GW明け 読書レポート
提出日:18/05/2000
16197099 福田 潤一
冷戦とは何だったのか
ヴォイチェフ・マストニー著 秋野豊・広瀬佳一
訳 柏書房
冷戦が終わってすでに10年以上が経過しているが、世界を大きく体系付ける新時代の国際秩序はいまだはっきりとした形で現れてきてはいない。いくつかの冷戦期とは明らかに違う国際的な原理が登場してきてはいるが、それがどこまで現在の国際秩序に影響を及ぼすのかはっきりした解答が得られていないのが現状である。我々はいまだ、現在の国際状況を形容するのに「ポスト冷戦期」という言葉を使わざるを得ない。本当であれば、この「ポスト」に当てはまるべき何かが見出されなければならないのであるが、それを未だに見つけることができないところに現在の国際政治の抱える根本的な問題が存在しているように思われる。
さて「ポスト冷戦期」たる現在の状況を本質的に考察し、そこから何か歴史的な教訓を引き出そうと考えるならば、やはりその第一のステップとして20世紀後半の世界秩序を体系付けた冷戦に対する深い洞察が不可欠となるであろう。冷戦こそは20世紀の国家間の対立の姿を根本的に変革した国際政治の一大事象であった。冷戦の開始とともに国際政治に巨大なパラダイム・シフトが生じたことはいまや歴史の真実として受け止められている。イデオロギー対立と核抑止に基づく「非軍事的単独行動の応酬(永井陽之助)」は、それまでの国際秩序を規定していた勢力均衡原理とは大きく性格を異にしたものだった。しかしながら、なぜそのようなパラダイム・シフトが生じたのかについては、これまで十分な説明がなされてこなかったように思われる。冷戦起源論を語る時、ある者は共産主義イデオロギーの攻撃的性格をその原因として指摘し、またある者はアメリカのヨーロッパへの積極的な関与がソ連の否定的反応を引き起こしたと説明する。しかし、このような説明は必ずしも十分に説得的であるとは言い切れない。というのは、これらが専らアメリカからみた分析であり、ソ連側のパーセプションが十分反映されてこなかったからである。
本書「冷戦とは何だったのか」は冷戦後明らかになったソ連側の資料をふんだんに活用し、新しい冷戦起源論を打ち立てようとするものである。著者マストニーはチェコの出身であり、従来アメリカよりに偏りがちだった冷戦史に新たな視点を盛り込むにはうってつけの立場にある。著者は本書のテーマを冷戦の起源に対するスターリン個人の影響に限定し、いままで指摘されてこなかったいくつかの新たな事実の発見に成功している。本書における著者の主張は一貫している。それは、スターリンの異常なまでの安全保障への欲求が、戦後におけるソ連の対外行動を規定し、国内の粛清、ユーゴとの対立、ひいてはスターリン自身も望んでいなかったヨーロッパ分断と東西のブロック化にまで繋がって行ったということである。
マストニーによれば、冷戦の起源を考える上で本質的なのは外部勢力によって「つねに脅かされている」と感じるソ連指導部の認識であるという。マストニーはそれを “insecurity” と表現しているが、これはとりわけスターリンによくあてはまる。共産党指導部でのあくなき権力闘争に勝ち抜いて権力の座についたスターリンは、ともすれば国家の安全と自己の安全を混同し国内の権力基盤の弱体化を外部の脅威の増大と勘違いする所が多々見られた。また。自己の安全感覚を国家間関係にまで適用するがゆえに、国際関係を必要以上にパワー・ゲーム、ゼロサム・ゲームとして捉えてしまう所があったようである。1934年に始まるソ連の大粛清をマストニーは次のように説明している。すなわち、本来であればこの時、ソ連は来るべきドイツとの戦争に備えて国内の再結束を図らねばならないはずであった。しかしスターリンが外敵の脅威と内的な危機を混同したがために大粛正が行われ、その結果、かえってソ連の国際的な安全保障が脅かされたというのである。
スターリンの安全保障の意識は、外的にというよりはむしろ内部に対して強かったようである。そのことはスターリンの東欧に対する政策に大きな影響を与えた。マストニーによれば、スターリンはもともと東欧をブロック化して西側とヨーロッパを分断することを望んではいなかったという。それどころか、ソ連はドイツに対しても分裂よりは統一を望んでいたというのである。これはスターリンが西側、とくにアメリカの反発を恐れたためであった。西側との間で分断されたヨーロッパは確かに東欧におけるスターリンの支配を約束してくれるかもしれない。しかしスターリンの究極の目的は、西側との対立を引き起こすことなしにドイツ・東欧諸国にソ連の影響力を及ぼすことにあった。彼が想定していたヨーロッパは、各国が弱くてバラバラになり、どの国も彼の意向に反することはできないというものだったのである。スターリンはドイツに対しても、東欧に対しても、必ずしも共産主義政権を望んでいたわけではなかった。むしろ、彼は東欧の共産化はアメリカの強行な反発を引き起こす恐れがあるので望ましくないとすら考えていたらしいのである。スターリンはなによりもアメリカの介入を恐れていた。そこで、極めて反米的であったユーゴのチトーのような指導者は、スターリンにとってときに武器にもなったが、また頭痛の種にもなったのである。
スターリンは東欧の指導者は共産主義者でなくても構わないが、ただスターリンのコントロールが及ぶ人間でなくてはならないと考えていた。だがチトーは共産主義者ではあってもスターリンのコントロールの及ぶ人間ではなかった。このソ連とユーゴの関係悪化が、のちにスターリンが当初は望んでいなかった東西冷戦への複線となってスターリンを陥れることになるのである。ユーゴの党幹部は、ともすれば西側に対し妥協的になるスターリンを生ぬるいと感じていた。チトーはアメリカに対し敵対的な同盟を作るため、バルカン連邦構想をブルガリアと練り上げる一方、ギリシャの共産勢力を支援するためにアルバニアのユーゴへの併合を認めるようにスターリンに働きかけた。スターリンは最初ユーゴのこうした行動を支持する姿勢をとった。しかし、やがてアメリカの反応が明らかになってくるにつれてユーゴの自立的な行動を制約するようになる。
アメリカほか西側諸国は東欧における共産勢力の浸透に大きな関心を抱いていた。西側は、ヤルタでスターリンが誤解したように東欧をソ連の勢力圏として承認したつもりはなかった。そこで、アメリカは特殊工作員をパラシュートでアルバニアに送り込み、様々な妨害活動を展開したのである。スターリンはアメリカのこの動きに注目した。スターリンにとってみれば、自己のコントロールが効かないところでアメリカとの対立が発生してしまうことは大きな誤算であった。そこでユーゴに対するコントロールを取り戻すべく、強硬な手段を決断するのである。スターリンはチトーに対し、ソ連の指導から外れて独自の社会主義路線を採ることを強烈に非難する文面を送付した。また外相モロトフも似たような文面をベオグラードに向け送った。スターリンは、あくまでもソ連が少し圧力をかければユーゴはすぐに政策を変更するだろうとたかをくくっていたのである。しかし、チトーはこれに断固として屈しなかった。後の中国との関係においても言えることであるが、ユーゴはスターリンの支援を必要とせずに誕生した極めて独立性の高い共産主義国であった。チトーは国家を運営してゆくために必ずしもスターリンの承認を必要としていなかったのである。スターリンはそのことを充分に理解していなかった。スターリンとチトーの対立は、スターリンの東欧の指導者としての信頼性を大きく損なうものであった。最終的にスターリンは東欧各国の共産主義者の「独自の社会主義の道」をとる可能性を否定する形で影響力を維持したものの、もっとも反米的だったユーゴをもっとも反ソ的にしてしまったという点で、これは明らかに西側に対するソ連の戦略的後退であった。
そしてスターリンは、これを補う為にベルリン封鎖を実行するのである。もともと、スターリンはドイツに対して強烈な思い入れを抱いていた。マストニーはスターリンはあらゆる点において東洋の専制君主の典型だとしながらも、その視点は常にヨーロッパに注がれていたと記しているが、彼にとっての理想のヨーロッパとはまずなんといっても自分が影響力を行使しうるドイツのことを指していた。彼は分割され半分がソ連に敵対的なドイツよりも、統一を維持し、自分の影響力を及ぼしやすいドイツの方を望んでいたのである。しかし西側はこれ以上ソ連との共同統治を続けることへの不安を隠さなかった。ソ連の限りない通貨発行がインフレを起こすことを恐れて、西側は西側占領地域のみで通用する共通通貨の発行を決定した。これは、スターリンにバルカンでの失地を取り戻す抜群の機会であるかのように映った。スターリンの目的は、東欧においてソ連が指導者としての信頼性を失ったようにドイツにおいてアメリカの信頼性を失わせることにあった。彼は、西側の行動をドイツの分割を引き起こすものとして非難しながらも、実際には自分のほうから分割を決定づける行動をとった。すなわちソ連占領地区に対する西側からの物資の流入をストップさせたのである。
これは、スターリンにとってみれば西側に対してソ連との共同統治を継続するように迫る一つのブラフに過ぎなかった。その証拠に、彼は西側による空輸の道は残して巧みに軍事対立を避けていたのである。しかし彼のこの行動は結果的にドイツの分割を早める結果を残した。アメリカは空輸を続行し、スターリンは封鎖の撤廃を余儀なくされた。彼が分裂を期待した西側諸国の関係は、封鎖によって一層強化されただけに終わった。ユーゴの失敗に続き、ドイツでも敗北を喫したスターリンは、今やベルリンを「封鎖」するどころか、自分自身が敵によって「封鎖」されているのではないかという妄想を募らせて行くのである。そのため、スターリンは東欧諸国において容赦のない大粛正を開始したのであった。これはかつて彼がナチスを前にして行なった事の正確な再現であった。スターリンは、これにより東欧諸国が独自の社会主義の道を歩む可能性をほぼ完全に否定した。しかし肝心の西側に対する戦略的失地の挽回という点ではなんら進展をみることはできなかったのであった。
さて、ベルリン封鎖によってドイツは実質的に分割され、ソ連は共同統治国として西独地域に口を出す資格を失ったのであるが、この時期のソ連の後退はこれだけには留まらなかった。ソ連はNATOの成立を阻止する事ができなかったのである。だが、スターリンはNATO自体を恐れていたわけではなかった。より正確にいえば、彼が恐れていたのはヨーロッパへの介入を辞さないアメリカの国家意思であり、かつそれを実行する能力であった。そのようなアメリカの意思は、国務長官マーシャルの打ち出したヨーロッパ復興計画:マーシャル・プランに端的に表れていた。ここが本書でもっとも興味深い箇所なのであるが、通常、歴史書などではマーシャル・プランと対を成す「トルーマン・ドクトリン」をもって冷戦の幕開けとしているものが多い。しかし、実際にはスターリンを真に恐れさせたのはより直接的な反共政策にみえる「ドクトリン」ではなく、一見穏健にみえる「プラン」の方だったというのである。
マストニーによると、スターリンはトルコやギリシャにおけるアメリカの反共的介入などはあまりモスクワにとって安全保障上の脅威にならないと考えていたようである。それは一地域における限定的な介入ではあっても、スターリンの東欧全体に対する勢力圏の確立をなんら否定するものではないと受け止められたのであった。ところが、マーシャル・プランはこれとは次元の異なる恐怖をスターリンに与えた。それは、ヨーロッパ復興という名目でのアメリカのドル供与の魔手を、東欧やソ連をも含むヨーロッパ全体に差し延べようとするものだったからである。実は、このプランはアメリカにとって失われた東欧を自由経済陣営に呼び戻すための遠大な計画の一部であった。真の目的はドルの力を介した欧州全体の政治的・経済的・社会的安定のための全面的なアメリカの関与であったのである。そこでのソ連の役割は極めて限定されたものに留められていた。アメリカは、ソ連が拒否するだろうとは考えつつもヨーロッパのすべての国に対して援助を申し出た。これにより、アメリカは自己の行動を正当化したのである。スターリンは決断を迫られた。すなわち、東欧諸国が援助を受けるのを許可してこの地域へのアメリカの関与を認めるか(それはソ連が東欧への影響力を失うことに他ならない)、あるいは不本意ながら防壁をめぐらせて、ヨーロッパを東西に分断するかである。マーシャル・プランに対するソ連の理解不足が問題をより一層深刻にした。ソ連は最初、マーシャル・プランはアメリカが戦時中の生産力を維持するためにやらなくてはならないからやっているのだと勘違いしたのである。そこで、プランが実はソ連に敵対的な性格を持っていると知った時にはなんら有効な手を打つ事はできなかったのであった。これにより、スターリンはアメリカを実態以上に手強いものだと受け止めてしまったのである。
49年からのヨーロッパにおけるアメリカの外向的攻勢は、スターリンの「脅かされている」という意識を一層助長させた。ヨーロッパでの失地回復はもはや不可能であった。そしてその失地は、ユーゴにしてもドイツにしても、結局はスターリンが自ら招いた失地であった。この危機に彼は二つの方法で対処しようとした。一つは、東欧諸国における粛清の強化である。しかしこれは、国家間安全保障と国内的安全保障を混同した的外れの対処に過ぎなかった。いま一つは、東アジアとの関係強化である。当時、中国では毛沢東が国民党を追い出して支配を確立し、朝鮮半島では金日成が朝鮮民主主義人民共和国を建国して、ソ連の影響下におさまっていた。スターリンは、彼らに接近する事でアメリカに対する戦略的な後退を取り戻そうとしたのであった。だが、マストニーはここでまたしてもスターリンは重大な戦略的過ちを犯したと見ている。それは、朝鮮戦争が勃発するのを防げなかった事であった。
スターリンは再三金日成から攻撃計画の草案を渡されていたが、自らのコントロールを離れてアメリカとの対立関係に陥る事を恐れてそれらをすべて却下していたのであった。しかし、アメリカの国務長官アチソンが米国の防衛ラインは日本、台湾であるという例の有名な失言(韓国は含まないと受け止められる)を行うと、今度はあるいはアメリカは介入しないかもしれないという楽観論に傾きはじめるのである。しかしスターリンは戦争を行うにしても、ソ連が直接アメリカの報復を受けることは極力避けるようにした。支援を要請する金日成に対して航空兵力の派遣をにおわせてはいたものの、決して確約をあたえることはしなかったのであった。
しかし最終的に戦争の開始は、攻撃のタイミングまで含めて金日成に一任された。スターリンさえ許可をだせば、毛沢東はもともと乗り気であった。こうして戦争が開始された。戦争は、アメリカが予想以上の強行な反応をみせたために、当初の金日成の計画とは異なり、共産勢力にとって著しく不利なものとなった。ソ連は終始戦争に対して中途半端な介入しかしなかった。結局、北朝鮮を助けたのは中国であった。マストニーは、こうしたいきさつの中に後の中ソ対立につながる対立の火種を見出している。朝鮮戦争はスターリンにとって何も生まなかったばかりか、彼の「脅かされている」という意識を一層助長させただけに終わった。
朝鮮戦争が勃発した時、多くの西側諸国がヨーロッパでもソ連軍が大軍で侵攻を開始するものと予測した。事実、チェコスロバキアでソ連軍の動きが見られたのは確かであった。しかし事実はそうした予測とは裏腹に、ヨーロッパでの戦争を恐れていたのはスターリンだったのである。スターリンは、自分の東アジアにおける軽率な行動がアメリカとの深刻な対立を引き起こしてしまったのではないかと危惧していた。チェコスロバキアで見られたソ連軍の動きは、実は来るべきアメリカの侵攻に対しての備えだったのである。一方でスターリンは、ドイツ問題に対して極めて楽観的な幻想を抱いてもいた。彼はいまだに分割されないドイツ、統一され、ソ連のコントロール可能なドイツの夢を見続けていたのである。朝鮮半島における戦況が安定すると、彼は「スターリン・ノート」なるものを打ち出して西側にドイツ問題の再考を促した。しかし、西側は既に西独の欧州防衛共同体編入に向けて動き出しており、このソ連提案をはっきりと拒絶した。こうなってはじめて、スターリンは西側との対決が避けられないものであることを悟ったのである。スターリンにとってもはやヨーロッパでできることは何もなかった。彼はただ、国内の大粛清を通じて「安全」であることを確認するよりなかったのである。
本書におけるスターリン増は、従来の冷酷無比で鉄面皮の独裁者というイメージを大きく覆すものである。戦後、彼のとってきた対外政策はすべて彼の「脅かされている」という Insecurity の念に端を発し、時に敵を過大評価し、時に過小評価して結局すべて失敗に終わってきたのであった。スターリンには、対外的な脅威と対内的な脅威との区別がはっきりとついていなかった。本来、アメリカを刺激しないために行われたユーゴへの恫喝での失敗を取り戻すため、ベルリン封鎖を敢行するというシナリオは、どうみても本末転倒であるとしか思えない。また、外的な脅威がすぐに内的な粛清に結びつくところもスターリンの病的な安全欲求の念を象徴しているように思われる。そこにあるのはリアリストとしてのスターリン像ではなく、病的な安全保障への欲求を持ち、機会主義的な(行き当たりばったりの)政策目標をもつパラノイアとしてのスターリン像である。冷戦は、当初言われていたように攻撃的な共産主義者の性格が生み出したものでもなければ、アメリカのヨーロッパに対する一方的な介入が引き起こしたものでもなかった。それは、スターリンのパラノイア的発想と機会主義的な目標追究によって、本人さえも意図しない形で形成されたものだったのである。