ラテンアメリカ両大戦間期の文化(石井康史先生)

レポート

 

 

 

 

 

欧州・米州・阿玖(アフロ・キューバ)

――音楽ナショナリズムとアフロキューバ大衆文化――

 

 

 

 

 

 

 

 

伊神満

   東京大学教養学部

     地域文化研究学科

     ラテンアメリカ分科4年

     90138A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2000年6月28日

欧州・米州・阿玖(アフロ・キューバ)

――音楽ナショナリズムとアフロキューバ大衆文化――

 

伊神満

 

 

1. 問題関心

 1930年代、キューバには音楽ナショナリズム(nacionalismo musical)という芸術運動、あるいは作曲傾向が、興隆した。具体的にはクラシック音楽の作曲家達が、「キューバ的な」音楽を創りだそうとして、アフロキューバつまりキューバにおける黒人音楽であるとか、農民の大衆音楽など従来用いられなかった要素を積極的に採り入れ始めたのである。換言すれば「上位文化」――そこでは欧州的な規範ならびに白人が支配的であった――の側が、「キューバの土着的な下位文化」の中に芸術上の活路を求めたわけだ。

 このような流儀は、何処に由来するのだろうか。キューバの芸術家は、30年代になって初めてナショナリズムに目覚めたという訳なのか。また、白人作曲家が黒人音楽を発見しつつあったその時、当のアフロ系キューバ人達はいかなる状況に置かれていたのか。そういった問いが本稿の焦点となる。

 以下、第二節ではキューバにおける音楽ナショナリズムの時系列的な流れを、第三節ではその流れつく処である1930年代に顕著な、作曲家達のアフロキューバへの傾倒の理由を、そして第四節では大衆音楽に沸き立つ白人らの裏側で、キューバの黒人(ないし非白人層)が展開していた運動の様相を、それぞれ扱うことにする。最後に以上の三点を総括し、併せてキューバ音楽のその後の展開を参照することで結論としたい。

 

 

2. 音楽ナショナリズムの系譜 ――背景――

 @ 19世紀

 両大戦間期のキューバにじっと眼差しを向けていると、ともすれば19世紀にもナショナリズムが盛り上がっていたことを失念してしまうかもしれないが、実にこの頃から「土着のキューバ」は音楽のテーマたり得たのだった。

 作家アレホ・カルペンティエールの著作『キューバの音楽』によれば、「1839年、グリンカが『ツァーの生涯』を初演しロシアにおいて音楽ナショナリズムを立ち上げた三年後に、キューバ人サウメル[(Manuel Saumell: 1817-70)]はナショナリスト・オペラを書こうとした[そして事実、書いた]のである」。[1]その主題は勿論キューバであるが、それどころか、白人のみならず黒人やインディオまでも能動的な役回りを与えられていたという、画期的なものだった。

 また19世紀後半にはサンチェス・デ・フエンテス(Eduardo Sánchez de Fuentes: 1874-1944)という人物が、当時すでに欧州でも有名になりつつあったハバネラ風による、歌曲『』を書いている。その歌詞には出だしから、そのものずばりキューバ島が唄われた。ただしサウメルとの比較で言えば、サンチェスは反黒人主義者を自認しており、彼の主題とした「キューバ」はあくまで白人のものという前提で語られたと解釈して差し支えあるまい。

 さすがにサウメルがナショナリズムの兆しを見せた1839年という時期はひどく早いが、19世紀後半のサンチェスについては、彼がそのような曲を書いたとしても不思議ではない。というのはスペインの植民地キューバにおいて、独立運動が盛んだったのがまさにこの時代(独立戦争は186878年、189598年の二度にわたる)だったからである。95年に戦死した独立の英雄ホセ・マルティも、著述家・詩人としてキューバを顕揚する作品を手広く残していた頃なのだ。

 

 A 20世紀前半

 1920年代以降数多くの作曲家が、音楽ナショナリズムの潮流において、フォルクローレやアフロキューバ音楽を摂取するようになった。まずモイセス・シモンス(Moisés Simons: 1889-1945)は、欧州で流行り出したキューバのソンやルンバを披露しに、当地まで楽団を率いていった人物である。彼は南京豆売り男の呼び声[2]を主題に、『南京豆売り男(El Manisero)』という著名な曲を残した。

 つづいてエルネスト・レクオナ(Ernesto Lecuona: 1895-1963)について言うと、20世紀末の今年、マイアミのキューバ系新聞が社説「キューバ20世紀の有名人たち」[3]の中で「最高の作曲家」と称えたのは、まさに彼であった。勿論これは一つの(しかもやや政治的偏向のありうべき)評価にすぎないが、彼の音楽の受容度がいかに高いかを知ることができよう。その作品には『シボネイ(Siboney)』、『ラ・コンパルサ(La Comparsa)』など世界的に有名な曲が含まれる。

 アマデオ・ロルダン(Amadeo Roldán: 1900-39)とガルシア・カトゥルラ(Alejandro García Caturla: 1906-40)は、音楽に造詣の深い小説家カルペンティエールと親交のあった作曲家たちで、後者は彼らに戯曲を書くことしばしばであった。ロルダンはパリ生まれのキューバ人で19年に渡玖、逆に地元出身のカトゥルラは28年、パリに学びに行く。

 バルデス(Gilberto Valdés: 1905-71)はカトゥルラと同名の曲『ベンベ(Bembé)』を残している。この曲は現在、作曲家欄が「トラディショナル」とされてしまう程に知れ渡った曲であり、その歌詞は訛りまじりに「わたしサンドゥンガの黒人娘で/アフリカから来たんだけど/それはあんたにベンベを唄ってあげる為で/わたしのルクミの黒人男と一緒にね」[4]という代物である。明らかに、アフロ系キューバ人が主題なのだ。

 カルペンティエールによれば、他にもボルボリャ(Carlo Borbolla: 1902-)やゴンサレス(Hilario González: 1920-)といった人々が、クラシックの音楽教育受けつつ、アフロキューバ音楽に馴染んだようである。192030年代キューバの「クラシック音楽」界が、「土着的な」アフロキューバ音楽を用いた音楽ナショナリズムの試みに出たとき、自身の境界を柔軟に揺らしていたことは、もはや間違いない。

 

 

3. 欧州/米州/アフロキューバ ――理由――

 1930年前後のキューバに土着要素を強調した音楽ナショナリズムが立ち上げられたのは、決して偶然ではない。当時の作曲家達の針路をそのような方向に向けさせた人々が、欧州に居たのである。それは前衛(avant-garde, vanguardismo)として知られる芸術家の一群であった。彼らはその教え子の立場にあったキューバ人たちに、欧風の芸術ではなく、米州にある自らの国土に土着的な材料を生かすよう、強く勧めた。ここに、前衛主義とナショナリズムが合流する素地が作られたのである。

 例えば先に取り上げた作曲家カトゥルラは、1928年パリに渡り、大御所ナディア・ブランジェ(Nadia Boulanger)に作曲を師事した。彼を迎えたブランジェは、このキューバ人を教えて次のような感想を洩らした「かくも優れた教え子に出くわすという事はめったにない(...)彼はすなわち自然の力というものである。これこそは、発現せられねばならない」。[5]かくして、カトゥルラというキューバ産の「自然の力」は、その内包するとされるキューバ土着の力強いアフロ系音楽を貪欲に吸収した作風で名を馳せるようになった。

 またボルボリャも192630年にかけてパリを訪れた。そしてルイ・オベール(Louis Aubert)に作曲を、ピエール・リュカ(Pierre Lucas)にはピアノを、教授してもらうのである。カルペンティエールの語るところでは

学んだ全てを活かす事のできるであろうキューバ音楽を作曲する、という可能性へと彼[ボルボリャ]の両眼を開いてみせたのは、まさにルイ・オベールだった。(...)もうお分かりのように、我々が前の章で確認した事実はまたも、今度はカルロ・ボルボリャによって表明されるのである――つまりヨーロッパは常に我々の音楽家たちのナショナリズムを奮い立たせるということだ。ナディア・ブランジェがカトゥルラに与えたのと同じ助言を、ルイ・オベールはボルボリャに与えたのである。[6]

そしてカルペンティエール自身が、分野こそ違えブルトンやアラゴン、ピカソといった欧州の前衛芸術家たちと交流しつづけたのだった。192839年の、やはりパリ滞在期の出来事である。[7]

 カルペンティエールの説明に従えば、アフロキューバの要素を表に出した音楽ナショナリズムの生成過程は次のように図示することができる。

やや抽象的な言葉遣いをすれば、地理的な「米州」に育ったキューバ人芸術家たちは、「欧州」の視点を介することによって、驚異的な芸術要素としての「米州」、「アフロキューバ的なもの」、そして「キューバ性」を「発見」するに至ったのだ。

 しかしこの過程から洩れているものが一つある。それは、上の構図の左端に私が挿み込んだ、現実におけるキューバ黒人(ないし非白人)たちである。これまで述べてきたような音楽ナショナリズムの潮流において支配的だったのは、言うまでもなく「白人」だった。その作曲家達もおそらくみな白人、しかもクラシックの音楽教育を受けて育った人ばかりである。彼らは、抽象としての「アフロキューバ性」を熱心に探索していったが、必ずしもキューバ社会の現実において存在する黒人に対面したわけではない。

とはいえアフロ系キューバ人の文化は、一方的に利用されたのではなかった。次節で検証するように、アフロキューバ的要素を多用した音楽ナショナリズムの興隆は、本節で見たような欧州からの視点によってのみ煽られたのではなく、当のキューバ黒人運動の活性化と、相関して起こった現象だったからだ。

 

 

4. 抽象ではないアフロ・キューバ ――舞台裏――

 黒人はすでに16世紀前半から、スペイン植民地のキューバ島において奴隷として存在した。じきに少数の自由黒人も出てくるとはいえ、社会の底辺としての彼らの立場は、19世紀末の奴隷解放まで変わらなかった。しかし植民地時代を通じて、大衆音楽の世界は黒人の支配するところとなった。この文化に対する白人たちの態度は基本的に蔑視であり、その意味において19世紀末のナショナリスト作曲家サンチェスの反黒人主義は、一つの典型であると言ってもよいだろう。

 

 1898年、キューバ独立戦争はアメリカ合衆国の介入をもって米西玖比戦争となり、その勝者としてアメリカはキューバを事実上保護国化した。その後の度重なる介入によって、キューバの人種関係は悪化した。というのは、黒人層は名目上の「独立」が達成されても彼らの待遇がほとんど変わらないことに不満を鬱積させていたし、片や白人であるアメリカ兵が、本国の厳しい人種的抑圧を派兵先にも敷衍したからである。

 1912年の黒人反乱が為政者や白人に恐怖を抱かせた末に鎮圧されると、翌13年黒人のカーニバルや、そこで演奏される行進音楽コンパルサやコンガは当局に禁止されるまでに至った。

 20年前後になると、このように先鋭化した人種関係が展開した一方で、キューバの輸出経済は空前の好景気を示し、その影響から黒人の社会的上昇が見られるようになった。少数ながら黒人中間層さえ成長したのである。彼らが上昇すればするほど、しかしながら人種差別は悪化した。白人側は自らの立場へと徐々に近づいてくる黒人層を前に、人種的な線引きを強化するという対策に出たのである。

 このような20年代の社会状況を背景として、黒人社会運動が興隆する。ある程度の社会的上昇を遂げた黒人たちは、それまで彼らに決して与えられることのなかった「声」を発するようになったのだ。つまり黒人層が自らの立場を主張し始めたということである。

 具体的にはまず、黒人有産階層の集う社交クラブ・アテナス(Club Atenas)が結成された。またグスタボ・ウルティアは、首府ハバナで発行部数一位を誇る保守派日刊紙『ディアリオ・デ・ラ・マリナ(Diario de la Marina) 』に、数年にわたって前代未聞の黒人コラム「ある人種の理想(Ideales de una Raza)」を連載した。同紙には他に、「調和(Armonías)」という同種のコラムが載せられていた時期もある。

 彼らの主な主張は、黒人の経済的自立の必要であるとか、黒人・有色人の結束強化、そして人種間の調和などであった。アメリカの黒人運動に模範を見、励まされもしたキューバ黒人たちだったが、アメリカ社会に顕著な人種隔離の傾向には強い警戒心をいだいたので、排他的な集団性を高揚したり暴力に訴えたりといった過激な方針は打ち出されなかった。したがってキューバの黒人運動は、自助努力や人種調和の訴えが中心だったのだ。

社会経済的な条件の向上という目標は、しかし、到底容易に達成されるものではなかった。まもなく大恐慌が訪れることになるキューバにおいて、黒人たちには環境への苛立ちを表明するところまでが精一杯であったのだ。後々にまで明白な成果を残したという点では、芸術における黒人主義の方が遥かに先へと到達していた。

 

 文学においては、ニコラス・ギジェン(Nicolás Guillén: 1902-86)が有色人として初めて(彼はムラートだった)詩人として名声を博した。その主題はずばり黒人世界であり、旧来芸術のモチーフとして全く認められなかったものを顕揚するこの姿勢は、当時の前衛文芸誌『前進誌(Revista de Avance)』との間にさえ軋轢をもたらした。ギジェンは思想的には反帝国主義、反人種主義の傾向を強め、1933年革命にも参加、後に共産党に入党する。

 以上のような活動は、前節までで取り扱った白人側のアフロ・キューバ文化への注目とあいまって、黒人主義の(negrista)詩といった分野さえ生みつつあった。しかしその潮流を苦々しく思い、批判的な姿勢を貫いた黒人詩人も他方にはいた。レヒノ・ペドロソ(Regino Pedroso)がまさにそのケースで、彼は黒人社会詩として性格付けられる自らの詩において、黒人文化を賞賛する風潮を批判している。

 

じぶんの楽しみのために

金持ちがお前[黒人]を玩具にしているぞ

そしてパリでも、ニューヨークでも、マドリッドでも、ハバナでも

人形かなんかと同じように

輸出むけに藁製の黒人どもが造られているのだ(…)

 

黒人よ、黒い兄弟よ

おまえのボンゴを鳴らすのを一寸だけ止めてくれ

 

俺達はただの黒んぼなのか?

俺達は陽気な酔っ払いにすぎないのか?

俺達はルンバと黒い色欲とコンパルサだけなのか?

俺達はただ踊りと彩り

踊りと彩りだけなのか?[8]

 

アフロ系キューバ人の文化が賞揚され、白人のクラシック音楽家の作品にも採り入れられ、そして黒人自身の社会・芸術運動が広汎に展開された192030年代という時代は、したがって、無批判に評価するわけにはいかないのである。というのも、黒人の社会運動は具体的な成果という面ではほとんど何ももたらし得なかったし、芸術における黒人礼賛は、金持ちや白人の遊びという性格を拭い去ることができなかった、とも解釈できるからだ。具象としてのアフロ・キューバは、厳しい。

 

 

5. 結論

 キューバ1930年代を彩った音楽ナショナリズムは、クラシックの作曲家達が限りなく大衆文化・アフロキューバ音楽に接近し、現在に至るも名作として聴きつがれる数々の作品をもたらした。

音楽におけるナショナリズムという点では、19世紀のキューバにも既にそのような傾向の「名曲」が紡ぎ出されていた。しかし米州に所在するこの島独自の、「土着」的要素――すなわちアフロ系キューバ人の音楽とフォルクローレ――を組み込んだ「キューバ音楽」が、「上位文化」の音楽家たちに認められ、そして奏でられるようになったのは、192030年代に音楽ナショナリズムが出現してからの事である。

 二つの原因が、この時代に「土着」型音楽ナショナリズムが流行らせていた。一つには欧州の前衛芸術家たちがキューバ人の弟子らに、その故郷であるキューバ、あるいは米州の「土着」的な要素を活用するよう勧めた事実がある。白人音楽家たちは、そこで島に息づくアフロ系キューバの文化を発見、あるいは認知するようになった。

 その一方で当の黒人達は、まさに自らの立場を主張し、その姿を社会的に顕在化させつつあった。論壇や文壇の上で、また社会集団の結束を通して、アフロ系キューバ人は人種間の融和や社会的認知、地位の向上といった理想を訴えつづけたのだ。こうして彼らが現実の社会運動において立ち上がったからこそ、アフロキューバ音楽は音楽ナショナリズムの核心的な要素となりおおせたのである。ただし社会経済的な状況改善には必ずしもつながらなかったのも事実だった。

 

 しかしながらひとたび文化・芸術面を問えば、その成果は明白である。つまり当時黒人がどのような音楽活動を繰り広げていたかといえば、それはまさに驚異的なる現実性であった。クラシックの作曲家がアフロキューバ音楽に没頭したちょうどその頃、大衆音楽の世界では――もちろん前者における音楽ナショナリズムによって二者の境界は曖昧になっていたのだが――数え切れない黒人作曲者・演奏者・歌手がカトゥルラやシモンス、レクオナに並ぶ名曲を誕生させていたのだ。

例えば、現在の「キューバで最も有名な曲」であり、ほとんど国歌のような地位を築いたものに、グアンタナメラ(Guantanamera)があるが、これは街角の歌手ホセイート・フェルナンデス(Joseíto Fernández: 1908-79)が唄い上げた曲なのだ。[9]4050年代にかけて、これに独立の殉教者ホセ・マルティの詩が部分的に加えられ、恐るべき普及ぶりを示した。

 

 上位文化において、いわゆる音楽ナショナリズムの作風として認知されたのは、確かにクラシック畑の白人音楽家の手になる曲であった。一方で、アフロ系キューバ人達は常に社会経済的な苦境に立たされており、その状況は容易には改善しなかった。しかし彼らの活動は音楽ナショナリズムとあいまって、現在につらなるキューバ音楽の豊饒そのものを醸成したのである。

ひとたび大衆音楽に目を転ずれば、30年代以降ジャズとともに世界を吹き荒れたルンバやソン、4050年代に広がったマンボやチャチャチャの潮が、60年代以後のロックの洗礼を受けて今に至るのではなかったか。そしてキューバ大衆音楽界を30年間にわたって支配しつづけたバンド、ロス・バン・バン(Los Van Van: 1969-)20世紀も末になって打ち上げた楽曲において、上述の諸リズムをさらに進化させた「ソンゴ」のうねりに乗りつつ、つぎのように詠った:

 

   1400年コロンブスがやって来て

   この綺麗な島を見つけた

   そこに住んでいたインディオたちは

   時につれ絶滅した

   アフリカ人種が到着すると

   スペイン人種と混ぜ合わされて

   土着の混血娘が生まれた

   キューバ人だ

   それは特異な混血で

   たっぷりのテイストで

   ルンバとワワンコーがお供している

   クラーベの持ち主

   そして32リズムの魔術によって

   わたしたちはかくも特別となった

   何とありがたきこと!

 

(コーラス) わたしたちはキューバ人、スペイン−アフリカ人だ[10]


引用・参考文献

伊神満

「驚異的現実の誕生と復活――アレホ・カルペンティエール『キューバの音楽』について――」(未刊行「イスパノアメリカ文学講義(竹村文彦)」レポート,東京大学,2000年).

カルペンティエール,アレホ,石井康史訳,

  「『エクエ・ヤンバ・オ』序文、その他」『現代思想』増刊「ラテンアメリカ」(?).

村上龍,

  『新世界のビート――快楽のキューバ音楽ガイド』河野治彦(データ執筆)(新潮社,1993年).

Alfonso Hernández, Carmen R.,

100 Questions and Answers about Cuba (La Habana: Pablo de la Torriente, Editorial, 1996).

Béhague, Gerard H.,

    “Music, c.1920-c.1980” in Leslie Bethell, ed., A Cultural History of Latin America (Cambridge: Cambridge University Press, 1998).

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    La Música en Cuba (México: Fondo de Cultura Económica, 1946).

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    José Martí Obras Escogidas, Tomo II: 1885 – octubre 1891 (La Habana: Editora Política, 1979).

Chang-Rodríguez, Eugenio,

    Latinoamerica: su Civilización y su Cultura (Rowley: Newbury House Publishers, 1983).

Chao, Ramón,

    Conversaciones con Alejo Carpentier (Madrid: Alianza Editorial, 1998).

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    Modernismo y Vanguardia: Coordenadas de la Literatura Hispanoamericana del Siglo XX (New York: Las Americas Publishing Co., 1967).

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“Marcus Garvey in Cuba: Urrutia, Cubans, and Black Nationalism” in Brock and Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire.

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“Cuban Social Poetry and the Struggle against Two Racisms” in Brock and Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire.

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“The African-American Press and United States Involvement in Cuba, 1902-1912” in Brock and Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire.

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“CuBop! Afro-Cuban Music and Mid-Twentieth-Century American Culture” in Brock and Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire.

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    Diccionario de la Música Cubana: Biográfico y Técnico (La Habana: Editorial Letras Cubanas, 1992).

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“Cuba’s Roaring Twenties: Race Consciousness and the Column “Ideales de una Raza” in Brock and Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire.

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    Cuba: or The Pursuit of Freedom (Updated ed., New York: Da Capo Press, 1998).



[1] Alejo Carpentier, La Música en Cuba (México: Fondo de Cultura Económica, 1946), p. 182.

[2] Pregónと呼ばれ、キューバ音楽の一つのジャンルにまでなった。

[3] Celedonio González, “Los Famosos del Siglo XX Cubano,” Enfoque Metropolitano (Miami: Marzo 21 del 2000, No.3), p. 2.

[4] Alma Rosa, Sarada (France: Pygmalion Records, 1993). これがどちらの作曲家のものなのか私には今のところ分からない。或いは他の音楽家の曲かもしれない。しかしいずれにせよ、彼らの主題とした「ベンベ」がアフリカゆかりの事物だという点は明らかである。

[5] Helio Orovio, Diccionario de la Música Cubana: Biográfico y Técnico (La Habana: Editorial Letras Cubanas, 1992), p.190.

[6] Carpentier, op. cit., p. 354.

[7] 30年前後に音楽が示した傾向を、文学においてカルペンティエールはそのまま反復して見せる。40年代に書かれた『この世の王国(El reino de este mundo)』において彼が表明した「驚異的かつ現実的なるもの(lo real maravilloso)」論――すなわち「アメリカ」(米州全体のこと)には「驚異的なものなど日常茶飯である」という命題――がそれである。Ramón Chao, Conversaciones con Alejo Carpentier (Madrid: Alianza Editorial, 1985), p.182.

 欧州と米州を二分法的に対比したこの議論に内在する矛盾と、そこに「阿米(アフロ・アメリカ)」という第三項を持ちこむことで可能となる超克とについては、伊神満「驚異的現実の誕生と復活――アレホ・カルペンティエール『キューバの音楽』について――」(未刊行「イスパノアメリカ文学講義(竹村文彦)」レポート,東京大学,2000年)を参照。

[8] Regino Pedroso, “Negro, hermano Negro,” in Regino Pedroso, Poemas (Havana: Bolsilibros Unión, 1966), pp.99-100, (cit. in Carmen Gómez García, “Cuban Social Poetry and the Struggle against Two Racisms” in Lisa Brock and Digna Castañeda Fuertes, eds., Between Race and Empire: African-Americans and Cubans before the Cuban Revolution Philadelphia: Temple University Press, 1998, pp. 222-223.)

[9] Carmen R. Alfonso Hernández, 100 Questions and Answers about Cuba (La Habana: Pablo de la Torriente, Editorial, 1996), p.103.

[10] Autor: Juan Formell, Letra: Samuel Formell, “Somos Cubanos,” en Los Van Van, Llegó…Van Van, New York: Atlantic Recording, 1999).