福田潤一「古典と反古典」について云々

 

返事を長々書いていたら、突如pcがダウンしたので、やりなおしだ。ただやりなおすのでは、しこたまつまらないので、前回述べた、河田英介教室流に、イントロと結論でサンドイッチされた5パラグラフ形式で、できるだけ簡潔に、論理的に、あんたの考察に応答することとしよう。論争というほどのテンションは必要なく、むしろ今後なにを議論するにせよしつこく絡み付いてくるであろう諸概念についての、共通理解の提案である。私の述べる内容もだが、その論述形式も、知っておいて損がないどころか、今後のあんたの書くペーパーのグレードが数段階上昇することさえ可能なので、ぜひ、よむべし。

 

で、内容は、ずばり、科学と論理の擁護、である。ここでわたしは、「合理性」、「アカデミア」、「論理」、「西側」、「非西側」というそれぞれの用語の概念の定義、共通理解をつうじて、「論理性」と「アカデミア」という人類遺産を、「西側の占有物、対、地域特殊的な現象」という不毛な2項対立から切り離すことによって救済する、という試みをおこなう。

 

このような文章を書く動機は、あんたの言説の中で、おそらく概念として”rationality = the West = academia” V.S. “(nonWest, particluaristic) logic = region”、という対立軸が出来あがっているのではないか、と思われる箇所があったからだ。ところが私の考えでは、これは、academiathe Westの専売特許に狭めてしまう危惧と、同時にロシアや中南米などの社会現象をあくまで「特殊」な「論理」として肩身を狭くしてしまうという危険性を、ふたつ同時に孕んでいる議論であると思われる。これだけでは分かりにくいだろうが、要するに、より慎重にこれらの概念を整理しなおすことによって、私と、(おそらく)あんたの共通利益となるであろう、「論理性や学術的議論というものを、欧米思想の専売特許とすることを阻止し、同時に、ロシアや中南米といった「非欧米」地域の社会現象を論理的・学術的なレベルにおいて、臆することなく堂々と論ずる」という目標が達せられるはずだ、という提案である。そもそも「地域研究」の意義は、従来欧米社会を中心に組み立てられてきた理論を、それとは別の実証データを通じて再検討・修正し、足りない部分には非欧米社会の現象から新たな理論を打ち上げる、というアカデミア全体の中での貴重な使命なのだよ。そしてまた、いま、我々の間において、概念・用語の意味内容の理解にかんするパレート最適を目指そうというのだよ。概念の次元のちがいをあらかじめ図示しておくと、

 

「論理」(筋道だった言葉)

> (=) 「アカデミア」(筋道だった言葉による科学的研究・学問の総体)

> 「合理選択論」(アカデミアの中の一学問における一流派の立てた一仮説)

>  「欧米」「非欧米」(これらの地域・社会を観察することで、仮説が生まれたり、逆に仮説をこれらの社会に適用してみることで、その仮説の説明能力が問われることになる)

 

というわけで、私としては、「論理」>「アカデミア」(>「学問分野」>「流派」) >「理論・仮説・モデル」>「地域」、というオーダーでこれらの混乱しがちな観念をまとめることで、あなたの述べたような「合理性=アカデミア=欧米」対「地域特殊的論理=非欧米」という構図よりもクリアーに、しかも「合理対非合理」を「欧米対非欧米」に重ねてしまう危険(実際、この種の構図はあまりにありふれている、というか、誤ったステレオタイプであり、これこそ歴史的に「欧米」が「非欧米」に対して取ってきた認識態度なのだ。つまり、「合理=欧米(西洋)=文明 対 非合理=非欧米(東洋ほか)=野蛮」という考え方は、思想史や文学史を紐解けばすぐに出てくるように、いかにも無反省な欧米的な思考法なのである)を避けられるので、この定義で今後進められないか、と提案するものである。では、まいる。

 

論理性と科学のために

----  「欧米」対「非欧米」からの切断  ----

 

伊神満

(15/ 1/ 2001)

 

 論理性(logic)や科学(ここでは学術的議論や、科学的な知の総体としてのアカデミア(academia)というくらいの意味)は、「欧米~西側」(the West)対「非欧米」(non-West)という構図に収まるものでは必ずしもなく、むしろ両者を敢えて無視することで人類の知はより便利なものとなる。すなわち、論理性やアカデミアは、「欧米」の専売特許などではなく、同時に、「非欧米」における社会現象の仕組みというものも、非論理的・非アカデミックなものとして考えられてはならないのだ。(以下では先行する福田潤一の議論において位置付けが不確定な各用語・概念の定義を随時修正しながら、論ずることとする。)なぜ論理性とアカデミアは「欧米/非欧米」の構図に必ずしも収まらないのか? 第一に、「論理(logic)」と「合理選択論(rational choice theory)」、そして「アカデミア・科学(academia, science)」の三者は、明確に異なる概念である。第二に、「合理選択論」と「アカデミア・科学」、そして「欧米(the West)」の三概念は、これまたそれぞれ意味内容を異にするもので、決して同系列に属する「合理主義=実証科学=欧米」のようなものとしては扱い得ないことが指摘できる。最後に、「論理/ 論理性(logic)」というものも、とどのつまりは「筋道立った言葉」によって万人が理解・納得しうるものを指すのみであり、「欧米の合理主義」だとか「特定地域の論理」といった「欧米対非欧米」の構図におけるいずれか一方によって排他的に包含されてしまうものではない。よって、福田の提示した「合理選択論=アカデミア=欧米」対「(地域特殊的)論理=非欧米」という概念図は、その各構成要素の意味内容が明確に区別・差異化されるのであり、「論理」と「合理性」および「アカデミア」は決して「欧米対非欧米」のいずれかの側に組するものではないことが言えるのである。

 

 まずは福田もその概念理解において是認したところのものである、「論理」と「合理選択論」の区別から始めよう。さらに、この後者と「アカデミア」が異なることも指摘する。第一に、「論理」とは、およそ「筋道立った言葉」として万人が納得し得るものを指すのみで、特定の理論や、欧米を含め、特定の地域に根ざすものではない。原義においてもlogic< logos=「言葉」という以上の事は含意しないことは明らかである。つぎに、一方、「合理選択論」であるが、これは社会科学の一分野において、一流派が、特定の社会現象を説明する際に「個人を合理的な選択主体として仮定すれば、これこれこの程度まで論理的に説明することができる」という具合に練り上げられた、あくまでひとつの仮説なのだ。よってこの「合理選択論」ないし「個人の選択における『合理性』の仮定」というものが、あまねく「筋道立った言葉」であるところの「論理」とは大きく異なることは言うまでもない。「論理的なるもの」と「ある現象を論理的に説明するための仮説」とではそもそも概念のレヴェルが違っている。そして最後に「アカデミア」についてであるが、これは諸学問や、論理的・科学的な知の総体を指す言葉である。およそ論理的=科学的に構築されている限りにおいて、全ての議論はアカデミックたりえる。したがって、「アカデミア」は「論理/ 論理性」とは近しい概念であるが、他方「合理選択論」は、「アカデミア」に含まれる一学問体系のなかの特定流派の立てたひとつの「仮説」や「理論体系」であるに過ぎず、「アカデミア」や「論理()」等、より形而上的な観念に比すれば、多分に特殊・具象的な議論の一例であるに過ぎない。よって、「合理選択論」は、「論理」や「アカデミア」の如き、よりメタなレヴェルの概念とは、明白に区別される。式で表すと、「論理」> (=) 「アカデミア」>「合理選択論」の順番でメタレヴェル(形而上学・抽象性の程度)が高いということになる。

 

 つぎに、福田が自明としていた「合理選択論(合理性の仮定) = アカデミア = 欧米(西側)」という概念系列を検討しよう。前段落において、「合理選択論」と「アカデミア」のあいだでは、後者がよりメタのレヴェルに属しており、これら二者は概念として異なる次元のものであるから同列に並べることができない、という点は確認した。そこでここでは、これらニ者と「欧米」との相互関係を探ることにする。「欧米」とは、「()西側先進国」としての(西)ヨーロッパおよび北アメリカを指す概念である。ではまず、この「欧米」と「合理選択論」との関係はどうであろうか。後者は、社会科学における仮説の常として、それのみにおいて現実の社会現象を100%説明することはできない。これは「欧米」社会を観察対象としても同じことである。「合理選択論」を提案したのが「欧米」の研究者であるとしても、また、この論を用いた説明が「非欧米」地域よりも「欧米」社会により一層妥当したとしても、それは単に「欧米」社会についての研究から生まれたモデル・理論・仮説であるというだけのことで、「合理選択論」と「欧米」は同義に論ずることができない。このようなモデル・理論・仮説を「欧米」社会のとあるケースのとある現象から抽出したとしても、科学的証明の常として、このモデルは次に、「欧米」社会における異なるケースや現象、ひいては「非欧米」社会の現象に適用してみることでその説明能力が問われることになる。よって、「合理選択論」が学問上の一仮説であるのに対して、「欧米」は、その仮説における観察対象となる一地域・事例に過ぎないことが分かる。そこで今度は「アカデミア」概念と「欧米」の関係であるが、先の段落で述べたように、「アカデミア」はまず、「論理」と並んで、「合理選択論」という学問上の一仮説よりも高いメタレヴェルにある。一方「欧米」はいま述べたように、「合理選択論」よりも低いメタレヴェルにある。よって「アカデミア」(ひいては「論理」)と比べて「欧米」の方が低いメタレヴェルにあることは明瞭である。これを簡潔を期して式で表すと、「論理」> (=)「アカデミア」>「合理選択論」>「欧米」、という順番に、それぞれ異なるメタレヴェルに属していることがわかる。

 

 それでは三番め、つまり最後に、「論理」と「非欧米」の関係を確認してみよう。福田は、「合理選択論・合理性の仮定=欧米=アカデミア」に対して、現実世界のより具体的な把握として「(地域特殊的)論理=非欧米」という概念をまとまりとして提示している。しかしながら、前段落で検討したように、「論理」というものは、特定の地域はおろか、特定の理論や学問に限定される性質のものではない。

このあたりは福田が、本稿とは異なる概念操作によって認識しているポイントであろうから、例を挙げて丁寧に説明しよう。ロシアに対する「欧米」からの経済援助は、ロシア社会経済にたいして「合理性」を仮定したゆえに失敗したのであるから、本来援助においては「欧米」の「合理性」・「アカデミア」ではなく、ロシア社会経済「特有の論理」を認識すべきであった、という福田の挙げた事例・議論についてである。基本的に、福田の言い分は正しい。ロシア社会経済、すなわち実証現場に対する認識を充分に持たなかったせいで、外国からの理論一辺倒の援助政策が失敗する、といったことは、よく起こり得ることだからである。しかしながら、「特有の論理」という言葉はたとえば「特有の政治・経済・社会構造」であるとか「特有の行動規範・価値観・公式非公式の制度」と言い換える方が、より精確である。また、「合理性」や「アカデミア」と、ロシア社会経済「特有の論理」を対置する必要はなかったはずだ。なぜなら、ロシア地域研究といった分野は既に「アカデミア」の中に存在するのであり、そこではきわめて「論理的」(地域特殊的なものではなく、筋道立った言葉による議論による、という意味で)に、ロシア社会経済の「特有の論理」の理解・説明が試みられるはずである。このような「アカデミア」による「論理的」な研究においては、たとえば自由競争であるとか、汚職を取り締まる公正な法秩序であるとか、民主的な政治体制であるとか、市民の遵法精神であるとか、そういった凡そ「欧米」社会の研究では前提とされがちな条件が、ロシアの社会経済には存在しない、というロシア「特有の論理」を把握することができるわけだ。ここにおいて、「特有の論理」という言葉は、必ずしも「論理」という単語を含む必要はなく、また「論理的」研究といった言葉と混同の危険が高いだけであるから、「特有の社会経済構造」などと言いかえる方が適切であろう。

 さらにいえば、「欧米」の社会を対象とした研究であっても、一定の理論・仮説がそのまま100%妥当する、ということは有り得ない。よって、「合理選択論=欧米=アカデミア」対「地域特殊的論理=非欧米」といった構図は適切ではなく、むしろ「理論」>「実証」(実証・現地研究・フィールドワークよりも理論が偉い、という意味ではなく、よりメタフィジカル・抽象的なレヴェルに属しているということ)の間の、一般的な緊張関係を、福田は指摘したというべきである。実証の現場が欧米であるかロシアであるかはさして重要ではない。ようするに、理論・仮説・モデルがそのまま適用できる場合というのはごくごく限られているわけで、それを実証の現場におけるフィールドワークで得られた情報・資料と、どのようにして突き合せるか、という、社会科学全般に等しく見られる理論と実証の相互作用的関係が、このロシアについての議論では扱われているだけなのである。

 よって、話を戻すと、「論理」は「非欧米」特有の事象を指す言葉としては適切ではなく、「非欧米」特有の現象があるとすれば、それはその社会についてのフィールドワークを通して、既存の理論を修正するか、あるいは新たな理論モデルとして提示するべきものである。(これがいわゆる「地域研究」と呼ばれる学問の存在意義である。)これらの学問的営みは、全て万人に理解しうる「論理」性をもって「アカデミア」において、行われることが(現に行われているかどうかは別としても)可能である。メタメヴェルの格差を改めて式で表せば、「論理」> (=) 「アカデミア」>「合理選択論」>「非欧米」=「欧米」というそれぞれの次元として理解できよう。

 

 以上の議論から明らかなように、「論理」と「アカデミア」とは、「欧米対非欧米」といった構図に回収されるものではない。再度論旨を確認しておくと、まず「論理」は「アカデミア」を包摂し、「アカデミア」の一部として「合理選択論」がある。つぎに、「アカデミア」や「合理選択論」は、空間的・研究事例的には「欧米」において発達・提案されてきたとしても、「欧米」という地域は、「論理、アカデミア、合理選択論」にとって、あくまで一つのフィールド(実地調査の現場)を提供しているにすぎず、決してこれらの諸概念といっしょくたに把握してよいものではない。そして最後に「非欧米」地域固有の特殊性というものは、「論理」と呼ばれるべきものではなく、単に「欧米」と並んで「論理、アカデミア、合理選択論」にとっての実証現場を意味するものである。従来「欧米」以外の地域についての研究は蓄積が浅いものだから、勢い「アカデミア」においても欧米社会の研究から生まれた理論・モデル(その一例が「合理選択論」)が大多数ということになるかもしれない。しかしそれは「論理」や「アカデミア」が「欧米」に属すからではなく、前二者は、「欧米」「非欧米」といった区別からは、少なくとも原理的には独立した、よりメタな次元の概念なのである。よって、このような検討を通じて、概念のメタ程度としては、「論理」>(=)「アカデミア」>「合理選択論」>「欧米/非欧米」という順に抽象度が高い別々の次元に属しているということが明らかとなり、「論理」や「アカデミア」が、「欧米」「非欧米」などの特定地域とは原理的に関係のないものであることが証明された。

 

* なお、本稿では特に「合理性の仮定」が俎上に上ったため、「合理選択論」についてくり返し述べられたが、これはある一定の「理論」の代表として挙げているだけなので、「合理選択論」とかかれた部分は多くの場合「ある理論」と読み替えて構わない。よって、改めて抽象度の高い順に整理すると、「論理」>「アカデミア」>「理論」>「実証」(実証現場としての諸地域)、ということになる。