リッキー&960ポンド その2 マジョリー参加・新編成 |
BGMは 当時のレパートリーから 「1900 Yesterday」 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
ボーヤのキー坊 → 後に浅野ゆうこさんの 「セクシー・バスストップ」 とかいう曲(?)のとき バックの踊り&コーラスで テレビに出るようになった。 |
ボーカル 元・劇団青年座。バンド解散後、 「アンクルリッキー&ファミリー」として 再デビューし、テレビにも出ていたが 1979年、26歳で天国へ。 ↓ |
トロンボーン 彼も若くして天国へ。 ↓ |
ギター&キーボード バンド解散後、トッポと一緒に 新宿「ルイード」にも出ていた。 私の高校時代の仲良しと結婚し、 ← 今は息子達がバンド活動 |
ボーカル この、まんまる顔、 ←どこかで見たことが・・・ まさか私ではないでしょうね |
↑ トロンボーン 数ヶ月でリッキーバンドを辞め 「原信夫とシャープ&フラッツ」へ。 その後アレンジャーとなり 音楽プロデューサーとして TBS「サウンド・インS」 なども手がけ大出世。最近では 氷川きよしのアレンジも。 |
↑ ボーカル・W子 元スクールメイツで 「プラチナ・ゴールデンショー」にも 出ていた。スピッツから私と一緒に リッキー&960ポンドに参加。 |
ボーカル3人娘達 GSのように、合宿と称し、 四谷4丁目のマンションで共同生活 ハコが終わって帰ると明け方。 朝寝て夕方起きる生活でした。 |
![]() |
![]() |
![]() |
1973年春、スピッツはマネージャーともども ステップアップしていく為の方針を 事務所移籍も念頭に置き、検討していた。 他の事務所の、知り合いのマネージャー達にも 相談し、いくつかのプロダクションから オファーもあり、ミーティングを重ねる中、 5月に「リッキー&960ポンド」の ベース奏者からTELがあり、 その後、スピッツのマネージャー、 960ポンドのマネージャーからもTELがあり スピッツは「リッキー&960ポンド」の ボーカルとして、メンバーになることに 話が決まりつつあると。 以前から、バンドをやりたかった私には 夢のような話だった。 その後、リッキーさんにも会って話が進み、 結局スピッツから私とW子、2人だけが 960ポンドに行くことに決定。 当時「リッキー&960ポンド」は 大人っぽい女性のツインボーカルで 「恋のマリアンヌ」などレコードも出ていたが 諸事情によりボーカルのメンバーチェンジを することになったのだった。 その後すぐ、もう一人女の子のボーカルが加入、 新編成の「リッキー&960ポンド」として 7月から四谷スタジオでレッスン開始。 メンバーは、ボーカル3名(女)に ギター/キーボード、ベース、 トロンボーン2名、リーダー・リッキー中山の 合計8名。 1973年8月〜10月は ハコ(赤坂「ポテトクラブ」)に入ったため それまでの夜遊び生活が一転し 夜は仕事、昼夜逆の生活になった。 |
![]() |
←この、ブルーラメのパンツスーツの衣裳は 当時ピープル/ローズマリーが着ていたものとお揃い。 ピープル/ローズマリーのリーダー、元オックスのトシオさんに紹介して頂き、 同じデザイナーの先生にお願いした。 上の写真は、ラメのパンツには色が合わないにもかかわらず この仕事のスポンサーの商品であるシャツ(ボディスーツ)を着せられている。 |
1973年10月21日 天風会創設55周年 記念パーティ (東京プリンスにて) 写真左から 蟹江(ベース) 私(ボーカル) 合気道の偉い先生 タミ(ボーカル) |
1973年10月10日 徳島・丸新デパートにて バンマスのリッキーさんが ドラムセットに隠れて 写ってない!! |
1973年9月26日 千歳空港付近 前日、札幌プリンスホテルで 仕事をした帰り。 |
![]() |
髪の毛の メッシュが 流行っていた。 それにしても 顔、白過ぎ。↓ |