『反古典の政治経済学』上を読んで
国際政治学科 四年
福田 潤一
今回の課題である村上泰亮の『反古典の政治経済学』は、時代の変化とともに進展してきた種々の新しい要素を勘案して、これまでの古典的な政治・経済学的な思想に変革を迫ろうとする野心的な試みである。この本で著者はある一定の前提を所与のものとして考える近代の思考スタイルに疑問を投げかけ、そうして形成される合理的な思考というものにある種の限界性を見出している。この著者の合理性に対する疑念は次の三つの対立軸となって表れる。
[スーパー産業主義←→反産業主義] ←→ トランス産業主義
[ナショナリズム←→インターナショナリズム] ←→ トランスナショナリズム
[経済的自由←→経済的平等] ←→ より広い意味での自由
著者は、とりあえずはこのような弁証法的手法を通して、今後の進歩主義と保守主義の位置付けを行なうことに挑戦している。その上で、合理的な思考の行き詰まりに伴って、今後両者にとっての基本テーマとなってくるのは従来の「進歩」という概念の克服ないしは高次化であると主張する。マルクス主義のような旧進歩主義の強みは、理想に向かっての合理的なシナリオを一貫した科学によって示せたところにあった。しかし今やそのようなオプティミスティックな合理性への信頼は薄れて、思想の主導的な役割は保守主義へと回帰しようとしている。だが著者は、この保守主義も時代の潮流を十分汲み取れなければ思想としての役割は果たせないと主張する。それは上の三つの対立軸のような他方向の選択を整理することによってはじめて可能になる。こうして著者は、古典的な合理主義の呪縛を克服するために、これら三つの対立軸の選択における思想的な裏付けを提供しようと試みるのである。これがこの本の全体的なテーマの簡単な要約である。
さて、今回の課題として学生に課されているのはこの本をキッシンジャーの「外交」と読み比べてその相違を指摘せよ、とのことであるから、この本の内容を全編にわたって逐一分析することは目的性格上ふさわしくない行為であろう。やはり特定の個所を抽出して、ある特定のイシューについて評価を与えることが最も望ましい行動であるようにおもわれる。こうした観点で見たとき、最も適切な抽出となりそうなのが第四章 覇権安定性の理論と第五章 古典的観念の終焉の章である。第四章で著者は経済的自由主義とナショナリズムの問題を取り上げ、それを克服する観念として覇権安定の理論を提示した上でさらにこれを否定している。この章は直接キッシンジャーのテーゼと重複する内容を取扱っているわけではないが、しかし、この問題を考える上で極めて重要な点で関わってくると感じるので是非触れておきたい。一方第五章はダイレクトにキッシンジャーのテーゼと関わってくる章である。この章で著者は、古典的な国民国家システム(ナショナリズム)が戦間期以降衰退を続けていることに触れ、正戦論と脱正戦論というアイデアを用いてバランス・オブ・パワーの原理に対しアンチテーゼを加えようとする。ここで興味深いのは著者がマルクス主義のような進歩主義の思想と、キッシンジャー(ビスマルク)的な古典的現実主義の双方を、共に合理主義的であるとして断罪しようとしているところである。今回のレポートはこの二章に対しての分析が中心となろう。
そのまえにまず本全体に対する感想を記しておきたい。私はこの本を読んで、やや理論面に傾斜しすぎではないのかという難点を感じつつも、その広範な内容や多元的な思想の整理の完成度に強く感銘を受けた。とりわけ、印象的なのは序盤の方で語られる「思想の自由」と「行動の自由」の峻別である。現代の日本ではとかくこの両者を混同して語る人間が少なくない。そもそも、思想の自由はいくらあっても他人の自由を束縛するものではないが、行動の自由はつねに行きすぎると他人の自由を制限してしまう危険性を帯びているものなのである。最近の日本では、この両者をあえて混同する戦後民主主義的な考えがハバをきかせてきたせいか、思想の自由をどこまでも行動の自由に延長して行くことへの抵抗感が薄れているように感じる。そしてそれは特に若い世代に特徴的であるように感じるのである。テレビで「危険な17歳」という言葉をよく耳にする。高校生による豊川の老婆殺害事件、福岡のバス・ハイジャック事件などは、若者が自分の妄想的な観念を素直に行動に移してしまった例として後世に記憶されることになろう。現代社会がどこか病んでいるように感じるのも、行動の次元での束縛を思想の次元で解放しようとするのではなくて、ストレートに行動に移してしまう自由の混同が起こっているからに他ならない。そして、このことはより深刻な思想の欠如という問題を孕んでいるのである。これは今回は紙幅の関係上不可能であるが、いずれは取り扱って見なければならないテーマであろう。
閑話休題。このレポートの中心的なテーマである「外交」との比較の方に話を戻したい。その前にもう一つだけ、比較を行なうに当たっての基礎的な概念の考察をしておくと、村上氏が保守主義と進歩主義の対立と称しているものはキッシンジャーの言葉に置き換えて言えば現実主義と理想主義の対立であると読みかえることが出来よう。保守主義は、単なる個々の事実ではなく、世界イメージの不断の再解釈を通じて生命を保ってきたものに対する信頼感に依拠していると村上氏は記している。現実主義も、そのような過去の反省から導き出されたある種の洞察力であるということが出来る。両者の共通する目的は既存の価値の防衛であり、現状維持である。他方、進歩主義は導き出された抽象的法則のその時々の姿ではなく、法則の作り直しがついには究極の法則に収斂するという楽観論に依拠していると氏は記している。理想主義も、人類の営みはつねに理想に向かって前進しているということを信じられるだけのオプティミズムを有している。両者の共通する目的は、既存の秩序の打破とより高次の倫理の追及であり、究極的にはユートピアの実現を目指している。これらニ者を同一視して議論を進めるのは本来なら危険なことかもしれないが、とりあえず、このレポートでは両者を同一のものとして考えてみたい。なぜならここで求められているのは全く言葉の用法の異なる二つの本を比較して論ぜよということであるから。
村上氏は第四章の「ナショナリズムに基づく国際関係理論」の項で、キッシンジャー的な勢力均衡概念について「古典的ナショナリズム」の世界で追求された脱正戦論の試みであり、ナショナリズムやイデオロギーの登場によって正戦論化した戦後の世界には適用できないとの厳しい評価を下している。確かに、第一次世界大戦以降起こってきた国民国家の本質的な変化の下では、勢力均衡という概念は古めかしいものと思われてしまうのもやむを得ない。また事実、現代において勢力均衡で国際秩序が安定した例はほとんどない。これはある意味で政治的現実主義の理念に対する敗北である。村上氏は第五章の「国民国家システムの衰退」で書いているのだが、第二次世界大戦以後の世界でヨーロッパの再建に貢献したのは、実はアメリカの理想主義であった。第二次世界大戦そのものも、戦間期アメリカがヨーロッパに対する関与を限定的なものに留め、ファシズムというイデオロギーの台頭に対して理想主義で対抗しなかったことによるものだが、とかくアメリカの力というのは崇高な理想を伴っていなければ十分に発動されないのである。村上氏はこのアメリカの理想主義を極めて高く評価している。氏はこう書いている。「アメリカ外交の理想主義を、十九世紀的なヨーロッパ外交の眼だけから見てその『幼稚さ』を批判するのはうしろ向きである」と。私はこの意見に完全に賛同することはできないが、しかし、これが一定の説得力を持っていることには疑いの余地がない。このことは現代の国際関係において、アメリカ的な理想主義が現実主義を上回る重要性を持っていることを示していよう。
そして実はキッシンジャーもこのことをある程度認めているのである。「外交」の中で彼は、第二次世界大戦へアメリカを参戦させたフランクリン・ルーズベルトのことをそれなりに高く評価しているが、しかし結局、この時アメリカに参戦を決意させたのもファシズムの攻撃から民主主義を守るという理想主義の観念に他ならなかった。そのこと自体は第一次世界大戦の時のウィルソンの決断とさほど変るものではないのである。しかし、キッシンジャーとしてみれば、あの時のアメリカの行動を非現実的であったと断罪することは到底為し得ないことであった。なぜなら彼は亡命ユダヤ知識人なのであるから。古典的現実主義外交の権化であるかのようなキッシンジャーでさえ、ミュンヘンを語るときには口が重くなる。同様に、ルーズベルトの理念的な参戦方針に対してもその舌鋒は鈍らざるを得ないのである。一応キッシンジャーは、この時のアメリカにはファシズムが大陸を席巻することはアメリカの国益に反するという現実的判断があったとはしているが、しかしその記述はあまりにも歯切れの悪いものである。そして、この歯切れが悪いということこそ、彼がいかに現実的たろうとしてもアメリカの理想主義の持つある種の決定的な重要性を排除できないという事実を示しているのである。
この理想主義は村上氏の本の中では進歩主義という形で表現されていることは前述したが、また、経済的自由主義という言葉で表現されることもある。そしてこれは現代、古典的ナショナリズムの世界における現実主義(村上氏によれば、政治的現実主義)に対して激しい挑戦を行なっているグローバリズムの流れとも一致するものであろう。言うまでもなく、こうした流れは既存の国民国家体系に基づく国際関係を大きく変化させている。村上氏は政治的現実主義が有効に機能する前提として@非浸透性の前提(ビリヤード・モデル的な国際体系)とA同質性の前提(国家間の文化的共約性)が必要であると述べているが、国境を越えて拡大するヒト、モノ、カネの流れと、国際社会のアクターの多様化の動きはこれらの前提を覆している。これに伴って、勢力均衡原理のような現実主義は認識上の共約性を失うが故に衰退してくると氏は結論付けている。しかしながら、氏によれば経済的自由主義にも大きな欠陥があると述べている。それは経済学では、ある要素を所与にした上での部分均衡分析しかできないという点と公共財の提供者としての国家の役割を消極的に捉えすぎているという問題である。こうした点における理論的不完全を克服できなければ国際関係を安定的に規定することはできないであろう。そこで必要となってくるのは政治的現実主義と経済的自由主義の結合の試みであるが、この試み、しかも村上氏においては最後の試みとされるものが覇権安定の理論なのである。
村上氏の議論は、キッシンジャー的な政治的現実主義が経済活動の活発化による経済的自由主義によって衰退を迎えている現実を踏まえた上で、そのナショナリズム的・勢力均衡的な性格を否定して、両者の調和を目指す覇権安定の理論を検証の対象にしたものである。結局、この章で村上氏は覇権安定の理論も「国力変化のダイナミックス」が十分分析されていないが故に国際社会を安定させる構造としては不充分であると結論付けているのだが、私はこの論理のなかに、氏のキッシンジャー的な勢力均衡原理に対する限界の意識を感じ取った。
そして、このこと自体は私の見解とも決定的に相違するところはない。確かに現代はビスマルクの時代に比べてあまりにも国際関係が多様化しすぎたし、相手に自分と同様の合理的な選択を期待するにはあまりにもアクターが相互に異質すぎるのである。しかしながら、私が現代においてもなおキッシンジャー的な現実主義・勢力均衡的な外交の有効性を是認するのは、少なくとも先進諸国(あるいは単に大国、と言っても良い)の間にはある一定の文化的共約性があると考えるからである。現代、先進諸国における外交制度はこれまでにないくらいに発達を遂げ、相互の研究を通じて、御互いにそれぞれが国益と感じるものに対してある一定の合意ができていると言っても過言ではないだろう。さらに、それを確認しあい協調の道を探り出すサミットや実務者会議も実に多数にわたって行なわれているのである。これらの国々ではまた、早くからきちんと完成された国民国家の論理が定着しており、グローバリズムの波によって国家自体の存続が左右される東南アジアや南米の国々とは明らかに次元が異なる。彼らは、グローバリズムによって部分的に脅かされることはあっても、決して国益を主体にした国民国家という体制を揺るがすことはないだろう。これらの国々においてはまだまだキッシンジャー的な現実主義の外交の通用する余地がある――というより、それしかない――と考えるのが私である。
しかしこうした考え方はあくまでも国民国家としての存立を貫いてきた国々に対してのみ、通用するものである。先進諸国でも国民国家とは言いきれない、アメリカのような国に対するアプローチは当然違ってきてしかるべきである。そこで覇権安定という考え方に再登場を願わなくてはならない。実は、私はこの覇権安定という考え方と勢力均衡、現実主義という概念は必ずしも二律背反的なものではないのではないかと思っている。すなわち、アメリカの覇権という枠内における各国の国益の刷り合わせ、国力の均衡の達成が可能なのではないだろうか。村上氏はこの点について政治的現実主義と経済的自由主義の最後の統合の試みが覇権安定の理論である、として両者の両立の可能性をあっけなく排除してしまっているが、私にはもう少し詳細な分析が可能であるように思われる。このことを考えるために、まずは勢力均衡体系における国際秩序の安定と、覇権安定理論における国際秩序の安定を比較検証してみなければならない。
まず、古典的な勢力均衡原理が成立するために必要な条件は以下の通りである。まず、5〜6個の均等な国力を持った国々の存在。次に、共通の文化的特性。そして、2個以上の国々が協力関係を持つ(同盟)の可能性が保証されていること。さらに、その協力関係を自由に変化させることのできる外交の柔軟性が保証されていることである。思うにこれらの要件を現代に応用するには、古典的世界においては軍事を中心とした「同盟」の概念を、「特定のイシューにおける共通の価値の保護」という形に置きかえれば良いだけなのではないだろうか。現在、欧州や日本を中心にする伝統的国民国家の諸国は根底の基盤としては自由主義・市場経済制・人権といった理念を共有してはいるものの、個別のイシューに関しては、例えば環境と経済の関係と「う問題に関しては、相互に一致しない主張を抱えて対立しているのが現状である(COP3を思い出してみると分かりやすい)。この傾向は安全保障の分野になると一層顕著になる。よく一枚板に捉えられがちな欧州においてでさえ、イギリスやドイツ、フランスの間に厳然たる国益の違いが存在する。イギリスが欧州安保に消極的なのに対して、フランスとドイツは欧州固有の防衛力の整備に積極的なのである。こうした問題に関して、国益を中心にした現実主義外交はすでに崩壊したとみて倫理的なアプローチで迫ろうとするのは愚劣極まりない。やはりこれらの問題の調整は各国間の政府代表者による緊密な交流を通じて、相互の国益の十分な配慮の下に行なわれるべきであろう。
反面、このような勢力均衡的国際関係を維持するためにも、均衡関係の外側にあってこの構造を維持するコストを支払う国・アメリカの存在が不可欠になるであろう。私は、アメリカというものの存在意義を19世紀的なバランサーの役割と、覇権安定論的な国際公共財の供給者としての役割の二つを同時に担うものとして捉えている(無論、覇権的な要素の方が圧倒的に強いが)。こうした覇権国の存在する国際秩序を安定的に推移させるためには、覇権国自身がその圧倒的な力を諸国に対して行使しないよう自制する一方、覇権国に国際公共財のコストを支払ってもらうように仕向ける周辺国の絶えざる努力が不可欠になるであろう。そして、こうした要件が成立する限り、覇権安定論は国益の異なる諸国を包摂する緩やかな国際秩序として成功を見るのである。大学院の安全保障論の授業で山本吉宣先生が言っておられたが、勢力均衡原理も、覇権安定論も、どちらがより国際社会の安定にとって望ましいかという議論はふさわしくない。これらは単にハードの議論に過ぎない。問題は、そのハードにどのようなソフトを組み込むかにある。そのソフトこそ、これらの体系が安定する条件に他ならない。そして、勢力均衡と覇権安定を構成する要件に決定的な対立がない以上、それは両立し得るのではないかと考える。
覇権国の論理というのはだいたいにおいて理想主義の論理であろう。古くは「帝国」という名前で呼ばれていたこれらの国々は、単に固有の文化的特性に留まらない普遍的な目標を目指す傾向を有していた。たとえばローマ帝国は、皇帝の下に全ての諸民族がキリスト教化されることを求めたし、大英帝国も全世界の海上の安全を保障することを目的としていた。そして、それは帝国自身が搾取的な方針を採らない限り、おおよそ他の国々の利益にもなることだったのである。これらの覇権は国際的に必要とされる公共財を提供していたと解釈することが可能であろう。反面、覇権の下の通常の国々にとっては如何にして覇権国にこのような公共財供給の努力をするかが一つの大きな現実的課題である。例を挙げれば、現在、日米の同盟関係は東アジアにおいて極めて大きな公共財的役割を果たしている。これがあるために、東アジア・東南アジアの諸国は軍事衝突の危険を考えずに安全に貿易を行なうことができるし、商業活動を営むことができるのである。そこで、日本としては、この同盟関係の継続をアメリカから引き出すためにありとあらゆる現実的な対応をしなくてはならないであろう。「思いやり予算」とは言葉は悪いが、こうした現実的な目的達成のために極めて大きな意義を持つ政策である。昨年の「周辺事態法案」における日本近隣での米軍への協力も、米国が東アジアの安定という国際公共財を保ちつづけるインセンティブを高めるために随分と大きな役割を果たした。このように、覇権安定の下で自国の国益を保とうとする諸国にとっては、現実主義というのは今だに大きな役割を果たし得るものなのである。
結論。私は現在の国際政治を安定的に推移させるための原理として、覇権安定論を積極的に受け入れても良いと考えている。その上で、覇権安定論を政治的現実主義と経済的自由主義を統合するものと位置付け、経済的自由主義に覇権安定を常に実現させる理論的メカニズムが欠如していることを理由に覇権安定理論が不徹底であるとする村上氏の立場を、あまりにも理論偏重・現場軽視型の発想ではないかと考える。なぜなら、現実の国際政治を覇権安定型にしてゆくのは、アメリカはもちろんのこと欧州や日本などそれによって安定を得る諸国の共通した目標であり、責任であるからである。覇権的な国際秩序が理論的に導かれないということは事実である。そもそも、覇権国が現れるのかどうかも新古典的な経済学では分からない(と村上氏は言っている)。しかしそれならそれで、勢力均衡なり、理想的な覇権安定の姿なりを積極的に追求してゆくのは諸国の義務である。それが「理論的に導かれない」からと言ってその努力を放棄してしまうのは、よりorganize された国際秩序の形成を闇に葬り去ってしまうことに他ならず、さらにダイレクトには自国フ安全そのものを危険にさらすことに他ならない。私は、こういうロジックにおいて、ビスマルクの言う「政治とは可能性の芸術である」という言葉を、ひいてはキッシンジャー的な現実主義的外交理念を、これからも信じ続けても良いのではないかと思っている。
補足:
先週のゼミの時間に御旅屋君が「外交」の感想として、歴史がすべて現実主義で動いてきたかのように捉えるのはキッシンジャーの後付けの論理ではないか、と述べたことに対してコメントしたい。私は、キッシンジャーは歴史が常に現実主義で動いてきたことを主張したのではないと思う。むしろ彼の主張したかったのは、歴史が現実主義で動いてきたときにこそ、国際関係が安定するということだったのである。歴史が現実主義で動くか、それとも理想主義で動くかは、それを動かす人間の心理によって決まってくるものであり、必ずしも必然ではない。現実主義とは一種の歴史解釈であって、キッシンジャーの偉業はそれを思想として完成させ、現代への適用の道を開いたことにある。「外交」の中にも何度も国際政治の失敗の局面が登場する。例えばそれはウィルソンがヨーロッパに理想主義の要素を持ちこんだことであり、イギリスがフランスに同盟を与えなかったために第二次大戦の火種が作られたことであり、冷戦後アメリカがケナンの「封じ込め政策」を勘違いして政治的封じ込めを軍事的領域にまで広げてしまったことであった。これらはすべて国際環境を十分に現実的に捉えなかったために起こった事態なのである。キッシンジャーの主張したかったことはまさにこの点にあったのだろう。