相ランズタウンは突如として日本と同盟関係を結んだことを発表しました。イギリスは、満州におけるロシアの圧力を減じるには「極東の憲兵」たる日本の力を借りるのがベストだと判断したのです。日本はドイツとは違い、3B政策のようなイギリスの利権と対立する政策は採っていませんでした。そこが決め手となりました。しかし、これは英独同盟交渉の結果生まれた副産物と言うことができるでしょう。この計画をもともと持ち出したのはドイツの公使エッカルトシュタインで、当初は日英独三国同盟という触れ込みでした。それがいつのまにか英独同盟の破綻で日英間だけで語られるようになり、日本側の積極的な後押しもあってついに実現したというのが正確なところでした。その意味で、イギリスはドイツとの間におけるものほど日本との同盟関係を重視することはありませんでした。イギリスが日本に期待することはただ一つ、満州において自国の代わりにロシアと戦って貰いたかったのです。その間にヨーロッパの対処に専念しようというのがイギリスの狙いでした。そして、日本がこの役割を忠実に担ったことが、ヨーロッパにおける新たな外交関係の幕開けとなったのでした。      日露戦争が勃発した際、英国はなによりこの戦争がヨーロッパへ波及することを恐れました。ロシアと同盟を結んでいるフランスが参戦することになれば、当然日本と同盟を結んでいるイギリスと敵対関係になってその結果大国間戦争が開始されかねなかったからです。だからこそイギリスは、日英同盟に「片方が一国と交戦した際はもう一国は好意的中立を保ち、片方が複数国と交戦した際はもう一国も宣戦布告する」という条文をはさんでフランスの日露戦争への参戦を防いだのでした。と同時に、イギリスはヨーロッパにおいてフランスとの関係改善に乗り出したのです。イギリスはフランスとの協調が困難な理由はファショダ紛争以来のアフリカにおける植民地係争にあると判断して、この点で対仏譲歩を行うことによりイギリスの抱えている困難を打破できると確信したのです。この時のイギリスの懸念はひとえに自国の「二国標準主義」が崩れることにありました。もしも地中海でフランスとロシアの艦隊が協力してイギリスの覇権に挑戦するようなことがあれば、イギリスはその対処に追われて増強したドイツの艦隊に背後を脅かされる可能性がありました。イギリスは今や、ヨーロッパの情勢が伝統的な「勢力均衡」でも「協調」でもなく、極めて流動的なものであることを鋭く見ぬいていました。そしてこのような状況では一国だけが「孤立」を宣言できる状態ではないこともまた良く判っていたのです。最終的に、バルフォア首相やランズダウン外相、チェンバレン元首相などが中心になって、対仏接近が決断されました。これにフランス側のデルカッセ外相やカンボン駐英大使などが応じたのです。

  フランスもこの時、英仏が手を結ぶことによって得られる利益は大きいと判断したのです。露仏同盟の挟撃に加え、英仏協商による海上提携が成立すれば、長年の宿敵であるドイツを決定的に孤立させることが出来るようになるからです。デルカッセは1901年くらいまではドイツとの提携も視野に入れて外交を行っていました。しかしドイツはこのフランスの接近をイギリスに同盟を高く売りつけるための材料として使用したのです。結果としてイギリスが同盟を諦めた以上、フランスとしては積極性を見せないドイツよりも、積極的なイギリスとより手を結びたいのは当たり前でした。それに加えてフランスには、イギリスに接近することでヨーロッパの均衡をより自分に有利にしたいとの思惑がありました。孤立したドイツは何らかの形でフランスに譲歩せざるを得ないわけですが、フランスはその時普仏戦争時に奪われたアルザス・ロレーヌ地方奪還のチャンスがあるのではないかと睨んでいたのです。

 以上のような理由をもって、両国は1904年4月8日に歴史的な「英仏協商」を締結しました。両国間の植民地問題は一応の解決を見、ドイツの孤立はいよいよ決定的になりました。ひとたび孤立主義を投げ出したイギリスはどんどん自国に対して有利な連携を求め始めました。そしてわずか3年後にフランスの仲介で、19世紀あれほど「グレート・ゲーム」を繰り返したロシアとの間に「英露協商」を結んでしまうのです。ここにおいて英・仏・露の「三国協商」が完成し、独・墺を中心とする「三国同盟」との対立の構図が出来あがりました。イギリスの「光輝ある孤立」は過去のものとなり、大国の連携同士による熾烈なパワー・ポリティックスが展開されるようになるのです。そこで次はイギリスとそれに対抗して国力を増強させるドイツとの間の熾烈な争いについて述べたいと思います。

 

3、英独世界争覇戦 ―その意味と結末―

 19世紀末から、劇的な経済発展を遂げるドイツと伝統的な覇権国であるイギリスとの対立は水面下で続いていました。それが表面化したのはヴィルヘルム2世が即位して後、とくに第一次艦隊法を制定して明確にイギリスの海上覇権への挑戦を宣言してからあとでした。ビスマルク時代には、ドイツは確かに大陸軍国ではありましたが、海外への志向を抱かなかったためにイギリスとの対立は起こる余地がありませんでした。ところが今ではドイツも一流の帝国主義国として海外に市場を求めることを要求するようになったのです。英独の対立は、「追うものと追われるもの」という一種不可避な宿命を背負った対立でもありました。

 イギリスとドイツの貿易額の増え方をみると、新興国であるドイツがいかにイギリスの市場を脅かしていたかということがよくわかります。1890年のイギリスの貿易輸出額は81.9億フラン、それに対してドイツは40.5億フランに留まっていました。ところが、これが1900年にはイギリス89.2億フランに対してドイツ57.8億フラン、1913年にはイギリス159.7億フランに対してドイツ123.0億フランにまで接近してくるのです。ドイツの前年比成長率はイギリスのものを遥かに凌駕するスピードで伸びていました。これだけの国内産業の成長のはけ口はどうしても海外に求めざるを得ないものでした。ところが、ドイツでは伝統的に海軍が弱体でした。たとえば、1890年時におけるイギリスの艦隊総トン数が67.9万トンであったのに対し、ドイツではわずかに19.0万トンでしかなかったのです。海外の植民地との通商を考えると、このことは大きなハンデでした。そこでヴィルヘルム2世は大海軍の建設を指示したのでした。これが1898年の第一次艦隊法の成立であった、ということは前述した通りです。

 と同時に、ドイツは海外で積極的に帝国主義的な活動に手を染めるようになりました。1895年にはフランス、ロシアと結託して日清戦争後の日本から遼東半島を取り上げるという「三国干渉」を行い、その代償として98年には清国から膠州湾を租借し、95年にはイギリスに敵対的な行為をとったトランスヴァール共和国のクリューガー大統領に祝電を送るという「クリューガー事件」を引き起こしました。97年には清国に圧力をかけて青島を租借地とし、98年には皇帝が中近東を訪問してダマスクス演説を行いました。そして翌99年には太平洋上のマリアナやパラオといった島々を自国の植民地とし、南アフリカではボーア戦争でイギリスと戦うボーア人に平然と武器・食料の供給を行っています。こうした行為がイギリスとの深刻な利権の対立を引き起こすものであったことはいうまでもありません。こうしてドイツとの衝突を懸念したイギリスが、1898年ころから1901年ころまでドイツとの同盟を真剣に模索したことはすでに触れました。

 ところが英独同盟に対するドイツの反応はそっけないものでした。ドイツはイギリスの申し出に対して満足に応対しなかったばかりか、交渉途中である1900年に「第二次艦隊法」を通過させて、露骨にイギリスに挑戦する姿勢に出たのです。これはあの「危険理論」を主張したティルピッツ提督の後押しによるもので、1920年までに戦艦38隻を常備することを定めた大海軍拡張計画でした。もはやこうなってはイギリスもドイツとの対決を避けるわけには行きませんでした。極東で日英同盟を結んでヨーロッパへの対処を最優先する一方、フランスとの関係を強化して英仏協定を結び、さらにドイツの建艦競争に対抗するために1906年に新型戦艦ドレッド・ノート級の竣工に成功します。このドレッド・ノート級は、従来の12インチ砲、連装二基(砲四門)を、副砲を撤廃して連装五基(砲十門)にして火力を高めたもので、それまでの戦艦を一気に旧式のものに変えてしまいました。続いて1907年には英露協商を結んで三国協商を完成させ、ドイツに対して完全な包囲網を形成したのでした。

 一方ドイツも負けてはいませんでした。英仏協商締結後のドイツはいよいよイギリスとの覇権争いの姿勢を明確にし、1905年、突然モロッコのタンジールに上陸して「大一次モロッコ事件」を引き起こします。これは直接にはフランスの持つ利権の妨害を目的としていましたが、ドイツにとっては締結したばかりの英仏協商の実行性を確かめるという意味合いもありました。不幸にしてこの時の英仏の結束は強く、ドイツは翌年開かれたアルヘシラスの会議で惨めな撤退を余儀なくされました。領土保全と機会均等を強調するはずが逆にドイツのアフリカ進出の野望を砕くものになってしまったのです。それでもドイツは06年、08年、12年とさらなる艦隊法の改正を行ったり、08年には毎年4隻の戦艦建造計画を発表するなど、建艦競争ではイギリスを追随する勢いを見せました。そして、戦争の始まる14年までにドレッド・ノート級の戦艦を13隻も作り上げたのです。こうしたドイツの勢いに対し、イギリスは建艦競争中止のための話し合いを再三にわたって申し出ましたが、いずれも失敗に終わっています。

 08年には、バルカンでの衝撃が英独の対立に火を注ぐ結果になりました。ドイツと同盟を結んでいるオーストリア・ハンガリー帝国が、突如クロアチアに隣接するボスニア・ヘルチェゴビナ地方を併合したのです。このことはボスニアに多数居住するセルビア人勢力の反感を招き、セルビア共和国との間が険悪になることを意味していました。セルビア共和国の後ろには、ボスポラス・ダーダネルス海峡の使用を巡ってオスマン・トルコの力を牽制したいロシアが控えています。オーストリアがこの地域に干渉することは、必然的に 三国協商 対 三国同盟 の対立を引き起こすポテンシャルを秘めているのです。幸いにして、この時のロシアは日露戦争の痛手から立ち直れず、オーストリアの行為に譲歩せざるを得ませんでした。しかしこれが後々尾を引いて第一次世界大戦を引き起こす原因となってゆくのです。こうした国家の対立に英独も巻き込まれる他はありませんでした。

 1911年にドイツが起こした「第二次モロッコ(アガディール)事件」は、ヨーロッパの対決の構図を最終的に定着させた事件でした。ドイツはフランスのモロッコ進駐をアルヘシラス協定違反と抗議して、アガディール港に軍艦を派遣したのです。再び植民地をめぐる独仏の交渉が始まりました。交渉は難航しました。最終的にイギリスがフランスの支持を打ち出したことから、仏のモロッコ保護権をドイツが承認する代りに全コンゴを得るという形で事件は決着をみました。ドイツは結局今回も妥協を余儀なくされたのです。こうして、二度にわたるモロッコ事件で英仏の連携と独の孤立という構図が決定的になりました。これ以後、英仏は独に対抗するために英仏軍事協議を開始したり、地中海艦隊を削減して北海艦隊を強化するような行動を開始したのでした。両国が第三国(ドイツ)から攻撃を受けた場合はただちに協議を開始すると決められたのもこの時でした。

 そして世界がこの事件に目を奪われているとき、イタリアがトルコに宣戦して伊土戦争が始まりました。この戦争はトルコの弱体化とバルカン連盟の結成を誘発し、1912年には第一次バルカン戦争が起きました。バルカンからトルコは駆逐され、その後、マケドニアの領有を巡ってセルビアとブルガリアの間に第二次バルカン戦争が勃発します。セルビアの背後にはロシア(三国協商)がおり、セルビアに敵対する勢力は独墺(三国同盟)への接近を強めました。そして1914年、サラエボでオーストリア皇太子が暗殺される事 件が起き、ヨーロッパは第一次世界大戦へと引きこまれていくのです。

 なぜこのようなことになってしまったのか。どうして英独の対立はここまで決定的になってしまったのか。その背景には、イギリスの経済的な衰退もさる事ながら、何と言ってもドイツの外交的な稚拙さが目につきます。イギリスは、19世紀末にあまりにも多方面に手を伸ばしすぎたのが一つの外交的失敗でした。ヨーロッパでフランスとドイツを牽制し、アフリカでフランスと植民地獲得競争を行い、インドの反体制勢力を鎮圧して、たほう清国の権益を巡りロシアの南下を懸念するのはさすがのイギリスと言えども手に余るものがあったのです。それを政府はボーア戦争の勃発で嫌というほど思い知らされました。しかし自国の限界を悟ったイギリスの行動はすばやいものでした。1902年には日英同盟を締結、その2年後には自国から積極的に英仏協商を成し遂げてゆくのです。これに比べればドイツはただ自国の力を背景にして行動していたと断言しても構わないくらいでしょう。事実、ドイツの外交は露仏同盟を食い止められなかったところからほぼ全て失敗といっても決して過言ではありません。全てはヴィルヘルム2世の夢とロマン、そしてドイツの政治家にビスマルクに匹敵する人材が出なかった不幸に由来するのです。

 ドイツの最大の失敗は、イギリスが光輝ある孤立の放棄を考え始めた時期に英独同盟を成し遂げられなかったところにありました。この時ドイツは何をさておいてもイギリスとの同盟を優先させなければならなかったのです。本来ならすでに露仏同盟で東西両面の作戦を余儀なくされている状態で、これ以上ヨーロッパに敵国を作り出すわけにはいかないはずだからです。イギリスと同盟を結べばフランスへの牽制が期待できるし、極東でのロシアに対する牽制も期待できたに違いありません。ところがドイツはそのような行動をとらずにあくまでイギリスの海上覇権に挑戦する行動を採りつづけました。それならそれでイギリスに対抗するために三国協商に楔を打ち込むような外交が新たに求められるはずなのですが、ドイツはそうした努力をすることも怠りました。二度にわたるモロッコ事件はいずれも英仏の関係を強化する方向に影響してしまったのです。加えて、ドイツはビスマルク時代の三国同盟がいかに時代にそぐわなくなってきているかという事実の確認をすることも怠りました。イタリアなどという無用の長物を取り込み、オーストリアという自国と違う地域における権益に関心を示す他国を後生大事に同盟国として身内に抱え込んでいたのです。その結果、本来ドイツとは何の関係もないはずのバルカン地方における オーストリア 対 セルビア の構図が全ヨーロッパを戦争に巻きこむきっかけとなる事態を招いたのです。

 英独世界争覇戦自体は、経済における「追うものと追われるもの」という構図を考えれば、ある程度はやむを得ないものであったでしょう。ドイツには植民地が必要であり、それはイギリスも十分わかっていたことだと思います。しかし対立を切り上げる「潮時」というものがありました。それは、イギリスがボーア戦争で光輝ある孤立を放棄する決心を固めた時に訪れました。繰り返しますが、ドイツはこの時絶対にイギリスとの宥和の道を選ぶべきであったのです。それはヨーロッパ全体の未来を決める重大な意志決定でもありました。ところがドイツはそのチャンスを不意にしてしまったのです。不意にしたばかりか、自分からイギリスを挑発して苦しい建艦競争へと突入していく羽目になりました。これはあまりにも無謀な試みといえるでしょう。こうした無謀な外交の結果、第一次世界大戦が始まったときにドイツはほとんど孤立無援の戦いを強いられたのです。英独世界争覇戦の意味――それは自国の力を奢って周到な外交をおろそかにすることの愚かさを示しているのではないでしょうか。そして、その結末は戦争でした。

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