「芸術的」才能とヒトラー

福田 潤一

1999年?

編者評(伊神満)
2000年12月1日
ナショナリスト音楽は国の「自然」=(国土・国民・歴史)と「個人」=(個人における感覚・感動)を、古代ギリシャ以来のagent論理、あるいは近代のrepresentation概念をなぞるようにして、作品の中につなぎ合わせた。それが具体的に狂信ナショナリスト「天才芸術家」アドルフ・ヒトラーを刺激していた、というもう一つの史実を、主に彼の「芸術的」政治家面から記述した文章である。政治家としての「芸術性」をラフにでも論理的に説明してあればなお興味深く読めたはずだ。

 

「ロシアのジレンマ」収録の三本の論文を読んだ。その中で、私が最も関心を引かれたのは「スターリン体制とドイツ・ファシズム体制」であった。一見相似する両国の国内体制の違いを指摘し、スターリン体制とナチズム体制が実は本質的に異なったものであったことを証明するこの論文は、私が長年疑問を抱いていた独露の全体主義の相違をうまく説明しているように思われた。なかでも興味深かったのはスターリンとナチスの指導者との間の芸術に対するアプローチの違いである。このアプローチの違いが、両者の統治手法の違いとなって現れてきたのだというから面白い。

 確かにナチスの指導者:アドルフ・ヒトラーには多分に芸術妄想的な部分がある。彼は終世自分のことを「天才的芸術家」だと思っていた。反してスターリンは、グルジアから出てきて革命運動に参加した筋金入りの職業革命家である。彼にとっては芸術など革命運動のための手段にしか過ぎなかったに違いない。私はこのレポートでこうした芸術的な感性の違いが統治手法にどのような影響を与えたかをもう少し敷衍して考えてみたいと思っている。とはいえ、スターリンに関する情報は限られているため、ヒトラーの方に絞って論を進めることになろう。実は、このテーマは以前から興味をもって調べてきていたものだった。果たしてヒトラーの芸術的感性と、その統治手法の間にはどのような連関があるのだろうか。

 ヒトラーは若い頃、ウィーンに遊学して画家になるための勉強をしたことがある。学校に落第し、それでも人一倍自尊心の強い彼は芸術家となることで世の中に認められようとしたのである。彼の芸術的才能を認めたくない人は世に多いかもしれないが、彼の絵は夢中になっただけあってそれなりに上手であった。しかしそれは当時全盛の抽象画ではなくて人物をはさまない具象の風景画であった。そのせいか、彼は志望のウィーン造形美術学校に二度続けて落ちてしまう。自称「天才芸術家」の鼻っ柱を叩き折ったこの事件は、ヒトラーにとっては相当のショックであったろう。彼は浮浪者のようになってミュンヘンへと流れていくのである。そのミュンヘンで起こった事件が第一次世界大戦の勃発であった。彼はオーストリアに滞在中、何度も徴兵拒否を起こしているが、ドイツ滞在中にこの事件を知るとただちに志願兵として前線に送られることを希望している。これはなぜか。

 これは私の邪推だが、彼はウィーンやリンツに滞在している間、日常的にオペラを見に行っていた。なかでもワーグナーの「ローエングリン」や「タンホイザー」をみて感激したというのは有名な話である。彼は、もしかしたらこうしたオペラを見て、その精神的な高揚のうちに無意識にゲルマン民族礼賛の念を養っていったのではないだろうか。ヒトラーの芸術的な感性の高揚が戦争を待望していたと言えなくも無いのである。しかも、それはゲルマン民族のための戦いでなくてはならなかった。だから、彼はオーストリア軍の徴兵は拒否しても、ドイツ軍の徴兵には嬉々として応じたのではないかと推察できるのである。 そのように高揚した彼にとって戦場は実に理想的な自己実現の場であった。彼は連隊内で優秀な伝令兵として活躍した。一時は、一人でフランス兵を15人も捕虜にしたほどである。この功績で彼はドイツ軍内では最高の名誉とされる「功一級鉄十字勲章」を授章された。そして、これが彼のおもしろいところだと思うのであるが、その勲章をドイツの総統となった後もずっと佩用し続けたのである。いかに彼が国家的名誉というものに酔っていたかの証であろう。

 ここにみられるのは、名誉に対する異常なまでの希求である。それは彼の芸術的感覚とも無関係ではなかろう。ウィーン時代、彼は常に「天才的画家」か「天才的建築家」として世界の歴史に刻まれたいということを言っていた。その夢は潰えたものの、今度は「芸術的兵士」として生きる道が彼の前に開かれたのである。ヒトラーを動かしていた情熱は根っこの部分では同一だったのではなかろうか。

  しかし戦争は敗戦に終わり、意気消沈したヒトラーは軍の政治部で働くようになる。その命令で偵察に出かけたのが後に彼の運命を大きく変えることになる「ドイツ労働者党」との最初の出会いであった。ヒトラーは党と言いつつ委員わずか6人のその党に馬鹿らしいとは思いつつ入党してみるが、ここで人々の前で演説する快感に目覚める。ヒトラーにはもともと素晴らしい演説の才能があった。彼は、それを駆使してたちまちのうちに党組織を拡大させた。彼はここで「芸術的政治家」として生きる道を見出したのである。ヴェルサイユ条約による不平等感と天文学的インフレも、彼の組織が拡大するのに一役買った。そして1923年、ヒトラーは国家の独裁的権力の確立を目指してミュンヘンで一揆(ブッチ)を起こした。しかしこの計画は警官隊に阻まれて彼は逮捕され、牢獄に幽閉される憂き目を見る。そこで書いたのがあの「我が闘争(マイン・カンプ)」であった。この作品で彼は、いかにゲルマン民族が他民族より優れているかを書き、その領土的拡張と歴史的使命の達成がいかに不可欠なものであるかを強調した。ゲルマン民族復興の使命感に酔った彼は、しばしばジークフリートの復活の喩を使って演説を行ったという。こうして彼は着実にドイツ全土に支持層を広げていったのである。

  こうしたヒトラーの「芸術的政治家」ぶりは留まるところを知らなかった。しかし、ここで少しこの「芸術的」なる言葉に考察を加えてみたい。ヒトラーが「芸術的」という言葉を使うとき、込められていたのはどうやら、「神によって運命的に選ばれた一人の英雄の仕事」という意味だったようである。彼には、俗世界のあらゆるタブーを破ってその目的を果たすために生まれてきた人間、あるいはその人間によってしか達成できない運命的課題というものが世の中には存在しており、そういうものこそが真に「芸術的」なのだという認識があったのではないか。そう考えるとヒトラーが戦場で見せた活躍も、その後の政党活動で見せた卓越した演説も、全て納得のいくものになる。すなわち彼は自分をゲルマン民族救済の英雄として捉えていた。しかも、その課題は自分にしか達成できないものだと考えていた。彼の価値観では彼には人と違うことが出来るはずであり、その英雄としての自覚を余すところなく発露したのが彼の演説であって、政治家としての行動であったと考えることができるのである。

 この「芸術的」な英雄観は、もしかしたらあの福田恒存の「一匹と九十九匹」にも繋がるものがあるかもしれない。「一匹と九十九匹」において、真の文学というものは政治で救い得ない一匹を救うものだとされていた。それはまた、真の文学に課せられた運命的な課題でもあり、それが出来るのは真の文学者のみである。もしここで、真の文学者を英雄に置き換え、政治をワイマール体制、一匹をゲルマン民族の復権を望むドイツ国民と置き換えたらどうであろうか。政治と文学という取扱う対象が違うのであるから簡単に断定するわけにはいかないが、その意味するところはヒトラーの主張とほぼ等しくなるのではなかろうか。すなわち、運命的使命を背負った天才のみが、孤独に悩める一人の人間を救済することができるというコンテクストにおいてである。

 当時のドイツにおいてこのような「一匹」は決して珍しくなかった。ヴェルサイユ条約後のワイマール体制は列強に対し「履行政策」を実行し、なるべく行儀良く、素直にみせることで将来のドイツの懸念を取り払おうと腐心していた。しかしその背後には、必要以上にドイツが卑屈になっていることへの憤りを感じ、いつの日かゲルマン民族が再び活気を取り戻す日をじっと待ちつづけている数多くの「一匹」の存在があったのである。英雄を自認するヒトラーの言葉は彼らの心に届いた。やがてこれはナチス党に政権を握らせることに貢献した。

  もう一つ、ヒトラーの「芸術的」な才能の特徴として、誰もやったことがない桁外れの政策をどんどん打ち出していくことが挙げられる。政権を握った彼にとって重要なのは、まずは何と言っても不況対策であった。ヒトラーは大恐慌の余波で傷ついたドイツを立ち直らせるため、前例のない大規模な公共工事を実行して失業者を減らした。アウトバーンの建設もこの時であった。次に彼は、国民の支持を背景に、全権委任法を可決させて権力を一手に握ってしまう。その後にはユダヤ人排斥運動の実施が待っていた。国内的にみて、これらの諸政策はそれまでまったく試みられた経験のないものばかりであった。ヒトラーはこれを己の「芸術的」才能の故に推し進め、しかもあっさり成功してしまうのである。これに味をしめたヒトラーは対外的にも同様の政策を行いはじめる。まずはオーストリアの併合に始まり、チェコ領ズデーテン・ランドの割譲、そして独ソ不可侵条約の締結と不可能に思われた外交ばかりを稲妻のように成功させると、途端にポーランドに向けて進軍し、第二次世界大戦を開始させてしまう。ソビエトとポーランドを分割し、後顧の憂いを絶ったドイツ軍はそのまま怒涛のようにベルギー国境へと押し寄せ、あっという間に英仏連合軍をダンケルクの岸に追い詰める。もはやパリの陥落も時間の問題であった。

 こうした彼の思いきった政策判断も、「英雄」という自意識を抜きにしては行い得ないものであったろう。彼は、彼自身の「芸術的」な才能の輝きがドイツの上に君臨している間は第三帝国は不滅だと思ったに違いないのである。しかしそのことは同時に、ヒトラーのファシズム体制がいかに彼一人のうえに重くのしかかっているかを示したものでもあった。彼は最期まで後継者を決めることは出来なかった。何故なら、その後継者は彼ほどの「芸術的」才能、神に選ばれた運命的使命というものを持ち合わせているとは限らないゥらである。こうした状況は、ヒトラーを煩雑な日常事務の中に埋没させた。そして、その殺人的なスケジュールの中で、次第に彼の神通力も見とおしを誤るようになってくるのである。

 1941年、バトル・オブ・ブリテンに勝利できないと判断したヒトラーは急遽独ソ不可侵条約に違反、ソビエト陣地に向けて大量の機甲部隊を進撃させた。いわゆる「バルバロッサ作戦」の開始である。ところが、ドイツの版図をウラル西側まで広げるはずのこの作戦は攻撃目標の不明瞭さからレニングラードとモスクワ、スターリングラードに戦力を分散させてしまい、戦線の膠着を招いてしまう。そのうちに恐ろしいロシアの冬将軍がやってきた。結局レニングラードは落とせず、スターリングラードでも九万ものドイツ兵が降伏するありさまで、ドイツ軍は総崩れとなって味方領土へと逃げ帰るのである。ヒトラーは130年前にナポレオンが犯したのと全く同じ間違いをやってしまったのだった。彼の「芸術的」霊感もいよいよ陰りを見せ始めた。そしてこの敗北を機に、いよいよ部下に対する容赦のない粛清が始まったのであった。ヒトラーの廻りからは慎重派や現実主義者が取り除かれ、彼の意見に文句なく従うイエスマンだけで固められた。彼に逆らったり、暗殺を企てようとするものは容赦なく弾圧された。その最大のものは44年のシュタウフェンベルグ伯による暗殺未遂事件の後である。この事件では合わせて約5000名もの人が処刑され、そのなかにはドイツ帝国の功労者・「沙漠の狐」ことロンメル元帥も含まれていた。ヒトラーは今や味方にとっても死神となった。このようにして判断を誤ったヒトラーに残された道は、結局、砲火の轟くベルリンの総統地下壕の中で、じっと最期の瞬間を待つことしかなかったのである。

  結局ヒトラーとは何であったか、ということを聞かれれば、それは一個の怪物であると同時に、たしかにある意味での芸術家であったことを認めざるを得ない気がする。20世紀の歴史で、あそこまで強烈な影響力をもち得た個人は他に存在しなかった。その才能と判断は恒に常人の予想をはるかに越えていた。そうでなければたとえ一時期にせよ、ヴェルサイユ体制下の弱体化したドイツで、フランスとロシアという二大強国を相手にあそこまで戦うことはできなかったであろう。また、ヒトラーは晩年になってからも芸術への興味を失わなかった。他国を占領したときには必ずそこの美術品を略奪してきているし(ナチスによる略奪美術品の問題)、死の直前まで故郷のリンツに自作の美術館を建てることを夢見ていたという話も聞く。まさに彼にとっては芸術のための芸術であり、その他全てのもの――総統の位であるとか、軍事力であるとか、もしかしたら第三帝国そのものすら――は芸術的栄光・名誉のための手段に過ぎなかった。このことは、ドイツ全体がヒトラーという一個人の芸術作品の創作に付き合わされたと見ることも可能であろう。しかし、それを選んだのはドイツ国民自身である。ヒトラーという、狂った芸術家を総統に据えざるを得なかったことがドイツの不幸であった。